名前 | 魏(戦国) |
建国と滅亡 | 紀元前403年~紀元前225年 |
時代 | 春秋戦国時代 |
年表 | 紀元前403年 周の威烈王から諸侯に任ぜられる |
紀元前293年 伊闕の戦い | |
紀元前273年 華陽の戦い | |
コメント | 戦国時代の初期は覇権国だったが転落し秦に滅ぼされた |
魏は戦国時代の初期の頃は、戦国七雄の中でも最強国でした。
魏の文侯の時代には李克、呉起、西門豹など多くの賢臣が集まり、国を盛り立てたわけです。
しかし、魏の恵王の時代になると東西で秦と斉に敗れ国力は停滞し、最強国の座から滑り落ちる事になります。
さらに、魏は秦の白起らに次々に領土を奪われました。
魏の後期に信陵君が現れて五カ国の連合軍を率いて秦軍を破りますが、結局は秦の王賁により大梁の城を陥落させられ紀元前225年に滅亡しました。
魏は戦国時代の初期は最強国であり中原の大都市を保有していたにも関わらず、結局は秦に滅ぼされてしまったのです。
今回は戦国時代の魏がどの様にして興隆し衰退し滅んだのか解説します。
尚、魏以外の戦国七雄は下記の通りとなっています。
魏の始祖畢高
魏の始まりですが、周の文王の子である姫高が始祖となります。
兄である周の武王が牧野の戦いで殷の紂王を破り天下人となります。
この時に、周の武王は弟の姫高を畢に封じました。
封建された事で、畢公高と呼ばれたり畢高と呼ばれたりする様になります。
伝承によれば畢高の子孫が魏王家と繋がっている事になっています。
ただし、系譜が伝わっているわけではなく、三国志の劉備が中山靖王劉勝の子孫を名乗るとの似たような感じなのかも知れません。
魏氏を名乗る
西周王朝の時代に畢の国は衰退し、子孫の畢万は晋の献公に仕えました。
晋の献公に仕えた畢万は晋が霍・魏・耿の小国を滅ぼした時に功績があり、魏に封じられる事になります。
これにより畢万の子孫は魏氏を名乗る事になりました。
尚、畢万が魏に封ぜられた時に、郭偃が魏が強大になる事を予言した話があります。
郭偃の預言は成就され晋の六卿の家となり、最後は晋の公室よりも強大となり独立し、戦国七雄の一角を担う事になります。
晋の混乱
晋の献公は多くの諸国を滅ぼしましたが、驪姫を寵愛した事で、晋では後継者問題が勃発する事になります。
後継者争いは大夫たちの動きもあり先が読めない状態でした。
こうした中で、魏犨が晋の公子である重耳に仕える事になります。
魏犨は嫡子ではなかった記述があり、魏氏の一族で相談し、リスク分散の為に様々な晋の公子に仕えさせたとみる事も出来るはずです。
後に驪姫が本性を現し強引に奚斉を後継者にしようとしました。
驪姫の強引なやり方で太子の申生が自刃し、重耳と夷吾は亡命する事になります。
重耳の19年にも及ぶ亡命生活に魏犨は同行しました。
魏犨は重耳の車右となりますが、曹を攻めた時に命令違反をし釐負羈に危害を加えた為に、車右を解任されています。
しかし、魏犨の時代から魏氏は晋の大臣として力を持つ様になっていきます。
魏氏が安邑を本拠地とする
紀元前573年に晋の悼公が即位しました。
晋の悼公は魏犨の子である魏絳を重用する事になります。
晋の悼公は魏絳の功績を認め安邑を下賜しました。
安邑が魏の本拠地となり発展して行く事になります。
魏は後に東西に領地を持つ事になりますが、魏絳の時代から魏の恵王の時代までは、魏の本拠地は西方の安邑でした。
魏絳の時代に六卿の他に新軍が設置され、魏絳が新軍の佐となります。
