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| 名前 | 蒲鶮(ほかく) |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前239年 |
| コメント | 屯留の人 |
蒲鶮は史記に登場する人物であり、始皇本紀に名前が見られます。
漫画キングダムでは蒲鶮を野心家として登場させており、見るからに悪人と言った人物でした。
しかし、史実の蒲鶮を見る限りでは強欲さは見えず、むしろ屯留の民の事を考えて乱を起こしたのではないかと感じました。
蒲鶮は成蟜や壁と深く関わっている様ではありますが、史実ではとにかく謎が多い人物でもあります。
尚、蒲鶮に関しては人名ではなく、地名だったのではないかとする説も存在する程です。
史記の記録
蒲鶮は史記の始皇本紀に名前が登場しており、次の様に記載されています。
※史記本紀 ちくま学芸文庫より
8年、秦王の弟長安君成蟜が軍を率いて趙を討ち、趙の屯留の民を従えて謀叛した。
秦はこれを撃って長安君を殺害し、軍吏をみな斬り、屯留の民を臨洮(甘粛)にうつした。
この時、将軍の壁が死ぬと、武卒の屯留人蒲鶮がまた背いた。
よって、これを殺して、その屍を戮した。
これが史記における蒲鶮の記述であり、蒲鶮が壁の死後に秦に背き亡くなった事も分かるはずです。
これらの記述から蒲鶮は実在したと考えられます。
屯留とはどんな土地なのか
キングダムでの蒲鶮は成蟜に玉座に就く様に勧め、承諾しないとみるや幽閉してしまうなど、野心家としての一面が強く見られます。
さらに、瑠衣を自分のものにしようと企てるなど、欲望の権化の様な描かれ方をしました。
しかし、史実の蒲鶮を見る限りでは、秦に背いて散った人物として書かれているだけであり、蒲鶮が欲望にまみれた人物には見れません。
史実の蒲鶮を考える上で、屯留と深い関係にあった事を知る必要があると感じました。
屯留は戦国時代が始まった頃は趙の領地であり、この頃は魏の文侯や武侯が晋の公室の権威を利用し勢力を拡大していた時代でもあります。
趙や韓は晋の公室を利用する魏を疎ましく思っており、魏の武侯が亡くなり国が乱れたタイミングで、晋の孝公を屯留に遷し魏に晋の権威を使えない様にしました。
屯留は趙の領地でしたが、晋の孝公の居場所となっており、孝公を奪われても困るわけであり、治安もよく統治が行き届いていた地域だったのではないでしょうか。
その後に、屯留は韓の領地となり、この時に韓の昭侯により晋の静公が殺害され、晋の公室は滅亡しました(異説あり)。
後に屯留は秦の領地となりますが、三晋(韓・魏・趙)への帰属意識も強かったのではないでしょうか。
蒲鶮自身も秦の統治に不満を持っていた可能性がある様に思います。
蒲鶮の乱
秦王政の8年(紀元前239年)に、秦の成蟜が屯留で秦に反旗を翻しました。
成蟜の乱については謎が多く、不明な点が多いです。
成蟜は勝手に乱を起こしたのかも知れませんが鎮圧されると、屯留の民は臨洮に遷される事になり、民の不満が爆発寸前になっていた様に感じました。
民の心を感じ取った蒲鶮は乱を起こしますが、本人も単独で秦と対峙出来るとは考えておらず、趙、魏、韓の援軍を願ったのではないでしょうか。
しかし、諸侯の軍は紀元前241年の函谷関の戦いで破れており束になっても秦には敵わず、蒲鶮を助けようとする者は現れなかった様にも感じました。
もしくは、諸侯は蒲鶮を助けようとは思いましたが、秦が電光石火の軍で蒲鶮を斬り、乱を平定してしまった可能性もあるはずです。。
蒲鶮の計画は失敗に終わりました。
史記の始皇本紀の記述を見る限りでは、蒲鶮は乱を起こしたのかも知れませんが、決して野心家では無かった様に感じています。