イスラム

正統カリフの時代にイスラムは強国となった

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宮下悠史

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名前正統カリフ
コメントムハンマド死後からウマイヤ朝成立までの4人のカリフの時代

正統カリフとはムハンマドの死後から、ウマイヤ朝が成立するまでの4人のカリフの時代を指します。

正統カリフと呼ばれるのは、下記の四名です。

アブー・バクルウマルウスマーンアリー

正統カリフの時代にイスラム帝国は拡大し、東のササン朝や西のビザンツ帝国に勝利し領土を奪っています。

この時代は混乱の時代でもあり、正統カリフに就任した者の中で、暗殺されなかったのは初代のアブー・バクルだけとなっています。

ムアーウィアがカリフに就き世襲王朝のウマイヤ朝を樹立した事で、正統カリフの時代は終わりました。

尚、正統カリフの動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。

正統カリフ以前のイスラム

ムハンマドの生涯とイスラム教成立

正統カリフ以前のイスラムについて解説しておきます。

ムハンマドの死後、イスラム共同体は内部に対立を抱えながらも勢力を拡大していきました。

ここでは、その前段階としてムハンマドの生涯とイスラム教成立の経緯を整理します。

ムハンマドはアラビア半島のメッカに生まれ、幼くして孤児となりました。

しかし、成長すると商才を発揮し、裕福な女商人ハディージャに見いだされて結婚します。

彼女はムハンマドの最初の理解者であり、後の活動を支える重要な存在でした。

その後、ムハンマドは洞窟で神の言葉を授かったとされ、「神の言葉を預かる者(預言者)」としての使命を自覚します。

迫害を受けながらも、彼の教えを信じる人々は増え、イスラム教が形成されていきました。

しかし、メッカでの反発は強く、ムハンマドは仲間のムスリムとともにメッカを離れ、ヤスリブ(のちのメディナ)へ移住します。

メディナ時代と内部問題

ヤスリブで彼は調停者として評価される一方、十分な経済基盤がなかったため、キャラバン襲撃による略奪も行いながら共同体を維持していきました。

メッカとの対立は続き、ムハンマドはメッカ軍との戦いで敗北し負傷することもありました。

やがて627年、メッカ側はムハンマドを討つために約1万の軍勢を動員します。

しかしムハンマドは塹壕を用いた防衛戦術を採用し、これが功を奏して勝利を収めます。

この戦いは「塹壕の戦い」として知られています。

メッカとの対立が続く中で、ムハンマドは外からの敵だけでなく、内部の問題にも直面しました。

その一つとして、メディナ周辺に住んでいたユダヤ人の一団が、メッカ側と通じていたとされています。

これは当時の部族社会では重大な裏切りとみなされ、戦いの後、成人男性は処刑され、女性や子どもは奴隷として扱われたと伝えられています。

現代の感覚では非常に厳しい処置ですが、当時のアラビア社会では珍しくない戦後処理でした。

また、この部族の財産がイスラム共同体のものとなり、ムスリム側が大きな利益を得たとも言われています。

正統カリフの時代を生きたムスリムの人々は、こうしたムハンマドの実際の姿を見た者も多くいました。

メッカ巡礼と共同体の拡大

628年、ムハンマドは生まれ故郷メッカへの巡礼を試みます。

この頃にはムハンマドの勢力が大きくなっており、メッカ側も完全に拒むことはできませんでした。

その結果、一定期間だけ巡礼を認める和平協定が結ばれ、ムハンマドは無事に巡礼を果たします。

翌629年にも巡礼が行われ、この時にムハンマドはメッカの有力者の娘を妻として迎えました。

イスラム教では当時の慣習に従い一夫多妻が認められており、ムハンマドには複数の妻がいたと伝えられています。

伝承では12人の妻がいたとも言われます。

メッカを支配下に置いた後、ムハンマドの勢力はさらに強まりました。

戦いに勝利するたびに得られる戦利品は共同体の財産となり、イスラム教徒たちの生活を支える重要な資源になっていきます。