これにより魏も晋の六卿に名前が連なる事となります。
ただし、新軍は後に廃止されました。
六卿の戦い
晋の悼公が亡くなり、晋の平公が紀元前557年に即位すると、晋では六卿と呼ばれる六人の大臣が強大になり、公室は日々衰えて行事になります。
春秋時代の末期の頃には、晋の公室は曲沃と絳を領有するだけで、残りの土地は全て范氏、中行氏、智氏、魏氏、韓氏、趙氏ら六卿の手に落ちる事になったわけです。
六卿の中でも、范氏と中行氏が脱落し、智氏、魏氏、韓氏、趙氏の争いとなりました。
紀元前453年の晋陽の戦いで、六卿の最大勢力である智氏は、魏氏と韓氏を引き連れて趙氏を攻撃しましたが、魏駒と韓虎は趙に寝返り、逆に智氏を滅ぼしています。
六卿の権力争いを勝ち抜いた趙、魏、韓が晋を三分割する事になりました。
春秋時代と戦国時代の分かれ目をいつにするのかは、様々な説がありますが、一つの説が晋陽の戦いが終わった紀元前453年となります。
魏が勢力を伸ばす
名君魏の文侯
戦国時代が始まると、戦国時代の初期に勢力を伸ばしたのが、魏だったわけです。
魏に名君である文侯が現れました。
魏の文侯の時代は、西門豹、李克、呉起、楽羊など優れた人材が魏に集まり、国力を大きく伸ばしています。
さらに、魏の文侯は孔子の弟子である子夏や田子方、段干木らを師として名声を高めました。
他にも、魏成子、翟璜などもおり豊富な人材と、中原の大都市を所有する強みを生かして勢力を拡大させる事になります。
さらに言えば、魏の文侯の時代に呉起の活躍もあり、魏は対秦戦争を有利に進め領土を拡張しますが、趙と韓は斉や楚に苦戦し大した成果を挙げる事が出来ませんでした。
魏の対秦戦争の成功により、魏が三晋の最大勢力としてのし上がる事になります。
魏の文侯は晋の公室の権威を上手く活用し、勢力を伸長させてもいます。
魏は安邑を本拠地としますが、安邑は晋の首都である絳に近い事もあり、晋の公室に多大なる影響力を及ぼす事も可能でした。
名目上とはいえ、魏、韓、趙は晋の配下であり、魏の文侯に逆らえば晋の公室に異を唱える逆賊認定も可能だったわけです。
晋の幽公が盗賊に殺害された話もありますが、実際に晋の幽公を暗殺したのは魏の文侯であり、晋の烈公を晋公にする事で、さらに晋への影響力を強めたともされています。
晋の幽公が殺害された時に、魏の文侯は安邑におり、単独で晋の混乱を収束させたのも大きかったはずです。
安邑は絳に近く地の利を生かしたと言えるでしょう。
尚、魏が六卿に名を連ねたのは趙や韓よりも遅く、権威付けの為には晋の公室を使うのが最善だったとする見解もあります。
魏は飛び地が多かったわけですが、韓、魏、趙が晋の公室の配下になっている間は、晋の公室の権威を利用する事で移動も可能であり、それほど問題にならなかったのではないかとも考えられています。
李克の政治
魏が勢力を伸ばすにあたってキーマンになったのが李克となります。
李克は「地力を尽くす教え」を魏の文侯に説き平糴法を行い市場の安定に努めました。
平糴法を実施すると貧困に苦しむ農民が減り、生活が向上した事で魏の生産力も上がったわけです。
李克は「法経」も制定し戦国時代初期の魏の隆盛には、李克の政治改革が大きく影響しました。
李克は呉起の様に戦場での目立った活躍はありませんが、魏の国力増強に大きく貢献したわけです。
李克は儒家を習いましたが、実践した事は法家であり、商鞅よりも先に法整備を充実させ魏を強国としました。
