名前 | 何進(かしん) 字:遂高 |
生没年 | 生年不明ー189年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
一族 | 父:何真 継母:舞陽君 兄弟:何苗、何氏 孫:何晏 |
年表 | 184年 大将軍となる |
189年 宦官らと争い命を落す | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
何進は妹の何氏が霊帝の妃となった事で、肉屋から大出世を果たした人物です。
何進と言えば三国志演義の優柔不断で、何皇后の後ろ盾のみで大出世した人物に思うかも知れません。
しかし、実際の何進は肉屋から大将軍にまで昇りつめる間に、潁川太守や河南尹なども行っており、能力的にも認められて大将軍になったのではないか?とする説もあります。
何進は大将軍にはなりましたが、合戦で軍隊を指揮した記録がなく軍事面は未知数ですが、行政能力などに関しては評価されていた可能性もあるでしょう。
さらに言えば、妹の何氏は絶世の美女であり、兄である何進もかなりのイケメンだったのではないか?とする考えもあります。
何進の元には誰にも仕官しなかった袁紹や、建安いの七子の一人でもある陳琳、荊州を支配した劉表、曹操の軍師となる荀攸など多彩な人物が集まってきました。
それを考えると、何進にも天下に人々が期待する部分も大きかった様に思います。
ただし、何進の最期は少しの油断により、宦官の張譲や趙忠ら十常侍により、命を落してしまったとも言えそうです。
今回は肉屋から大将軍にまで出世した何進を解説します。
尚、歴史作家の宮城谷昌光氏は何進を高く評価したのか、書籍「三国志名臣列伝・後漢編」の中で、何進も名臣の一人として選出しました。
因みに、何進は宦官の助けにより外戚が権力を持つのは、中国史の中でも稀だと評価される場合もあります。
何進の一族
何進の字は遂高で荊州南陽郡宛県の人です。
一般的には何進は、屠殺業を営んでおり庶民だったと考えられています。
何進の父親の名は何真であり、何進には妹がいました。
何進の生母の名前は分かりません。
しかし、何進の母親は早くに亡くなってしまったのか、何真の継母になったのが、後に舞陽君と呼ばれる女性です。
舞陽君の連れ子が何苗であり、何進と何苗に血の繋がりはありません。
何進にとってみれば、舞陽君が何真の嫁いだ時点で、突然弟が出来たような感じだったのでしょう。
何進の父親の何真と舞陽君の間に、生まれたのが何氏であり、何進の運命を変える事になる女性です。
後に曹操に養育される何晏は何進の孫にあたります。
何晏は何進の孫とあるだけで、父親の名前は分かっていません。
何進は普通の肉屋ではなかった
何進は肉屋をやっていたとされており、街の個人商店の肉屋を思い浮かべるかも知れません。
しかし、何進の家では宦官の郭勝に賄賂を贈り、何氏を霊帝の後宮に入れるべく動いたとする事実があります。
何氏は美貌を兼ね備えており、何真や舞陽君も「何皇后であれば皇后にもなれる」と思っていたのでしょう。
何進の家では宦官の郭勝に賄賂を贈ったわけですが、宦官に賄賂を贈り出世するには、かなりの額が必要です。
孟達の父親の孟他などは、宦官に送るだけの賄賂の額を用意できず、宦官の使用人に賄賂を贈る奇策を使い、涼州刺史にまでなっています。
それを考えると、何進の家で郭勝に送った賄賂の額は、かなりの金額であったはずであり、普通の個人商店の肉屋であったならば、出せるような金額ではなかったはずです。
何進の家で郭勝に賄賂を贈ったとなると、何進の家は肉屋の元締めだったとも、富豪だったのではないか?とも考えられています。
何進の家は南陽郡の肉を牛耳る様な肉屋だったのかも知れません。
他にも、舞陽君の実家が金持ちだったなど、様々な説があります。
確実なのは何進の家で郭勝に賄賂を贈り、何氏が後宮に入る事が許され、宦官の後押しにより何氏は、皇后にまでなるという事です。
何氏は霊帝との間に、劉弁を生み、劉弁が後の少帝となります。
尚、何進が野心家で妹が皇后になったのを喜んだのか、肉屋をやっていたかったと考えたのかは記録がなく分かっていません。
しかし、何進は何氏が霊帝の寵愛を受けた事で、運命が変わった事だけは間違いないでしょう。
何進の出世
何皇后が175年に劉弁を生むと、何進は郎中となり、虎賁中郎将、潁川太守に栄転し出世コースに乗りました。
勿論、何進の出世の裏には何皇后のお膳立てもあったはずです。
しかし、何進が全くの無能であれば出世コースに乗る事も出来なかったはずであり、出世するには名士や豪族とも上手くやっていく必要があります。
それを考えると、何進は教養もあり有能な人だったのではないか?とも考えられています。
何進は肉屋をしていた太った人物に思われがちですが、腹違いではありますが、妹の何皇后は絶世の美女であり、何進もイケメンで容姿も良かったのではないか?とする説もあります。
何進は有能さと容姿のよさで出世した可能性もあるという事です、
ただし、何進がイケメンだったとする記述は存在せず、あくまでも想像によるところが大きいと言えるでしょう。
180年に霊帝は宋皇后を廃し、何氏を皇后に指名しました。
これにより何進は中央に呼ばれ、侍中、将作大匠、河南尹となります。
