古代オリエント

ティルスは地中海に多くの植民都市を築いた

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宮下悠史

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名前ティルス
別名ティロス
コメントフェニキア人の代表的な都市

ティルスは古代のフェニキア人の都市です。

ティロスと呼ぶ場合もあります。

フェニキア人は海洋民族であり、地中海に多くの植民都市を築きました。

しかし、地中海のフェニキア人の植民都市は大半がティルスが建造したものです。

カルタゴもティルスの植民都市でした。

ティルスはアレクサンドロス大王とティルス攻城戦を行った事でも有名となっています。

ティルスはシドンビブロスと並ぶフェニキア三大都市の一つでもあります。

エジプトの混乱とティルスの発展

ティルスは現在では半島の上にありますが、元々は沖合の小さな島でした。

紀元前2000年頃から紀元前1600年頃にかけて、この島は突然放棄され、人々は対岸のウシュへ移住した事が分かっています。

しかし、その理由は明らかになっていません。

紀元前1600年を過ぎると再び島に人が戻り、ティルスは再び都市として発展していきました。

エジプトのアクエンアテンの時代になると、エジプトの外の地域を放置し、宗教改革に取り組みました。

こうした経緯もあり、ヒッタイトの脅威と重なりレヴァント地方も不安定となり、ティルスのアビ・ミルク王とシドンのジィムレッダが戦った話があります。

ティルスの技術革新

鉄器時代に入るとフェニキア人のライバル都市である北のシドンが大発展しました。

しかし、ティルスも技術革新によって発展を遂げました。

海に囲まれた都市であるため水の確保が課題でしたが、鉄器時代に入ると石灰を用いた漆喰で貯水槽を築き、長期的な水の保存が可能になりました。

ティルスにとっては貯水槽は画期的な技術であり、長期の籠城戦にも水不足に悩まされる事がなくなり、耐えられる様になります。

こうした工夫により、ティルスは紀元前11世紀後半までにはシドンを上回る勢力を持つようになったと考えられています。

紀元前1200年のカタストロフでは、地中海沿岸の勢力が海の民により一斉に衰えたとされており、交易で発展したウガリトもこの時期に姿を消しました。

しかし、同じく地中海沿岸にあるフェニキア諸都市のダメージは少なく、ギリシアが暗黒時代に入った事で、フェニキア人が地中海の海を席巻する事になります。

この時に、地中海沿岸に植民都市が造られますが、多くはティルスの植民都市でした。

ヒラム1世とエトバアル

ヒラム1世の時代に、ティルスはイスラエル王国と協力関係にあり勢力を拡大しました。

しかし、80年ほど続いたヒラム1世の王朝は、アシュタルテ女神の神官であったエトバアルによって簒奪されたと伝えられています。

時期は明確ではありませんが、エトバアルの時代にティルスとシドンは同君連合を形成し、彼はフェニキア王を名乗ったとも言われています。

ただし、アッシリアのアッシュル・ナツィルパル2世が勢力を拡大し始めると、エトバアルは速やかにアッシリアに従い、貢納を行いました。

アッシリアのシャルマネセル3世の時代にもティルスは従うしかありませんでした。

尚、エトバアルの娘がイゼベルであり、旧約聖書では悪女にされてしまった女性でもあります。

アッシリアとの戦い

アッシリアのティグラト・ピレセル3世の時代に、ティルスやシドンなどのフェニキア人の諸都市はアッシリアの支配下となりました。

この時にティルスは経済的に潤っており、アッシリアを満足させるだけの貢納物を収め、特別な地位を与えられる事になります。

しかし、アッシリアもティルスに対する締め付けが強化され、ティルスはフェニキア諸都市連合の長として、センナケリブに挑みました。

この時に、ティルスをバビロンのメロダク・アルバダン2世やエジプトのファラオも、ティルス及びフェニキア連合を支持した話があります。

アッシリアは強権を発動し他国に恨みを買っていた事もあり、ユダ王国もティルスと共にアッシリアと戦う決意を固めました。

ティルス王のルリは反アッシリア連合の一員として戦いますが、ティルスの対岸のウシュも占拠されています。

シドンもアッシリアを支持し身の危険を感じたルリは、キプロスに逃亡し非業の死を遂げたと伝わっています。

こうした中で、ティルスはアッシリアへの臣従を選びましたが、これは表面的な服従であり、機会を見て独立を回復しようとする姿勢があったと考えられています。

ティルス王バアル1世はアッシリアに従いましたが、アッシリアはティルスを完全には信用せず、交易活動に対して規制を強めました。

ティルスは後にエジプト第25王朝の支援を受けてアッシリアから離脱を試みています。

しかし、アッシリアのエサルハドンやアッシュルバニパルの時代は手強く、厳しい戦いを強いられました。

ネブカドネザル2世によるティルス包囲

ちょうどこの頃、メソポタミアでは新バビロニアが勃興し、ネブカドネザル2世の時代を迎えていました。

ネブカドネザル2世は強力な統治者であり、反対勢力に対して厳しい姿勢を取ったとされています。

ユダ王国を滅ぼしたことはよく知られていますが、その後、彼はフェニキアの中心都市ティルスにも軍を向けました。

ティルス王エトバアル3世は徹底抗戦を主張し、新バビロニア軍はティルス本島を直接攻撃することが難しかったため、対岸のウシュに軍を駐屯させ、長期的な兵糧攻めを行いました。

ティルスが降伏するまでには13年もの歳月がかかったとされます。

降伏後、エトバアル3世は王族とともにバビロニアへ移送されました。

その後、ティルスではバアル2世が即位しましたが、新バビロニアの影響下にある政権であったと考えられています。

ティルスの王政廃止と復活

バアル2世の治世が終わると、ティルスでは裁判官が政治を担う体制が取られましたが、これも新バビロニアが派遣した役人であった可能性があります。

紀元前556年頃には王政が復活し、バアル・アザル3世が即位しました。

しかし彼は短期間で亡くなり、バビロンに囚われていた王族のマハル・バアルがティルス王となりました。

数年後にマハル・バアルが亡くなると、兄弟のヒラム3世が帰還し、王位を継ぎました。

ヒラム3世の時代、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がバビロンを無血開城し、紀元前539年に新バビロニアは滅亡しました。

これにより、メソポタミア文明の長い歴史は終焉を迎えます。

後にアレクサンドロス大王がティルスを攻撃し、ティルス包囲戦を行っていますが、ティルスは敗れました。

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