商鞅は魏から秦に移ると一から法律を組み上げた様に思うかも知れませんが、実際には魏で法律を学び李克の「法経」などがベースになっていると考えられています。
魏が諸侯となる
竹書紀年や繁年によると、紀元前404年に趙や韓と共に晋の烈公を盟主として、斉軍を多いに破りました。
晋の烈公は名こそは魏、韓、趙よりも上の存在ですが、領地を殆ど持っておらず、実質的には魏の文侯の力で斉を破ったと言えるでしょう。
魏の文侯は斉の康公や斉に味方した魯・衛・宋・鄭の君主を引き連れて、周の威烈王に参朝しました。
これにより周の威烈王は魏、韓、趙の三氏を諸侯として認めたとも考えられています。
魏は晋の公室や周王朝の権威を利用する事で、勢力を拡大させた部分も多分にあったわけです。
ただし、晋の公室が「公」に対し、魏、韓、趙はあくまでも「侯」であり、一段下の爵位だという事が分かります。
それらを考慮すると、魏、趙、韓は周の威烈王により諸侯として認められましたが、立場としては晋の公室よりも下だったとする見解もあります。
竹書紀年の記録を見ても、趙、魏、韓が紀元前403年以降も晋の大臣とする立場を取っていた様にも見受けられます。
周王朝に諸侯を引き連れて参朝する辺りは、春秋時代の覇者体制の復活を魏が目指していた様にも見えるはずです。
紀元前403年には周王室が趙、魏、韓を諸侯として認めた事で、趙、魏、韓は完全に晋から独立する事になります。
紀元前403年までは魏・韓・趙は名目上は晋の配下でしたが、これを境に名実ともに諸侯となりました。
ただし、魏、韓、趙の共通の敵でもある斉を破り、東周の王室に参朝した事は、共通の敵である斉がいなくなった事でもあり、魏、韓、趙の関係が微妙になって行く時期でもあります。
魏の文侯が亡くなると武侯が魏の君主となりますが、この時代も魏は強大だったわけです。
尚、紀元前391年に魏、韓、趙の連合軍が楚を破り魏は大梁を手に入れています。
魏の武侯が没した時に、魏では後継者争いがあり、斉と趙が介入し魏が二つに分裂する危機となります。
しかし、斉と趙の思惑にズレが生じた結果として、魏は分裂を防ぐ事が出来ました。
それでも、魏が分裂の危機にある紀元前369年に、趙と韓は晋の公室を絳から屯留に遷し、紀元前367年には東周を東西に分割しています。
これにより魏は晋の公室や東周の王室を使っての覇者体制の維持が困難となってしまいました。
晋の公室の権威が消失すると、晋の権威を使って三晋を纏めるのが困難となっていきます。
魏の全盛期
魏の恵王の時代になると、趙、韓、宋などの周辺国を破るなど、天下に威勢を見せつけています。
魏の恵王は逢沢に東方の諸侯を集め自らを夏王とし、天子を称したとあります。
ただし、既に魏は晋の公室や周王室の権威を利用する事が出来なくなっていたのが、魏の恵王の「夏王」に繋がったのではないかともされています。
この時が魏の全盛期でもあり、戦国七雄の最強国は間違いなく魏だった事でしょう。
夏王を名乗る辺りは、魏の恵王は天子気取りでもあったわけです。
魏の恵王の治世の前半が魏が最も強大だった時代となります。
しかし、魏は韓と共に天下の中央に領地を持ってはいましたが、未開の地が少なくなり戦国七雄の全ての国と隣接している事から難しい状態に陥っていきます。
魏は最強国でありながら、全方位に敵を抱えている状態でもありました。
戦国時代は鉄器時代となっていましたが、春秋時代に天下の中央に土地を持っていた周王朝の一族が衰退し、周辺国の斉、晋、楚、秦が発展したのと似ている状態です。
