遊牧民族

檀石槐は北方に大遊牧帝国を築いた

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宮下悠史

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名前檀石槐(だんせきかい)
生没年137年ー181年
鮮卑
一族父:投鹿侯 子:和連など
コメント鮮卑族の大帝国を築いた

檀石槐は鮮卑の大人(たいじん)になった人物であり、バラバラだった鮮卑族を統一し北方に大勢力を築きました。

後漢王朝も檀石槐を懐柔しようとしましたが、上手く行かず張奐を派遣しますが、鮮卑を駆逐する事は出来ませんでした。

檀石槐の時代に鮮卑は強大となり、東、中、西に分けて統治した話があります。

鮮卑は檀石槐の時代に大遊牧帝国となりましたが、子孫は求心力を得る事が出来ず鮮卑の力は弱まりました。

檀石槐の登場

後漢の桓帝の時代、鮮卑には投鹿侯(とうろくこう)という人物がいました。

投鹿侯が外征している間に妻が子を産みましたが、妻は「口に入った雹(雷とも伝わる)を呑み込んだところ妊娠し、十か月後に子が生まれた」と語ったとされています。

このとき誕生したのが、後に鮮卑最大の英雄となる 檀石槐(だんせきかい) です。

ただし、投鹿侯は妻の話を信じず、檀石槐は妻の実家で育てられる事になります。

成長した檀石槐は、智謀に優れ、武勇にも秀でた人物となりました。

彼が14~15歳の頃、別の鮮卑部族の大人・卜賁邑(ぼくほんゆう)が、檀石槐の母の実家から牛や馬を奪う事件が起こりました。

檀石槐は卜賁邑を追跡し、奪われた家畜をすべて取り返したと伝えられています。

若年ながら圧倒的な行動力と武勇を示したことで、周辺部族は檀石槐を畏れ、彼の求心力は急速に高まりました。

その結果、檀石槐は鮮卑の「大人(たいじん)」に推挙されました。

西暦156年、20歳になった檀石槐は後漢の雲中郡へ侵攻し、略奪を行いました。

檀石槐の武略は非常に優れていたとされ、「檀石槐に従えば物資を得られる」と考えた多くの遊牧民が彼のもとに集まったと伝えられています。

檀石槐は幽州や幷州にも侵攻し、後漢にとって大きな脅威となりました。

この時期、気候変動によって牧草が不足していたと考えられています。

牧草地の減少は遊牧民にとって死活問題であり、家畜を維持するためには新たな土地や物資が必要でした。

そのため、鮮卑を含む多くの遊牧民が中華領内へ侵入し、生活のために略奪を行うことが増えていきました。

檀石槐の台頭は、こうした環境的・社会的背景とも密接に結びついていたと考えられます。

檀石槐と張奐

鮮卑の近隣勢力にとって大きな影響を与えたのは、鮮卑を率いた人物が檀石槐であった点です。

後漢の桓帝の時代、西暦158年に後漢は張奐を将軍として派遣し、南匈奴の伊陵尸逐就単于と協力して鮮卑討伐を行わせました。

張奐は鮮卑と交戦しましたが、彼の名声が遊牧諸勢力に広く知られていたためか、鮮卑側が警戒し、決定的な戦果を挙げるには至らなかったとされています。

後漢は檀石槐を武力で制圧することが難しいと判断し、檀石槐に印綬を授けて「王」とする案を提示しました。

しかし檀石槐はこれを受け入れず、後漢領への侵入を続けました。

一方で、檀石槐自身も張奐の存在を強く意識していたとされ、張奐が北方に駐在している間は鮮卑の行動が抑制されていたと記録されています。

鮮卑の全盛期

後漢といえば、幼帝の続出や宦官・外戚の対立が注目されがちですが、檀石槐が勢力を拡大した時期には、後漢にとって外部の脅威も大きな問題でした。

西暦166年、檀石槐は20代後半になっていました。

張奐が中央へ戻ったことを知ると、檀石槐は南匈奴・烏丸と連合して後漢を攻撃し、大きな戦果を挙げました。

後漢は驚き、再び張奐を北方へ派遣しました。

張奐の到来を受け、南匈奴と烏丸は降伏し、鮮卑のみが撤退したとされています。

張奐は南匈奴と烏丸の首脳の一部を処罰し、その他は赦免しました。

遊牧民の勢力を全面的に追い詰めると、長期的な反発を招く可能性が高かったため、後漢としては現実的な対応を取ったと考えられます。

檀石槐は広大な勢力圏を形成しましたが、その支配領域を 東・中・西の三部 に分けたとされています。

これは、一人の指導者が広大な地域を直接統治することが困難であったため、複数の大人(たいじん)を配置して統治を分担させたものと考えられます。

東部は濊・夫余・遼東に接する地域で、弥加・闕機・素利らが大人に任命されました。

中部は右北平以西から上谷に至る地域で、闕居や慕容らが大人となっています。

慕容氏は後に五胡十六国時代に前燕・後燕・西燕を建国する勢力として知られます。

西部は上谷以西から烏孫に接する地域で、日律推演・置鞬落羅らが大人に任命されました。

これらの配置から、檀石槐の時代が鮮卑の最初の全盛期であったことが分かります。

ただし、檀石槐に従う者は圧倒的に増えましたが、鮮卑の食糧問題は解決しておらず、汗国を攻撃し汗人に魚を獲らせた話も残っています。

尚、檀石槐が倭国を攻撃し倭国大乱を引き起こしたとする説もありますが、眉唾ものでしょう。

檀石槐の死と歴史的影響

檀石槐は食糧問題に直面しながらも鮮卑を強大化させましたが、後漢の霊帝の時代である西暦181年、45歳で死去しました。

黄巾の乱(184年)の直前であり、三国志の時代が始まる少し前に亡くなったことになります。

檀石槐の死後、鮮卑は再び分裂し、後漢・三国時代における鮮卑の動向は部族ごとに異なるものとなりました。

「檀石槐があと10年長く生きていれば、三国志の世界は存在せず、五胡十六国時代が早く到来したかもしれない」という見解もありますが、これは歴史学的には仮説的な推論に属し、確証はありません。

ただし、檀石槐の勢力が非常に大きかったことは史料から明らかであり、彼の存在が北方情勢に大きな影響を与えたことは確実です。

檀石槐が亡くなると子の和連が後継者になりました。

先代:投鹿侯檀石槐次代:和連

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