春秋戦国時代

韓(戦国)は本当に弱小国だったのか

2024年1月8日

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宮下悠史

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名前韓(国名)
時代春秋戦国時代
年表紀元前455年 晋陽の戦い
紀元前403年 諸侯として認められる
紀元前293年 伊闕の戦い
紀元前230年 秦の内史騰により滅亡
コメント戦国七雄最弱だと言われる事が多い

韓は戦国七雄の一角を担う国であり、豊かな地である中原を本拠地としました。

韓は春秋時代の晋国からと共に分裂した国でもあります。

しかし、戦国七雄の中でも韓が最も地味で目立たない存在ではないでしょうか。

戦国七雄の中では天下統一しましたし、は春秋時代からの大国で晩期には項燕李信率いる秦軍を破りました。

は戦国時代の中期に秦・斉二大強国時代を築きましたし、は昭王の時代に楽毅を用いて斉を壊滅状態にしています。

魏は戦国時代の初期は最強国であり、魏の文侯の元に多くの名臣が集まりました。

しかし、韓は何をしたのか?といえば、思い浮かばない人も多い様に感じています。

韓が戦いをすれば、連戦連敗と言ったイメージが強く、戦国七雄の中で韓だけが見せ場が無いと言ってもよいでしょう。

春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムでも函谷関の戦いで、韓の成恢なる将軍が登場しましたが、張唐に斬られて戦死しました。