魏は領地拡張の伸びしろが少なく困難な状況に陥って行く事になります。
魏の恵王の前期は全盛期ではありましたが、衰退の兆しも見えていたわけです。
尚、魏の恵王は諸侯を逢沢に集めた時に「王」を名乗ったともされていますが、後に斉の威王と互いに王と呼び合い、この時に名実共に王になったともされています。
飛び地が多い魏の領土
(画像:YouTube)
上記の図を見ると分かりますが、魏は飛び地が多い事が分かります。
魏の東部と西部の間には韓がいますし、中山国も領有しましたが、趙と燕に囲まれた飛び地となっているわけです。
魏は強大な国力を生かし取れると思った領土は全て支配下に治めようとした結果として、飛び地が多くなってしまったとも考えられています。
飛び地が多い状態では、国家が一丸となって他国と対峙する事は難しく、援軍を送るにも他国に道を借りねばならないなど困難な状態でもありました。
東と西の領地の間に韓がいるなどは戦略上のマイナス要因だと言えるでしょう。
魏が飛び地が多いのは、范雎が説いた遠交近攻の考えがなかったのが原因なのかも知れません。
国境線の長さは軍事に資金が流入しやすく国家衰退の原因になったりもします。
魏の文侯の時代に、楽羊が中山国も攻め落としたわけですが、結局は、中山国の独立を許す事になります。
尚、魏の文侯が趙の烈侯に中山を討ちたいと述べ道を借りようとした時に、趙利が「魏が中山を占領しても飛び地で維持する事は出来ない」と述べた話しもあります。
趙利が趙の烈侯に述べた言葉は現実となりました。
この飛び地の多さが魏の衰退の原因になったとする指摘もあります。
覇権国からの転落
魏は紀元前364年の石門の戦いで秦軍に大敗を喫しました。
さらに、魏は斉の田忌と孫臏のコンビにより、桂陵の戦いで敗れ紀元前342年の馬陵の戦いでは、斉の軍師となった孫臏の計略の前に大敗を喫しました。
この頃に、秦では商鞅の改革により国力の増強に務めていたわけです。
商鞅は最初は魏の宰相である公叔座に仕えていましたが、魏の恵王は商鞅を用いる事が出来ずに、商鞅は秦に移って行った過去があります。
魏は歴史的な逸材である商鞅を秦に走らせてしまいました。
紀元前340年には秦の宰相である商鞅が自ら将軍となり、魏に攻撃を仕掛けてくる事になります。
魏軍の大将である公子卬は、商鞅の騙し討ちにあい、魏軍は秦軍に大敗し河西の地を割譲し和睦しました。
魏の恵王の前半は魏は戦国七雄の最強国でしたが、斉と秦に大敗した事で大いに国力を落し宰相国の座から転落してしまったわけです。
魏が没落した事で、戦国時代中期の秦・斉の二強時代へと移行する事になります。
魏の恵王は敗戦により天子気取りをやめ鄒衍、淳于髠、孟子などを招き礼遇しました。
しかし、魏の衰退は歯止めが掛からない状態となります。
大梁に遷都
史記では魏の公子卬が秦に大敗し西河の地を割譲した事で、紀元前339年に魏の恵王は安邑を放棄し東の大梁に遷都した事になっています。
この事に関しては、下記の動画が詳しいです。
竹書紀年によると、紀元前365年の段階で、既に大梁に遷都した事になっています。
竹書紀年は史記よりも古い歴史書であり、魏の歴史について書かれている事から、竹書紀年にある紀元前365年には既に魏は大梁に遷都したと考えるべきでしょう。
魏が遷都した理由ですが、中原からやや外れている安邑よりも、巨大都市が集まる中原の大梁に遷都し、経済力を強める事で国力を高めようとした結果でもあります。