こうした富をもとに、ムハンマドは共同体の制度や軍事組織を整え、国家としての形を整えていきました。

当時のアラビア半島は、強大なビザンツ帝国(東ローマ帝国)とササン朝ペルシアという二大国に挟まれていました。

しかし、その狭間にありながら、ムハンマドの勢力は急速に存在感を増し、やがて一大勢力として両大国からも無視できない存在になっていきます。

この頃には、ムハンマドが呼びかけるだけで、万を超える兵士が集まったと伝えられています。

正統カリフの時代を生きた人々は、ムハンマドのこうした姿を見て、心を躍らせたのではないでしょうか。

正統カリフの時代

ムハンマドの死と後継者問題

ムハンマドは632年、妻の一人であるアイーシャの腕の中で静かに息を引き取ったと伝えられています。

ここから正統カリフの時代が始まる事になります。

ムハンマドは宗教的指導者であるだけでなく、政治家・軍事指導者としても共同体をまとめ上げ、国家の基礎を築いた人物でした。

孤児として生まれた一人の男が、宗教の創始者となり、さらに国家を築き上げたという点で、ムハンマドは歴史上でも特に大きな影響を与えた人物とされています。

アメリカの作家マイケル・H・ハートが著した『歴史上もっとも影響力のあった人物100人』では、ムハンマドは堂々の第1位に選ばれています。

宗教的影響力と政治的手腕の両方を兼ね備えた人物は歴史上でも稀であり、その点が高く評価されたと言えるでしょう。

偉大な指導者ムハンマドが632年に亡くなると、イスラム共同体は大きな混乱に包まれました。

ムハンマドは宗教的指導者であると同時に、政治と軍事をまとめる中心人物でもあったため、その不在は共同体にとって非常に大きな問題でした。

本来であれば、ムハンマドの子どもが後継者になった可能性もありましたが、彼の子どもたちはいずれも早くに亡くなっており、血縁による継承は不可能でした。

そのため、誰をムハンマドの後継者(カリフ)にするのかという問題が一気に表面化します。

最終的に、ムハンマドの親しい仲間であり、初期から彼を支えてきたアブー・バクルが後継者に選ばれました。

彼はムハンマドの信頼も厚く、多くのムスリムから支持されていた人物です。

一方で、ムハンマドの従弟であり義理の息子でもあるアリーを後継者に推す声もありました。

アリーは若い頃からムハンマドと共に戦い、苦難を分かち合ってきた人物で、精神的なつながりも深かったとされています。

ただし、当時のアリーは30代後半と比較的若く、「共同体全体をまとめるには経験が足りないのではないか」という見方もありました。

また、後世の伝承の中には、ムハンマドの妻アイーシャがアリーと不仲だったため、「自分に不利になることを避けようとしてムハンマドの遺言を書き換えた」という説も語られています。

ただし、これは宗派や史料によって大きく見解が分かれる部分であり、歴史的事実として断定できるものではありません。

それでも、アイーシャの父親であるアブー・バクルがカリフとなった事だけは間違いありません。

リッダ戦争

ムハンマドが亡くなったことで、イスラム共同体は大きな転換点を迎えました。

最も大きな違いは、神の言葉を直接伝える預言者がもういなくなったということです。

ムハンマドが生きていた頃は、どうしても解決できない問題があれば、「神の啓示を待つ」という方法がありました。

そのため、ムハンマドは宗教的な指導者であると同時に、最終的な判断者でもあったのです。

ムハンマドの後継者に選ばれたアブー・バクルは、ムハンマドの親友であり、生前から多くの相談を受けていた“長老”のような存在でした。

しかし、彼は預言者ではありません。

つまり、神の言葉を新たに受け取ることはできないという決定的な違いがありました。

ムハンマドの死はあまりにも大きな衝撃で、アラビア各地で離反が相次ぎました。

さらに、「自分こそが新しい預言者だ」と名乗る人物が次々に現れます。

その結果、イスラム勢力の支配地域は一時的にメッカとメディナの二都市だけにまで縮小してしまいます。

アブー・バクルは人々を励ますために「ムハンマドは亡くなったが、アッラーは決して死なない」と語ったと伝えられていますが、それでも反乱を完全に抑えることはできませんでした。

