
檀石槐は鮮卑を大勢力とした英主とされていますが、和連は不肖の息子とされており、評価は極めて低いです。
それでも、和連は鮮卑を率いて後漢王朝の北方を荒すなどしました。
魏書には和連の「裁きが公平でなかった」など書かれていますが、実際には鮮卑を立て直そうとするも戦死してしまったのが実情ではないでしょうか。
偉大な父を持つ大変さを味わった人物にも感じました。
和連が後継者になる
和連は檀石槐の子であり、鮮卑が世襲制を採用していたことが分かります。
『三国志』の注釈・魏書によれば、和連は檀石槐とは異なり、裁判の不公平さなどから部族内での信望を失い、命令に従わない者が増えていたと記録されています。
こうした記述から、和連に対する評価は極めて低いと言えるでしょう。
それと同時に檀石槐が亡くなり一気に勢力が縮小されるのは、遊牧民の組織の脆弱さを現わしているとみる事も出来るはずです。
中華王朝では桓帝が亡くなっても、幼少ではあったかも知れませんが、霊帝が即位しており、中華王朝に比べると遊牧民の足下の脆さは際立っている様に感じました。
和連の最後
和連は後漢王朝への略奪行為は頻繁に行っていたようです。
後漢の霊帝末年(189年)、和連は北地郡を襲撃しました。
後漢側は弩の扱いに長けた兵を多く配置しており、和連は戦闘中に弩の攻撃を受けて戦死したとされています。
和連の子の騫曼は幼少であり、和連の兄の子の魁頭が後継者となりました。
和連は本当に不肖の息子だったのか
和連に対する記述は、正史三国志の本文には無く、注釈の魏書の記述を頼るしかありません。
魏書の記述を見ると和連は良い事が書かれていませんが、戦死したとは言え189年の北地郡に出兵している事が分かるはずです。
暗君と言えば、酒と女性を好み宴会ばかりしているイメージがありますが、和連を見るとちゃんと兵を率いて後漢を攻撃している事が分かります。
それらを考えると、和連は決して酒ばかり吞んでいる君主ではなく、兵を率いており鮮卑を何とかしたいという思いはあったのではないでしょうか。
実際に和連は189年に北地郡を攻撃していますが、この年は霊帝が亡くなり少帝が立ちますが、大将軍の何進も宦官との争いで倒れ、宦官もまた袁紹と袁術により皆殺しにされ、董卓が政権を握るなど、後漢王朝の内部は荒れていました。
和連は後漢王朝の隙を突いて兵を出しているのであり、決して悪い策ではないと感じています。
ただし、和連は戦死してしまいました。
和連は檀石槐の後継者となりますが、鮮卑の一部の部族が離脱し、再び纏めようとしていましたが、こうした中で戦死してしまったのではないでしょうか。
| 先代:檀石槐 | 和連 | 次代:魁頭 |