大梁に遷都してからの、魏は「梁」とも呼ばれる様になりました。
ただし、中原の大都市は経済的にも軍事的にも独立性が強く独自で貨幣を発行しているなど、統制が利かない部分も多々あったわけです。
尚、魏が東に移った事で、秦にとってみれば、魏の西部の都市は刈り取り場と化したとも考えられています。
中原の大都市は独立性が強く他都市への援軍は嫌う傾向にあります。
魏の都市は中原に位置する韓と同様に、秦に各個撃破されて行く事になります。
魏の襄王の時代
魏の襄王の時代になると、秦の樗里疾により曲沃が攻撃を受けました。
春秋時代の晋は分家である曲沃から始まっており、晋の大部分を受け継いだ魏にとっては、曲沃は重要都市でもあったはずです。
しかし、魏の襄王の時代には曲沃にまで攻撃を受ける事となり、斉にも観津の戦いで敗れています。
魏は秦に河西と上郡を割譲しており、黄河よりも西の地の大半を手放した事になります。
魏は楚から土地を奪い東方の領土を拡大する事に成功しましたが、魏の襄王の時代には、西方の領地は風前の灯火だったわけです。
尚、魏の襄王の時代に秦で活躍した張儀が亡命してきたり、犀首(公孫衍)や孟嘗君が魏にやってきた話しがあります。
それらを考慮すると、劣勢に立たされた魏にも何かしらの魅力があったのでしょう。
因みに、孟嘗君は斉・韓・魏の合従軍を組織し、函谷関を抜くなどの活躍もしました。
魏の昭王の時代
魏の昭王の時代である、紀元前293年に魏・韓・周の連合軍が伊闕で秦に24万の大損害を被る程の大敗北を喫しました。
伊闕の戦いでは秦の白起の采配が冴えわたり、魏・韓・周の連携がうまく取れず大敗北を喫したわけです。
魏は秦に河東の六百里を割譲したとあり、魏は黄河の東にまで秦の侵攻を許した事になります。
河東の地は魏の元の首都だった安邑があり、魏の凋落が明らかになった時期でもあります。
さらに、紀元前289年には秦の白起が魏の大小61の城を抜くなど大損害を被りました。
しかし、紀元前284年に燕の昭王が発案した楽毅率いる合従軍(燕、趙、秦、魏、韓)には参加し斉軍を済西の戦いで破っています。
ただし、合従軍を結成した翌年である紀元前283年には、魏の都大梁が秦軍により包囲されました。
秦軍は済西の戦い後に撤退しましたが、何かしらの理由で帰途に魏の大梁を囲んだのかも知れません。
大都市である大梁を秦は落とす事が出来ず撤退しています。
魏の安釐王の時代
魏の安釐王の時代になっても、秦の攻勢を食い止める事は出来ませんでした。
魏の安釐王の2年には首都の大梁が包囲されたわけです。
秦軍は魏の首都である大梁まで攻め込む事が出来る状態となっていました。
大梁を囲んだ秦ですが、韓が救援に駆け付け、魏の方でも温の地を秦に割譲した事で和睦が結ばれる事になります。
魏が秦に国都を囲まれてしまった理由ですが、魏は晋の後継国だと自認しており、春秋時代からのライバル国である秦に頭を下げる事を嫌った事が原因だとも考えられています。
戦国時代を見ると、戦国七雄の中で魏だけは秦に対し強硬に戦いを続け、戦国時代は秦と魏の戦いだったのではないか?とする見解もある程です。
それらの理由から、魏は秦に頭を下げる事を嫌い首都まで方位されたとも考えられているわけです。
紀元前273年に秦は魏冄、白起、胡傷らが魏、韓の連合軍と戦いました。
これが華陽の戦いとなりますが、魏・韓の連合軍は大敗北を喫し15万の兵を失い魏の将軍である芒卯は敗走しています。