アラビア半島は群雄割拠状態となり、北部にタルハ、中央にはムサイリマ、東部には女預言者のサジャーフ、南部にはアスワドが現れました。

さらに、中央のムサイリマと東部のサジャーフが結婚し、勢力を合わせてさらに強大になるという予想外の展開も起こります。

こうした状況の中で、アブー・バクルがカリフとして最初に取り組んだのは、ムハンマドが築いた領域を取り戻すことでした。

そこで、アブー・バクルは将軍ハーリド・イブン・アル=ワリードを呼び寄せました。

ハーリドは、もともとムハンマドの敵として戦場に立った猛将でした。

ウフドの戦いでは、わずか200の騎兵を率いて巧みに奇襲を仕掛け、ムハンマド本人を負傷させたほどの実力者です。

その彼が、ムハンマドの死後にはイスラム共同体の最強の将軍として活躍することになります。

ムハンマドの死後に起こった大混乱は、リッダ戦争(離反戦争)と呼ばれます。

アブー・バクルはこの危機に対処するため、ハーリド将軍を呼び寄せました。

ハーリドは「アッラーの剣」と呼ばれるほどの軍事的才能を発揮し、短期間で各地の反乱勢力を次々と鎮圧していきます。

第一次クルアーン結集

しかし、その勝利の裏には大きな犠牲もありました。

戦いの中で、ムハンマドの啓示を暗記していたハフィーズたちが多数戦死してしまったのです。

ハフィーズとは、ムハンマドに降った神の言葉(啓示)を一語一句間違えずに暗記していた人々のことです。

当時、啓示の多くはまだ書物としてまとめられておらず、口伝によって伝えられていました。

その担い手が大量に失われたことで、「このままでは神の言葉が失われてしまう」という深刻な危機が生まれました。

この状況を重く見たアブー・バクルは、残ったハフィーズたちと協力し、啓示を文字としてまとめることを決断します。

これが第一次クルアーン結集と呼ばれる作業です。

ただし、この時にまとめられたクルアーンは現存しておらず、現在私たちが読むことができるクルアーンは、第三代カリフ・ウスマーンの時代に編集されたものです。

第二代カリフ・ウマルの登場

アブー・バクルは反乱鎮圧に奔走した疲れもあったのか、カリフ就任からわずか2年後の634年に亡くなりました。

短い在位期間でしたが、アラビア半島の再統一、反乱勢力の鎮圧、クルアーンの保存という大事業を成し遂げたことは高く評価されています。

彼の治世は、ムハンマドの時代よりも統治が安定していたという伝承も残っています。

アブー・バクルの後を継いで第二代正統カリフとなったのが、ウマルという人物でした。

ウマルはムハンマドの4番目の妻ハフサの父であり、ムハンマドの家族とも深い関係を持っていました。

ウマルは「悪魔ですら道を譲る」と言われるほどの剛勇の持ち主で、戦場では恐れられる騎士でした。

同時に、非常に真面目で誠実な性格だったと伝えられています。

しかし、ウマルの前途は決して平坦ではありませんでした。

ムハンマドが亡くなってから、まだわずか2年しか経っていませんでした。

その間に初代カリフのアブー・バクルは反乱を鎮圧し、アラビア半島を再統一したものの、その直後に亡くなってしまいます。

つまり、ウマルは反乱は一応収まったが、まだ不安定な状態の中でカリフに就任したことになります。

さらにウマルを悩ませたのが、軍隊の規模が大きくなりすぎていたという問題でした。

アラビア半島は決して豊かな土地ではありません。

水も少なく、農業も限られているため、大量の兵士を養う余裕は本来ありません。

しかし、反乱を鎮圧するために軍を拡大した結果、「アラビア半島を統一したから、もう兵士はいらないので解散します」というわけにはいきませんでした。

ウマルは軍を縮小すれば再びアラビア半島が混乱に戻ると考えました。

反乱鎮圧のために膨れ上がった軍隊を抱えたままでは、アラビア半島の貧しい資源では到底養いきれません。

しかし、兵士を解雇すれば不満が爆発し、再び反乱が起きる危険がありました。

そこでウマルは、軍を維持しつつ共同体を安定させるために、アラビア半島の外へ進出し、新たな土地と富を獲得する道を選びます。

ウマルは、外に強大な敵がいれば内部の結束が強まると考えていました。

敵が明確であれば、兵士たちの不満は外へ向かい、共同体はまとまりやすくなります。

そのため、ウマルはアラビア北方に存在していたビザンツ帝国とササン朝ペルシアを標的に定め、侵攻を開始しました。

とはいえ、ウマルが望んでいたのは「本当に強すぎる敵」ではありません。

アレクサンドロス大王のような全盛期の大帝国が相手であれば、イスラム勢力はひとたまりもなかったでしょう。

しかし幸運なことに、この時期のビザンツ帝国とササン朝は長年の戦争で疲れ切っており、見た目は大国でも実際には弱体化していました。

ウマルにとっては、まさに理想的な相手だったと言えます。

外征の成功と領土拡大

イスラム側はこれらの遠征を「イスラム教を広めるための戦い」と説明していましたが、実際には軍の維持や内部の安定、新たな富の獲得といった現実的な理由が大きかったと考えられています。