キングダムの合従軍篇で各国の軍の総大将の中で唯一戦死したのが韓の成恢となっています。

こうした事情もあり、韓は「弱い」「戦国七雄最弱国」などのイメージがついてしまった様にも感じています。

しかし、韓が位置する場所を考えると、中華で最も豊かな地である中原を魏と共に支配している現実もあるわけです。

さらに、戦国時代を代表する遊説家である蘇秦は「韓の武器は強力」だと述べています。

今回は豊かな地と強大な武力を持ちながら、なぜ韓が滅びてしまったのかを韓の史実の歴史を交えて解説します。

尚、韓の末期に法家の集大成とも呼べる韓非子が現れ、劉邦の軍師となる張良も韓の大臣の家柄です。

戦国七雄の韓の時代には報われませんでしたが、韓非子や張良は後世の歴史に大きく影響を与えました。

因みに、中国の歴史を見ても国名を「韓」としたのは、戦国時代の「韓」だけとなります。

朝鮮半島南部に三韓と呼ばれる馬韓弁韓辰韓がありますが、戦国時代の韓とは関係がありません。

尚、韓以外の戦国七雄の国々は下記の通りとなっています。

韓の歴史

晋の六卿

史記の韓世家の記録を見ると、韓の祖先は周と同姓で姓は「姫」だったとあります。

ただし、別説では韓は晋の公室から別れた分家だとされており、この辺りははっきりとしません。

しかし、韓の始祖とも言うべき韓万が晋に仕えていた事は間違いなく、晋の武公により韓原の地に封じられました。

韓原の「韓」をとり韓氏となったのでしょう。

韓は晋では六卿の一席を持つ様になり、権勢を得る事になります。

晋の景公の時代に韓厥が没落した趙氏を救った話があります。

韓厥がいなければ、戦国時代のは存在しなかった事にもなります。

韓厥や子の韓起などは清貧を貫いた様な話もあり、こうした韓氏の態度を評価したのが呉の季札です。

季札は晋は韓・・趙で分割されると予言しました。

韓康子の時代に晋陽の戦いがあり、趙襄子、魏献子らと協力して智伯を滅ぼしました。

智伯を滅ぼした事で、晋は事実上、韓・魏・趙で分割される事になります。

紀元前403年には周王室より、韓・魏・趙は正式に諸侯として認められ、晋の大臣では無くなったわけです。

紀元前376年の韓の哀侯の時代には、魏と共に晋の公室を滅ぼしています。

韓の全盛期

(画像:YouTube

戦国七雄が覇を競う時代となりますが、韓は紀元前375年に鄭を滅ぼしました。

鄭の領有していた土地は、春秋時代に晋とが何度も争った場所であり、交通の要衝でもあります。

韓は鄭の故地である新鄭に遷都しました。

韓の昭侯の時代になると、申不害が現れ法術により国を治めたと伝わっています。

韓はや宋などと戦いを繰り広げますが、韓の昭侯の時代が韓の全盛期だったとも伝わっています。

韓の国土は小さい様に思うかも知れませんが、中原の豊な地を領有していました。

しかし、韓は全盛期にありながらも、さらに強大な魏、秦、などの国があり影が薄いわけです。

尚、鄭や韓が首都を置いた新鄭は鄭韓故城として残っています。

鄭韓故城

韓と秦の戦い

韓の宣恵王の時代になると、最強国だったに西部の地の多くを奪われ没落し、時代は秦とによる二強時代に突入しました。

韓は戦国七雄の中で最弱国とは言われますが、魏が没落した時には、魏よりも韓の方が国力は上だったのではないか?と考えられています。

(画像:YouTube

図を見ると分かりますが、秦が魏の東部の大部分を奪った事で、韓は秦からの脅威に立たされる事になります。

韓の宣恵王の時代に公仲の進言を聞かず、にいた陳軫の策に嵌り岸門の戦いで秦に大敗北を喫しました。

ただし、韓は秦に太子を人質とし、秦軍と共に楚を攻撃し丹陽の戦いで勝利しています。

韓の襄王の時代になると、韓の主要都市である宜陽が秦の甘茂により陥落させられました。

韓の釐王の時代になると、公孫喜が韓・魏・周の連合軍で秦を攻撃ますが、秦には白起がおり伊闕の戦いで大敗北を喫しています。

釐王の時代に暴鳶も敗れ韓はに多くの土地を奪われました。

秦の宰相が魏冄から范雎に変わると、秦の昭王は遠交近攻を用いて、秦の韓への圧迫は強くなったわけです。

桓恵王の時代になると、韓の首脳部は秦に上党郡を割譲しましたが、上党郡の太守である馮亭に降伏してしまいます。

これにより戦国時代最大の合戦共呼ばれる長平の戦いが勃発しました。

長平の戦いが行われた頃には、韓の領土は縮小し、首都の新鄭の周辺のみを支配する事になります。

紀元前241年の函谷関の戦いでは、合従の盟約を結び秦を攻撃しますが、函谷関を抜く事が出来ませんでした。

尚、函谷関の戦いの年に龐煖が趙、楚、魏、の精鋭を率いて蕞を攻めた記録がありますが、そこに韓の名前はありません。

(紀元前238年の勢力図)

韓は国力が落ちすぎてしまい兵士を蕞の戦いに向ける事が出来なかったとも考えられます。

韓の桓恵王の時代には、秦の蒙驁により成皋と滎陽が奪われており、この時点で秦はいつでも韓を滅ぼせる状態だったはずです。

韓の滅亡

韓の滅亡に関しては、下記の動画でも作成してあります。

韓は技術者の鄭国を秦に派遣し、秦の財政を灌漑設備に向かわせ様ともしましたが、鄭国が韓からの依頼で秦に来た事はバレてしまいました。

韓は秦に奉仕しなければならない立場であり後宮の女性を売り払いに奉仕した逸話まで残っています。

これらの韓の局所的には成功した部分もありますが、実際には秦を強大にし、さらには秦から疎まれる様な結果となります。

韓王安が紀元前239年に即位しますが、韓は既に弱体化し多くの土地を奪われていました。

紀元前235年には韓王が秦の臣下になりたいと願った話もあります。

当時の秦は韓はいつでも滅ぼせると思ったのか、に侵攻しますが李牧が秦軍に連勝しています。

趙の李牧が秦を連勝した事で、秦はターゲットを趙から韓に移しました。

李斯の進言により韓を滅ぼして諸侯を畏れさせようとしたわけです。

韓では韓非子を秦に派遣しますが、韓非子は秦で命を落としました。

紀元前230年になると、秦は内史騰に韓を攻撃させています。

内史騰により韓王安は捕虜となり、韓は滅亡しました。

史実では韓は紀元前230年に滅亡した事は間違いないでしょう。

戦国七雄の中で最初に滅亡したのが、韓となります。

韓は本当に弱小だったのか?