安釐王は後に斉や魏に攻められると唐且が使者となり、秦から援軍を引き出しています。
魏の安釐王は秦に感謝し、秦と和親し韓に奪われた領地を取り戻そうとしますが、諫められた話があります。
信陵君が秦軍を破る
魏の安釐王の時代ですが、信陵君が秦軍を二度に渡り破った話があります。
最初に信陵君が秦を破ったのが紀元前258年である趙への援軍となった時です。
長平の戦いで大敗北を喫した趙は、邯鄲を秦に包囲され滅亡寸前でありました。
魏の安釐王は秦に手痛い敗北をしており、趙への援軍として晋鄙を派遣しますが、国境から軍を北上させる事は無かったわけです。
趙の平原君の妻が魏の信陵君の姉であった事から、信陵君は趙を救う為に晋鄙の兵権を奪い取り、強引に趙を救ってしまいました。
楚の春申君の援軍もあり、趙は無事に救われたわけです。
しかし、信陵君は趙は救い功績はありましたが、魏の安釐王にとってみれば、信陵君は余計な事をしたのであり、魏に帰る事が出来なくなり趙で過ごす事になります。
信陵君の行為に怒ったのが秦であり、魏は秦に苦しめられますが、信陵君が10年後に魏に帰国しました。
紀元前247年に信陵君は魏、趙、韓、燕、楚の合従軍を率いて、黄河の外で秦の蒙驁を破る功績を挙げています。
信陵君が秦を破ったのは、魏の最後の輝きとも言えるでしょう。
魏の滅亡
史実の魏の滅亡
秦は信陵君が手強く名声もある事を知ると、魏の安釐王と信陵君に離間の計を仕掛けました。
離間の計が功を奏し魏の安釐王は、信陵君の上将軍の位を剥奪し、信陵君は酒と女性を近づけ没しています。
信陵君が亡くなると、秦は蒙驁に命じて魏を攻撃し、東郡を設置しています。
(紀元前238年の勢力図)
上の地図を見ると分かりますが、秦の領土は遂に東の斉と接する様になりました。
魏では景湣王が即位し、春申君と龐煖の合従軍にも参加しましたが、秦から領地を奪う事は出来なかったわけです。
景湣王の時代には汲、垣、蒲陽、衍などの都市が抜かれ、魏は大梁だけを領有する事になってしまいました。
紀元前230年には騰により韓が滅亡し、紀元前228年には王翦、楊端和、羌瘣が趙の首都邯鄲を陥落させています。
趙は幽穆王は捕虜となってしまい、趙嘉が代王となり亡命政権が築かれましたが実質的には滅亡しており、三晋は魏のみが生き残っている状態となりました。
この時には秦は天下統一の最終段階に入っていたと言えるでしょう。
魏の最後の王である魏王仮が紀元前228年に即位しますが、紀元前225年に秦の王賁が首都の大梁を包囲する事になります。
王賁は黄河を利用し大梁を水攻めし三カ月で、魏王仮が降伏した事で魏は滅亡しました。
尚、魏は大梁が陥落し魏王仮も捕虜となり滅亡しましたが、過去に魏王から封じられた安陵君は頑なに土地を守ろうとし、唐且を使者として派遣し秦王政を脅した話があります。
魏王家は滅びましたが、滅亡後に安陵君と唐且が意地を見せたとも言えるはずです。
魏の滅亡に関する司馬遷の見解
司馬遷は史記の魏世家に、魏が滅びた事への見解が述べられています。
司馬遷は実際に大梁の遺跡まで赴き現地調査も行った事も分かっています。
司馬遷は多くの論者が「信陵君を用いなかったから魏は滅亡した」と述べていると記述した上で、次の様な結論を出しています。
※史記魏世家より
天が海内を平定しようとしており、秦が統一出来なかったのは機が熟していなかっただけの事だ。
魏に阿衡(伊尹)の様な人物がいたとしても、滅亡から逃れられる事は出来なかったであろう。
