
| 名前 | 臧僖伯(ぞうきはく) |
| 別名 | 公子彄 |
| 姓・諱 | 姫彄 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前718年 |
| 時代 | 春秋時代 |
| 一族 | 父:孝公 兄弟:恵公、無駭 |
| コメント | 臧孫氏の祖となった人物 |
臧僖伯は春秋左氏伝に名前が登場する人物で、魯の隠公を諫めた事が記録されています。
臧僖伯は臧孫氏の祖であり、魯の孝公の子でもあります。
兄の魯の恵公は当主となり、魯の隠公は甥になります。
臧僖伯は漁の見物に行こうとした魯の隠公を諫めた事で、歴史に名を残しました。
魯の隠公も臧僖伯に対し特別な感情を抱いていたのか、葬儀の時に格式を一つ上げています。
臧僖伯の諫言
春秋左氏伝の魯の隠公の5年(紀元前718年)に、魯の隠公が漁夫たちが漁をしている姿を見物しようと言いだしました。
ここで、臧僖伯が次の様に述べています。
※春秋左氏伝より
臧僖伯「祭祀や武事の講習に役に立たぬもの、礼器や兵器の製造に役だたぬものは、国君のやるべき事ではありません。
国君は民を軌・物で従わせるものです。
祭祀や武事の講習をしっかりとやる事が「軌」であり、村の定め形や色に合わせるのが「物」です。
軌や物から外れるのが乱政と呼びます。
乱政が何度も起きると、国家存亡の危機が訪れます。
春夏秋冬に行われるべき本業の合間に、武事は覚えるものです。
三年に一度は大規模な軍事演習を行い、国都にもどって軍を整え、帰還の酒礼を行うのは武具や獲物を数え、車や旗の飾り物を調べて貴賤の序列を明らかにし、長幼に応じて威儀を明らかにするのです。
宗廟に供えない鳥獣の肉や礼器や兵器に用いぬ皮革、骨角、羽毛の頬は、国君が自ら射たりはしません。
これが古来からの掟となります。
山林や川沢の産物、日常品の材料は、下働きや担当の役人の役目であり、国君が行われるべきではありません」
臧僖伯は魯の隠公が漁の見物に行くのは、国君としての仕事ではないと言いたかったのでしょう。
それと同時に、臧僖伯は魯の隠公が漁の見物をすれば、漁夫の迷惑になり仕事の妨げになると考えたとみる事も出来ます。
しかし、魯の隠公は「私は土地の視察に行くのだ」と述べ出かけると、漁夫に漁をやらせ見物しました。
臧僖伯は病気を理由に魯の隠公に従わなかった話があります。
尚、春秋には「公(魯の隠公)、棠に矢ぬ」とありますが、春秋左氏伝には解説があり、魯の隠公が自ら漁をした様に記録したのは、礼に合しておらず、漁を行った場所の棠が本拠地の曲阜と遠距離だった事を示したとあります。
多くの君子が臧僖伯の行動が礼に合致しており、魯の隠公の行動を問題視したのでしょう。
臧僖伯の最後
臧僖伯は魯の隠公を諫めたわけですが、同年に亡くなった事が春秋に書かれています。
春秋には「公子彄、卒す」と記録されました。
この時に魯の隠公が「叔父は私に不満をおもちであった。その事を忘れようとは思わぬ」と述べた話があり、葬式の格式を一級上げた話があります。
魯の隠公は自分を諫めた臧僖伯に敬意を示したのでしょう。