宗教的な大義名分はあったものの、実際には国家運営のための戦略的判断だったのです。

宗教的な大義名分はあったものの、実際には国家を維持するための戦略的判断が大きく、ウマルは外征を進めていきました。

イスラムの戦いは「聖戦(ジハード)」と位置づけられ、戦死すれば名誉が得られると考えられていたため、兵士たちは死を恐れずに戦う強力な軍隊となっていきます。

こうした背景のもと、イスラム軍は急速に勢力を拡大していきました。

634年にはハーリド将軍がパレスチナ南部でビザンツ帝国軍を破り、翌年にはダマスクスを陥落させています。

ダマスクスは後にイスラム世界にとって非常に重要な都市となり、ウマイヤ朝の都としても栄えることになります。

ビザンツ帝国はシリアの危機を救うために十二万もの大軍を送り込んだと伝えられていますが、四万のイスラム軍に敗れてしまいます。

これが有名なヤルムークの戦いであり、この勝利によってイスラム勢力はビザンツ帝国に対して決定的な優位を確立したとされています。

その勢いのまま、イスラム軍はエルサレムをも陥落させ、ビザンツ軍をパレスチナから駆逐しました。

エルサレムの陥落は宗教的にも政治的にも大きな意味を持つ出来事であり、ウマル自身もパレスチナの地まで足を運んだと伝えられています。

彼は征服者としてではなく、敬虔な信徒としてエルサレムに入り、その振る舞いは後世まで語り継がれることになります。

ウマルの統治

ウマルは638年、降伏したエルサレムでギリシア正教会の大教主と会い、キリスト教徒たちを「庇護民」として保護することを約束しました。

同じようにユダヤ教徒にも庇護民としての地位が与えられ、この時からエルサレムにはイスラム教・キリスト教・ユダヤ教という三つの宗教が共存する形が生まれました。

後の歴史を考えると、この出来事は非常に象徴的な意味を持っています。

一方で、ササン朝ペルシアとの戦いも続いていました。イスラム軍は634年の「橋の戦い」でユーフラテス川を挟んでササン朝軍と激突しましたが、戦術上のミスもあり敗北を喫しています。

しかし、この敗北は長く続きませんでした。

イスラム軍はすぐに態勢を立て直し、各地でササン朝軍を破っていきます。

ビザンツ帝国に大勝利を収めたヤルムークの戦いの翌年には、ササン朝の名将ルスタム率いる軍を破り、ついに首都クテシフォンを攻略しました。

クテシフォン陥落の際には、イスラム軍が莫大な財宝を手にしたと伝えられています。

ササン朝は現在のイラク一帯を放棄し、イラン高原へと後退するしかありませんでした。

その後もイスラム軍の勢いは止まらず、642年のニハーヴァンドの戦いでもササン朝軍を破り、ササン朝は一気に弱体化していきます。

ただし、この時点ではまだササン朝ペルシアは完全には滅亡していませんでした。

コーランか剣か

イスラム軍の快進撃は止まらず、わずか十年足らずの間に商業都市ダマスクスや、豊かな穀倉地帯であるメソポタミアまで手に入れたと言われています。

アラビア半島の貧しい環境からは想像できないほどの急成長で、イスラム勢力は一気に大国の仲間入りを果たしました。

この時期、イスラム軍には「コーランか剣か」という言葉があったと伝えられています。

これは「イスラム教に改宗するか、それとも戦うか」という意味で語られることが多く、後世では「改宗しなければ死」というイメージで語られることもあります。

ただし、これは地域や時代によって大きく異なり、実際にはもっと複雑な状況でした。

むしろ、当時のイスラム勢力はキリスト教世界よりも宗教に対して寛容だったという見方もあります。

イスラム教に改宗しない場合は税金(ジズヤ)が少し重くなるものの、キリスト教徒やユダヤ教徒は「庇護民」として保護され、信仰を続けることが認められていました。

宗教を理由に強制的に迫害するというよりは、「税金を払うなら信仰はそのままでよい」という現実的な政策が取られていたのです。

この背景には、アッシリアのように恐怖政治で一時的に拡大してもすぐに滅亡した例があったこともあったと考えられます。

ウマルは、征服地を恐怖で押さえつけるのではなく、長く安定して支配するための方法を模索していました。

イスラム勢力の寛容政策

正統カリフのウマルの時代、イスラム帝国はアラビア半島の遊牧民だけでなく、農耕民や都市に暮らす人々など、まったく生活様式の異なる住民を支配する必要が出てきました。

これまでのように、ラクダを引いて移動する部族だけを相手にしていた時代とは違い、複雑な社会構造を持つ地域を治めなければならなくなったのです。

イスラム勢力は、今までとは異なる統治の形を求められることになりました。

ウマルは、征服地の社会を無理に変えようとはしませんでした。

イスラム軍は征服した土地から兵士を帰国させることなく、そのまま現地に駐屯させました。

こうした軍の駐屯地は「ミスル」と呼ばれ、各地のミスルには一人ずつ最高軍司令官が置かれ、彼らが総督として統治を担いました。

しかし、イスラム勢力は軍事的支配を強める一方で、現地の社会構造をなるべくそのまま残すように配慮したと伝えられています。

征服地の地主の土地を没収することなく、そのまま所有を認める政策も取られました。

土地を奪われるのではないかと不安に思っていた人々は、こうした寛容な対応に安心し、イスラム勢力に従うことを選ぶようになりました。

一部の人々は、「安定したら土地が没収されるのではないか」と考えていたようですが、イスラムの首脳部は人間の土地に対する執着心をよく理解しており、征服民の地主の土地を奪おうとはしなかったとされています。