強力な武器生産能力を持っていた韓

司馬遷が書いた史記の蘇秦列伝に、蘇秦が韓の宣恵王の前で次の様に語った話があります。

※史記蘇秦列伝より

蘇秦「天下の強弓、弩は皆が韓で生産され、六百歩の遠距離であっても打ち抜く事が出来ます。

韓の士卒が足を挙げて弩を発射させれば、遠くにいる者は胸を貫かれ、近くにいる者は鏃が心臓にまで到達します。

韓の士卒が持つ剣は全て冥山で作られており、名剣は陸上では牛馬を斬り伏せる事が出来ますし、敵の固い鎧や盾であっても防ぎきる事は出来ません。

韓兵は勇敢であり1人で100人を相手にする事も出来ます」

史記の蘇秦列伝では蘇秦が韓の宣恵王と面会し、韓の険阻な地形を褒めた後に、韓の武器の強さを絶賛しているわけです。

蘇秦は合従の盟約を結ばせたいと考え、無理して韓の宣恵王を喜ばした様に思うかも知れません。

しかし、本当に韓の武器が強くなければ、褒め殺しになってしまう事もあり、蘇秦は韓の武器が実際に凄い事を知った上で、誇張して韓王を喜ばしたと考えるべきでしょう。

流石に、韓の兵士1人で100人を相手にするには、無理があると感じており、全てを信じるわけにはいかないはずです。

実際に韓は中原の豊かな都市を従えた武器生産にも優れた工業国だとも考える事が出来ます。

実際に韓の首都であった新鄭からは青銅器の銘文も発見されており、兵器が製造されていた事も分かっています。

新鄭には韓王の直属の兵器製造機構とは別に、鄭令と呼ばれる官職の者が統括する兵器製造機構もあった事が分かっています。

韓は首都の新鄭の中に、二元する武器の生産工場があったのでしょう。

韓王と都市の二元化は、国体を纏め上げる事が出来ていないと見る事もでき、中央集権化を達成した秦と比べてみも不利な部分でもあります。

尚、司馬遷も史記の中でよりも三晋(韓・)の方が兵士が遥かに強かったとも述べおり、大都市を抱え韓が優れた武器を持っていた事は間違いないでしょう。

韓の国家統制の問題点

韓が滅亡した理由ですが、下記の動画に詳しいです。

韓は新鄭だけではなく、陽翟、宜陽など多くの中原の大都市を抱えていました。

中原の大都市は自主性も強かったわけですが、韓の中央政府では郡の長官を派遣して統治しています。

韓やの大都市は高い生産力を持ってはいましたが、韓王の命令も聞き入れない事もありました。

桓恵王の時代に、に上党郡の割譲を約束しましたが、上党太守の靳黈は韓王の命令を聴き入れていません。

靳黈は意地を見せた様にも見受けられますが、秦の支配下になる事を拒む都市住民を抑えることが出来なかったとも見れます。

靳黈が解任されると、馮亭は秦ではなくに降伏してしまいました。

韓が支配する中原の都市は自律性が強く、自主性が維持出来ないとなれば韓王に背く事もあったわけです。

韓も大都市に対して強気に出れず、中央集権を進め国を一体化する事が出来ませんでした。

韓は大都市を有しながらも、都市の自主性が強く都市自体も孤立しやすかったと言えるでしょう。

こうした中で、商鞅の改革で中央集権化を進めた秦は、韓の都市を各個撃破していき韓は結局は滅びました。

国として都市を束ね一致団結して、秦と対峙する事が出来なかったのは、韓の敗因だとも言えるでしょう。

武器も強力で豊かな土地を領有していたのに、韓は滅亡しました。

尚、韓と魏は戦国時代の中期以降に、戦国七雄の強国に囲まれ領地を得ることが出来なかったのも、敗因とされています。

韓の弱さの秘密は中央集権化が出来ず、一つの都市としては強大でも孤立的だった事が大きいと言えます。

武器が強く高い経済力を持っていても孤立していては、滅亡は免れないという事なのでしょう。

その後の韓

韓は滅びは潁川郡を設置しますが、紀元前236年に新鄭で大規模な反乱が起こりました。

韓の元貴族たちが反乱を起こしたのではないか?とも考えられています。

この年に、秦の昌平君が出奔しており、韓の貴族の反乱と何かしらの関係があるのかも知れません。

秦王政は紀元前221年にを滅ぼし、天下統一を成し遂げ始皇帝となります。

韓の大臣の家柄であった張良は、韓を滅ぼした秦に深い恨みを抱き始皇帝を暗殺しようとしますが、失敗に終わりました。

始皇帝死後に陳勝呉広の乱が勃発し、秦は項羽により滅亡しますが、項羽は韓王成を韓王に封建しました。

しかし、項羽は後に韓王成を殺害しています。

後に劉邦は韓王信を韓王とし、劉邦が最初に封建した諸侯王が韓王信となります。

楚漢戦争は劉邦の勝利となりました。

後に韓王信は匈奴冒頓単于との対応を劉邦に問題視され、匈奴に亡命しますが、最終的には紫武に敗れて命を落としました。

しかし、韓王信の子である韓頽当は許されて、漢の文帝に仕える事になります。

前漢の武帝の寵愛を受けた韓嫣、韓説も韓の末裔であり、曹操に仕えた韓曁も韓王家の子孫です。

戦国の国家としての韓は滅亡しましたが、子孫は続いたという事になっています。

韓の君主一覧

晋の大臣時代

武子(韓万)ー賕伯ー定伯(韓簡)ー韓子輿(韓輿)ー献子(韓厥)ー宣子(韓起)ー貞子(韓須)ー簡子(韓不信)ー荘子(韓庚)ー康子(韓虎)ー武子(韓啓章)

諸侯時代

景侯(韓虔)ー烈侯(韓取)ー文侯(韓猷)ー哀侯(韓屯蒙)ー共侯(懿侯、韓若山)ー昭侯(韓武)

歴代韓王

宣恵王(威侯、韓康)ー襄王(韓倉)ー釐王(韓咎)ー桓恵王(韓然)ー王安(韓安)

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