
| 名前 | 宋の穆公 |
| 姓・諱 | 子和 |
| 生年 | 不明 |
| 在位 | 紀元前729年ー紀元前720年 |
| 一族 | 父:武公 兄:宣公 子:荘公 |
| コメント | 兄に後継者に指名され、兄の子を後継者に指名した。 |
宋の穆公は春秋時代の宋の君主です。
兄の宋の宣公が太子の与夷ではなく、宋の穆公を指名した事で即位しました。
宋の穆公は亡くなる時に、我が子である公子馮ではなく、与夷を後継者に指名する事になります。
宋の穆公の実績については史記や春秋左氏伝にも書かれておらず不明ですが、先君の子を後継者に指名した事で名が残っています。
兄の子を後継者にするのは、趙襄子や水戸光圀に通じるものがあるのでしょう。
宋の宣公の遺命
宋の穆公は本来であれば国君として立つ立場ではありませんでした。
既に兄の宋の宣公の子の与夷がおり、後継者は定まっていたわけです。
しかし、宋の宣公は死の直前で突如として太子を廃し、宋の穆公を後継者に指名しました。
宋の穆公は三度辞退するも、宣公の意思は固く国君として立つことになります。
宋の穆公の最後
宋の穆公は即位9年目の紀元前720年に体調を崩しました。
死期を悟った宋の穆公は、大司馬の孔父嘉を呼ぶと、次のように遺言する事になります。
宋の穆公「先君である宋の宣公は、自らの子の与夷ではなく、私を立ててくれた。
この事を私は忘れた事がない。
其方(孔父嘉)のお陰で、無事に生を終える事が出来たとしても、あの世で先君から『与夷はどうした』と聞かれたら、なんて答えればいいのだろうか。
与夷を奉戴し社稷を守らせてくれれば、私は心残りなく、あの世に行ける事になる」
宋の穆公は与夷を後継者として立てるように強く望んだわけです。
しかし、孔父嘉は「群臣らは御子息の公子馮を立てたいと思っています」と告げますが、宋の穆公は次のように述べました。
宋の穆公「それは宜しくない。
先君は私を賢なりと考えて社稷を守らせたのである。
それなのに徳ある人(与夷)を棄て去り、国君の座を譲らないとあれば、先君の遺命を無視する事になってしまう。
先君の遺命に背く事になってしまうのだ。
私は先君の徳を輝かせる事に努めるべきであり、先君の功業を無にする事は出来ない」
宋の穆公の意思は固く、子の公子馮が鄭へ送り出す事になります。
宋の穆公は八月庚申の日に亡くなったとあります。
春秋左氏伝の君主は宋の宣公が穆公を後継者にしたのには、評価されています。
ただし、宋の宣公の遺言により即位した宋の殤公と、公子馮は鄭を巻き込んで対立する事になります。