イスラム帝国では、征服地の土着の地主を味方につけるために、アラブ人が土地を所有することを禁止したという話さえ伝わっています。

もしアラブ人が土地を奪えば、現地の人々は反発し、せっかくの征服地が再び混乱に陥る危険があったからです。

しかし、土地を持てないとなれば、今度は兵士たちから不満が出てしまいます。

そこでウマルは全軍に向けて「これはアッラーのご意志である」と布告し、混乱を抑えたとされています。

宗教的権威を背景にした統治は、当時のイスラム帝国にとって非常に強力な安定装置でした。

イスラム帝国では信仰の自由が認められていました。

キリスト教徒もユダヤ教徒も、信仰を捨てる必要はありませんでした。

しかし、信仰の自由を完全に認めると、「イスラム教を信じても信じなくても同じ」という状況になり、イスラム帝国としての一体性が弱まるという問題がありました。

そこで、イスラム教に改宗しない者には税金を多く課すという仕組みが作られました。

とはいえ、その税金はササン朝やビザンツ帝国が課していた重税よりも軽く設定されていました。

イスラム帝国は「不信仰税(ジズヤ)」を取るが、以前の支配者よりも税負担を軽くすることで、住民が受け入れやすいように工夫したのです。

旧ビザンツ帝国領で徴収された税を「ジズヤ」、旧ササン朝領で徴収された税を「ハラージュ」と呼びます。

こうした政策の結果、住民たちは「税金が安くなるなら」と自発的にイスラム教へ改宗することが増えていきました。

強制ではなく、経済的なメリットによって改宗が進んだという点が、イスラム帝国の拡大を支えた大きな特徴だったと言えます。

ウマル暗殺とウスマーンの即位

しかし、ウマルは個人的な恨みを抱いた奴隷に刺され、命が尽きようとしていました。

ウマルが死の間際に後継者として誰を指名したのかについては、様々な説があります。

ウスマーンという人物を指名したという説もあれば、後継者を指名しないまま亡くなったという説もあります。

ただ、ウマル自身は自分の子を後継者にして王朝を作ることには消極的だったと伝えられています。

結局、三代目正統カリフにはウスマーンが選ばれました。

しかし、ムハンマドの従弟であり義理の息子でもあるアリーを推す声も根強く残っていました。

アリーはムハンマドの信頼が厚く、初期イスラム共同体の中でも特に重要な人物だったからです。

一方で、アリーと不仲だったムハンマドの妻アイーシャはウスマーンを支持し、彼を第三代カリフに推したとされています。

アイーシャはムハンマドの最愛の妻とも言われ、その影響力は非常に大きかったと伝えられています。

ウスマーンは敬虔なムスリムではありましたが、意思が弱い面もあったとされ、次第に教団内部の不満が高まっていきました。

ウマルが亡くなったことでイスラムの征服は一旦小休止となり、代わりに内部の政治が大きな問題として浮上してきます。

ウスマーンはウマイヤ家の出身であり、彼がカリフになるとウマイヤ家が重要な役職を独占するようになりました。

これはウマルの時代とは対照的で、ウマルはイスラム帝国全体の利益を優先していたのに対し、ウスマーンはウマイヤ家の利益を優先する傾向が強かったのです。

さらに、ウマルが導入した「アラブ人は土地を所有してはならない」という政策に対する不満が高まると、ウ
スマーンはこれを撤廃し、アラブ人の土地所有を認めました。

これによりアラブ人の不満は和らぎましたが、逆に非アラブ系の住民から強い反発が起こりました。

ウスマーンの時代は「アラブ人至上主義」の色が濃く、アラブ人の利益を優先する政策が続いたため、
イスラム帝国に支配された多くの地域で不満が噴出することになりました。