司馬遷の言葉からは魏が滅びるのは天命であり、信陵君では救う事は出来ないし、殷の湯王に天下を取らせた伊尹の様な臣下がいたとしても滅亡は逃れられなかったと述べているわけです。
天が魏を滅ぼしたとするのは、司馬遷の思想を表しているとも言えます。
実際に、秦は中央集権化が進んでおり、中央集権化を実現出来なかった魏では太刀打ちするのは難しかったはずです。
魏の滅亡要因
魏は文侯や武侯の時代には覇権国だったにも関わらず、衰退した理由は、中原に位置したが故に発展する土地が少なかったのが原因とも言えるでしょう。
魏は戦争で他国から領地を奪う意外に発展の余地が無くなってしまい滅亡に繋がった話は、多くの識者の間で共通しています。
魏は飛び地が多く国境線が極めて長かったのも魏が滅んだ原因ともされています。
しかし、魏の恵王の後期から秦は魏に対し優勢であったにも関わらず、秦が魏を滅ぼすのに数十年必要としたいう事実もあります。
ある意味、秦は魏よりも優位に立ってから100年弱ほどで、漸く滅ぼした事にもなるわけです。
秦が魏を滅ぼすのに時間が掛かった理由ですが、魏は大都市を所有しており、防備に優れており秦は陥落させるのに時間が掛かったとも考えられています。
さらに、魏の大都市では防衛に力を入れており、都市を防衛する軍事能力が極めて高かったとも言われています。
信陵君の様な天下に名が通った名声のある人物であれば、大都市も言う事を聞く可能性もありますが、魏の他の都市を助けるなどの意識は低かったのではないか?とも考えられます。
秦は魏の大都市に苦戦しながらも確固撃破し、魏は大都市を中央集権化に向かわせる事が出来ず滅亡したともされています。
秦は中央集権が上手く進み国として一致団結し、戦国七雄の国と対峙する事が出来たのが大きいと言えるでしょう。
魏の滅亡の動画
魏の滅亡を題材にしたゆっくり解説動画となっています。
題材は魏の滅亡ですが、魏の歴史が学べる内容となっているのが特徴です。
その後の魏
魏は紀元前225年に滅び秦は紀元前221年に斉を滅ぼし天下統一しました。
秦王政は始皇帝を名乗る事になります。
しかし、始皇帝の死後に胡亥が即位すると、陳勝呉広の乱が勃発しました。
再び動乱の時代になりますが、周市が魏王家の後裔である魏咎を陳勝の許可を取り魏王に擁立しています。
魏咎は魏王とはなりましたが、後に秦の章邯に敗れ焼身自殺しています。
魏咎の死を聞くと一族の魏豹が魏王を名乗る事になります。
項羽が秦を滅ぼすと魏豹は領地が削られ西魏王となり、漢の劉邦に接近しました。
劉邦と魏豹は彭城の戦いでは共闘しますが、魏豹は劉邦と手を切り韓信の討伐を受ける事になります。
魏豹は韓信に敗れ魏は没落したかに見えました。
しかし、魏氏の一族である薄姫が劉邦の側室となり、劉恒を生む事になります。
劉邦が亡くなると呂后の大粛清が始まりますが、薄姫は劉邦から寵愛されておらず、劉恒も与えられた土地が代の僻地であったために、呂后の粛清対象には入らなかったわけです。
後に陳平と周勃らにより、呂后の一族が滅ぼされると漢の大臣らは劉恒を皇帝に選びました。
劉恒は漢の文帝であり、女系ではありますが、魏王家の血筋が流れているわけです。
漢王室と魏王室の血統は混ざり合ったと言えるでしょう。
魏の歴代君主一覧
晋の配下時代
畢万ー(芒季)ー魏犨(魏武子)ー魏絳(魏昭子)ー魏舒(魏献子)ー魏取(魏簡子)ー魏侈(魏襄子)ー魏駒(魏桓子)
諸侯時代
魏斯(文侯)ー魏擊(武侯)
歴代魏王