ウスマーン暗殺とクルアーン再編集

こうした混乱の中で、エジプト総督の人事が大きな火種となりました。

ウスマーンはエジプト総督を解任し、代わりにウマイヤ家の人物を任命しました。

しかし、解任された総督は納得できず抗議したと伝えられています。

ウスマーンはその訴えを受け入れ、いったんは彼を再びエジプト総督に戻しました。

ところがその直後、「イスラムの繁栄のためにはウマイヤ家で固めるべきだ」と周囲に説得され、

再び人事を覆してウマイヤ家の者を総督に据えることを決めてしまいます。この優柔不断さが、事態をさらに悪化させました。

再び職を奪われたエジプト総督はついに行動を起こし、エジプトから兵を率いてウスマーンのもとへ向かいました。

そして、ほとんど警護もいない無防備な状態だったウスマーンを襲撃し、殺害してしまいます。

正統カリフ三代目のウスマーンは呆気なく世を去ったと言えるでしょう。

ウスマーンは宮殿に住んでいたわけでもなく、常駐の護衛も置いていなかったと伝えられており、その最期はあまりにもあっけないものでした。

ウスマーンの死は、イスラム共同体が一枚岩ではなくなったことを象徴する出来事となりました。

しかし、ウスマーンにも大きな功績がありました。

そのひとつが、クルアーンの再編集です。

アブー・バクルの時代にまとめられたクルアーンは、まだ統一された形ではなく、地域によって異本や誤訳が出回っていました。

当時は翻訳クルアーンも存在しており、誤訳や改変が広がる危険があったのです。

そこでウスマーンは「第二次クルアーン結集」を行い、クルアーンの標準版を作成し、翻訳を禁止しました。

現在私たちが読むことができるクルアーンは、このウスマーン版が基礎になっています。

クルアーンの統一は、イスラム世界にとって極めて重要な偉業でした。

さらに、ウスマーンには東のササン朝ペルシアを滅ぼしたという功績もあります。

ウスマーンの時代にはササン朝ペルシアがすでに弱体化していたという現実もありますが、ササン朝の滅亡はイスラム帝国にとって大きな転換点であったと言えます。

アリーの即位

ウスマーンが亡くなると、656年にアリーが正統カリフとして選ばれました。

アリーは初代カリフ選出の時から後継者候補として名前が挙がっていた人物です。

しかし、さまざまな政治的事情から長くカリフになることができず、この時にはすで50歳を超えていたと伝えられています。

アリーは、ウスマーンがウマイヤ家ばかりを重職に任命するやり方に批判的でした。

一方で、ウスマーンを殺害した者たちを処罰すべきだとも考えていたようで、この点についてはイスラム共同体の多くが同意していたとされています。

アリーがカリフに就任したものの、この頃から正統カリフ時代の終わりが近づいている兆しが見え始めます。

イスラム勢力の中にはアリーの就任を認めない者もおり、その代表的な人物がムハンマドの妻アイーシャでした。

アイーシャは自らラクダに乗って軍を率い、アリーに対して武力行使に踏み切ります。

しかし、アリーはムハンマドの時代から数々の戦場を駆け抜けてきた歴戦の武将であり、アイーシャの軍が勝てる相手ではありませんでした。

戦いはアリーの圧勝に終わり、この戦いはアイーシャがラクダに乗っていたことから「ラクダの戦い」と呼ばれています。

戦いの後、アリーとアイーシャは和解したと伝えられています。

アイーシャはマディーナに戻り、教師として余生を過ごしました。

彼女は20年以上にわたりムハンマドの言行や教えを語り続け、その伝承は後のスンナ派の教義や法学の基礎となりました。

ムアーウィヤの反発とスィッフィーンの戦い

アリーはアイーシャとの和解を果たしたものの、依然として予断を許さない立場に置かれていました。

ウスマーンは暗殺されたようなものであり、重職を独占していたウマイヤ家の人々にとって、アリーは到底許せる存在ではなかったのです。

ウスマーンの一族であり、ウマイヤ家の中心人物だったムアーウィヤは、「ウスマーンを殺した黒幕はアリーだ」と主張し、ウマイヤ家に団結してアリーを打倒するよう呼びかけました。

ウマイヤ家はウスマーンの時代に政府の要職を独占していたため、強大な政治力と軍事力を持っていました。

アリーはムアーウィヤと和平交渉を試みましたが、すでに戦う準備を整えていたムアーウィヤの耳には届かず、両者はついに決戦へと向かうことになります。

こうして、アリーとムアーウィヤの天下分け目とも言えるスィッフィーンの戦いが幕を開けました。

スィッフィーンの戦いでは、兵力の面ではムアーウィヤ軍が優勢だったと伝えられています。

しかし、アリーはムハンマドの時代から数々の戦場を駆け抜けてきた名将であり、戦いが始まるとアリー軍は優勢に戦いを進めました。

アリーの戦術は鋭く、ムアーウィヤ軍を押し込み、優勢であったと言われています。

しかし、ここから事態は思わぬ方向へと進みます。

劣勢に追い込まれたムアーウィヤは、ここで大胆な策に出ました。

クルアーンのページを破り、それを槍の先に掲げさせ、「裁定はアッラーにのみ属する」と叫びながら進軍せよと命じたのです。

戦場でクルアーンを掲げるという行為は、当時のイスラム世界では絶大な効果を持っていました。

クルアーンに弓を引くことは許されないという価値観が強く、アリー軍の兵士たちは動揺し、士気が大きく低下してしまいます。

この作戦は、かつてエジプトを征服した知将アムルの発案だったとも伝えられています。

いずれにせよ、ムアーウィヤはこの一手で形勢を逆転させ、一転して優位に立つことに成功しました。

アリー軍の内部では、戦いを続けるべきだと主張する交戦派と、クルアーンを掲げられた以上は停戦すべきだとする停戦派に分裂が生じました。

軍の指揮系統は混乱し、兵士たちの規律も崩れ、アリーがいくら戦いを続けるよう促しても、もはや軍を動かすことはできなかったと伝えられています。

こうした状況では戦いを続けることは不可能であり、アリーはやむなくムアーウィヤに停戦を申し入れ、一旦撤退することを決断しました。

ハワーリジュ派の過激化とアリー暗殺

しかし、アリーが停戦を受け入れたことで、軍の中の交戦派は強い不満を抱くようになりました。

「勝てるところだったのに、なぜ撤退するのか」
「我々が優勢だったという事実こそ、神が我々に勝利を与えようとしていた証ではないのか」
「神の裁定を無視してムアーウィヤと話し合うなど、神への叛逆ではないか」

こうした声が次々と上がり、アリーの軍の中で不満が爆発していきます。

「クルアーンに背く者をカリフとして認めることはできない」として、アリーのもとを離れていく者が続出しました。

このときアリーから離脱した人々が、後にハワーリジュ派と呼ばれる最初期のイスラム分派になります。

彼らは極めて厳格な信仰観を持ち、「神の裁定は絶対であり、人間の仲裁は不信仰である」と考えました。

そのため、アリーが停戦に応じたこと自体を「不信仰」と断じ、敵視するようになったのです。

ハワーリジュ派が誕生したことで、アリーはムアーウィヤとの決戦どころではなくなり、まずは自軍から離脱した彼らを討伐しなければならなくなりました。

ハワーリジュ派は勇猛でしたが、アリーの軍には及ばず、最終的には敗北したと伝えられています。

こうした中でハワーリジュ派は「全ての裁定を神に委ね、アリーとムアーウィアの両方に刺客を送り、生き残った方をアッラーの御加護があると認めよう」と考えます。

こうしてハワーリジュ派はアリーとムアーウィヤの両方に刺客を送りました。

その結果、アリーはあっけなく暗殺されてしまい、ムアーウィヤへの暗殺は失敗に終わりました。

正統カリフのうち、暗殺されずに亡くなったのは初代アブー・バクルだけであり、残る三人はすべて暗殺によって命を落としています。

これは、この時代がいかに混乱していたかといことををよく表していると感じます。

正統カリフの時代が終わった後の世界

ウマイヤ朝の成立

正統カリフの時代が終わった後に、世の中がどの様に動いたのか解説します。

アリーが暗殺された後、その後継者となった長男ハサンは、政治への野心がほとんどなかった人物だったと伝えられています。

彼は「生活が保障され、女性と戯れていればそれで十分だ」と考えるような性格で、権力欲も強くありませんでした。

そのため、自らカリフの位を譲ると宣言し、アリーの死後まもなくムアーウィヤに権力を委ねました。

こうしてムアーウィヤは正式に第五代カリフとなり、イスラム帝国はウマイヤ家の支配へと移行します。

ムアーウィヤはウマイヤ家の中心人物であり、ウスマーンの時代にウマイヤ家が政府高官を独占していたことからも分かるように、彼らはすでに強大な政治的基盤を持っていました。

ウマイヤ家は一度手にした特権を失うことを恐れ、何としても権力を自分たちの家系に集中させたいと考えていたようです。

特権階級となったウマイヤ家は、その地位を守るためにあらゆる手段を講じました。

その中で、彼らにとって最大の脅威となっていたのが、アリーの次男フサインの存在でした。

長男ハサンは政治に関心が薄かったものの、フサインは父アリーの正統性を継ぐ人物として期待されており、ムアーウィヤにとっては潜在的なライバルでした。

さらに、ムアーウィヤはすでに還暦に近い年齢で、当時の寿命を考えればいつ亡くなってもおかしくありませんでした。

彼は自分の死後、ウマイヤ家が特権を剥奪されるだけでなく、アリーの一族によって滅ぼされる可能性すらあると危惧していました。

ムアーウィヤの後継者指名

こうした状況の中で、ムアーウィヤは帝国中のアミール(総督・有力者)をダマスクスに集め、自らの後継者について重大な発表を行いました。

「私は後継者として、我が子ヤズィードを選ぼうと思う」と宣言したのです。

表向きには異論は出ず、ムアーウィヤの後継者はヤズィード1世に決まりました。

これによってウマイヤ家の世襲が確定し、ムアーウィヤを初代とするウマイヤ朝が正式に始まることになります。

しかし、これは全員が心から賛同したわけではありませんでした。

むしろ、ここでムアーウィヤに反対すれば身の危険があると考え、誰も異議を唱えられなかったというのが実情だと考えられています。

ムアーウィヤは強大な権力を握っており、反対者は政治的に抹殺される可能性が高かったのです。

当時のイスラム帝国の内情を見れば、アリー本人はすでに亡くなっていましたが、アリーを支持する集団は依然としてイラクのクーファという地に多く残っていました。

また、メッカやメディナには初代カリフ・アブー・バクルの派閥も存在していました。

つまり、イスラム世界にはクーファ(アリー派)、メッカ(アブー・バクル派)、ダマスクス(ウマイヤ家)の三つの勢力が並び立ち、いまだ決着がついていない状態だったのです。

ムアーウィヤの後継者指名は、この三つ巴の緊張関係の中で行われたものであり、イスラム帝国の内部対立をさらに深める火種となりました。

ヤズィード即位とカルバラーの惨劇

ムアーウィヤは、自分が亡くなった後にアリーの次男フサインや、アブー・バクル派の有力者アブドゥッラーが反旗を翻すのではないかと警戒していました。

しかし、彼は生前に二人へ手を下すことはせず、680年にこの世を去りました。

ムアーウィヤの死は、イスラム世界に大きな動揺をもたらしました。

その一方で、ムアーウィヤの死を喜んだのがイラクのクーファにいたアリー派でした。

彼らはムアーウィヤの死を知ると、メッカにいたフサインをクーファへ迎え入れ、決起しようと考えます。

フサインはわずか80名ほどの仲間を連れてメッカを出発し、クーファへ向かいました。

しかし、この動きを知ったヤズィード1世は、フサインの存在を脅威とみなし、三千の兵を送りフサインを討つよう命じました。

フサインはアリーの息子であり、母はファーティマ、そして祖父は預言者ムハンマドです。

ムハンマドは生前、フサインを深く可愛がっていたと伝えられています。

それでも、ウマイヤ家にとってフサインは権力を脅かす存在であり、放置することはできませんでした。

ヤズィード1世の軍勢はフサイン一行を包囲し、圧倒的な兵力差の中でフサインを討ち取りました。

この事件が「カルバラーの戦い」、あるいは「カルバラーの惨劇」と呼ばれるものです。

80名の一行に対して三千の軍勢が襲いかかったことを考えると、「戦い」というより「惨劇」と呼ぶ方がふさわしいと感じられます。

こうしてヤズィード1世にとって残る脅威は、アブー・バクル派のみとなりました。

ヤズィードの強硬策とメッカ攻撃

ヤズィード1世は、アブー・バクル派の有力者アブドゥッラーを懐柔しようと、銀貨の鎖を贈りました。

しかしアブドゥッラーはこれを受け取りませんでした。

アブドゥッラーにとって、ウマイヤ家の支配を認めることはできず、ヤズィードの贈り物を受け取ることは屈服を意味していたからです。

この拒絶に激怒したヤズィード1世は、ついにメッカへ向けて軍を進め、アブドゥッラーが立てこもる聖地メッカを攻撃しました。

イスラム教の聖地に軍を進めるという行為は、当時としても極めて異例であったため、
ヤズィード1世がカリフでありながら信仰心をどれほど持っていたのか疑問視されています。

ヤズィード1世の軍はメッカを包囲し、攻撃を続け、ついにはカーバ神殿に火を放つ事態にまで発展しました。

カーバ神殿はイスラム教徒にとって最も神聖な場所であり、その建物に火がかけられたという事実は、イスラム世界に深い衝撃を与えました。

ヤズィード1世の急死と帝国の混乱

ここで事態は急転します。

カーバ神殿が焼かれてからわずか11日後、ヤズィード1世が突然死去したのです。

人々はこれを「カーバの呪い」だと噂し、ウマイヤ朝の軍勢にも動揺が走りました。

軍は統率を失い、最終的にはメッカから撤退せざるを得なくなりました。

しかし、不幸はそれだけでは終わりませんでした。

ヤズィード1世の後継者となったムアーウィア2世は、わずか在位2か月で病没します。

さらに、その次に第四代カリフとして即位したマルワーン1世も、在位1年9か月で亡くなってしまいました。

立て続けにカリフが短期間で死去したため、当時の人々は「これはカーバを焼いたことに対するアッラーの怒りだ」と噂したと伝えられています。

ただし、ウマイヤ朝側は「カーバ神殿に火を放ったのは敵側であり、我々ではない」と主張していました。

実際のところ、誰が放火したのかは史料が乏しく、真相は分からないままです。

しかし、こうした不幸の連続はウマイヤ朝の権威を大きく揺るがしました。

エジプトやイラクなど各地の総督たちは次々にウマイヤ朝から離反し、独自の勢力を築き始めます。

その結果、ウマイヤ朝の支配領域はシリア周辺にまで縮小し、王朝は存亡の危機に立たされることになりました。

イスラム帝国は再び混乱の渦に巻き込まれ、ここから新たな勢力が台頭し、歴史は次の大きな転換点へと進んでいくことになります。

正統カリフの動画

正統カリフのゆっくり解説動画となっています。

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宮下悠史

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