これらの役職は霊帝の支えるものであり、霊帝にも意見を言える立場となったわけです。
何皇后が皇后になった以上は、何進に地方勤務をさせるわけにも行かず、中央に呼ばれた部分もあった様にも感じています。
大将軍となる
太平道の張角は乱を起こそうと水面下で準備を進め、184年の3月5日に全国で一斉蜂起しようと画策していました。
張角は後漢王朝の本拠地である洛陽にも馬元義を派遣し、内応者を募り万全の体制で乱を起こそうと考えていたわけです。
しかし、張角の勢力は大きくても、後漢王朝には軍事力で及ばないと考えたのか、部下の唐周が朝廷に密告しました。
霊帝は宦官の周斌に調べさせると、多くの者が張角を慕っている事が分かります。
これにより霊帝は内通した千人ほどを処刑し、張角は計画がバレた事で、予定よりも早く全国で一斉蜂起しました。
霊帝は洛陽の防衛を第一と考え、大将軍に何進を指名しています。
天下が荒れている時期に、武の中心である何進を大将軍とするのは、霊帝は何進を高く評価し「絶対に裏切らない」と考え、信用していたからでしょう。
これにより何進は後漢王朝の軍事部門のトップに躍り出たわけです。
尚、何進が大将軍となると異母弟の何苗は河南尹となった様で、何進が大将軍となり空いた江南尹のポストに何苗を任命したのでしょう。
何進は首都防衛の為の軍を都亭に置き、黄巾賊に備えました。
この時に、王謙が何進に黄巾の乱は外だけではなく、洛陽の内部にいる黄巾賊にも備える様にと進言しています。
張角が引き起こした黄巾の乱ですが、皇甫嵩、朱儁、盧植らの活躍により短期間で鎮圧されました。
黄巾の乱は三国志では主役級の人物である曹操、劉備、孫堅らの登場に繋がりますが、何進は特に黄巾賊と戦った記録がありません。
何進が黄巾の乱で行った事は大本営におり、都内を鎮めて内応する者を防いだこと位でしょう。
しかし、何進の功績は認められ慎侯に封じられました。
187年には何苗が滎陽で起きた反乱を鎮圧し、何苗は車騎将軍、済陽侯となります。
軍事面では大将軍の何進、車騎将軍の何苗と何氏の兄弟で大権を握る事になります。
様々な人材が集まる
何進は大将軍となりましたが、様々な人物が何進の元に集まってきました。
先に述べた王謙だけではなく、陳琳の様な文学に優れた者も何進の下にいたわけです。
袁紹は仕官を固辞していたにも関わらず、何進の招きには応じています。
後に荊州で地盤を築く劉表も何進の配下となっています。
さらには、逢紀、何顒、荀攸なども何進の下で働く事となりました。
荀攸などは荀彧と共に曹操の覇権を支えた軍師でもあり、こうした人物も何進の元に集まったわけです。
何進は名士出身ではありませんが、何進に期待する何かがあり、皆は何進の下に集まったのでしょう。
西園八校尉
188年に占いがあり「近々洛陽で大兵が起き両宮で流血が必ずおこる」と出ました。
何進配下の許涼と伍宕は兵による禍が起こると考えたのか、何進に「霊帝が将となり四方を威圧するべき」と意見を述べる事になります。
何進は霊帝に報告すると、霊帝も納得し詔を発行し天下より兵を集めました。
この時に騎兵や歩兵などが数万集まったとも伝わっています。
霊帝は邪気を払う為の儀式を行い、自ら無上将軍と名乗り鎧を着け馬に乗った話があります。
霊帝による儀式は終わりますが、ここで霊帝は皇帝直属の常備軍を作ろうと考えたわけです。
これが西園八校尉であり8人の司令官の中には袁紹、曹操、淳于瓊らがいました。
ただし、霊帝は宦官愛は強く西園八校尉の元帥には、宦官の蹇碩が選ばれています。
これにより何進は蹇碩よりも下の序列となっています。
何進は大将軍ではありますが、この軍の中の序列では蹇碩の下になってしまったと言えるでしょう。
こうした霊帝の決定には、何進配下の者達にも不満が多かったのではないか?と考えられています。
何進の配下を見ると宦官を嫌う者が多くおり、自分達のボスである何進が宦官の下に置かれるのは、やるせない気持ちもあった様に感じています。
蹇碩の策
蹇碩は宮中において数万の兵を手に入れましたが、大将軍の何進を目障りに思っていました。
蹇碩は宦官たちと共に策を弄し、西にいる辺章や韓遂の討伐を霊帝に進言しています。
蹇碩は何進を韓遂、辺章の討伐に向かわせ洛陽から追い払いたかったのでしょう。
しかし、何進は蹇碩らの考えを読んでおり、霊帝は次の様に述べました。
何進「乱れているのは西方ばかりではなく、東方の混乱の方が都にも近く危険です。
西園八校尉の袁紹を東の徐州や兗州に派遣し、袁紹が平定し帰還した後で、私が西方へ向かいましょう」
何進の言葉は西方に行く為の時間稼ぎではありましたが、効果があり何進は西征しなくて済む事となります。
ここで何進が西に向かえば、蹇碩が洛陽で暗躍する事は目に見えており、機転を利かせたとも言えるでしょう。
しかし、何進と蹇碩の対立は激化していく事となります。
霊帝の後継者問題
霊帝には二人の子がおり、兄が何皇后が生んだ劉弁であり、弟が王美人が生んだ劉協です。
霊帝は劉弁が言葉が軽く、帝としての資質は弟の劉協の方が上だと思っていました。
しかし、霊帝は何皇后に好意を持っており、何進の権勢があった事で、劉協を後継者にすると軽々しく、宣言する事が出来なかったと伝わっています。
劉協の母親である王美人は何皇后が毒殺してしまいますが、霊帝は事件が露見しても何皇后を罰する事が出来ず、劉協は霊帝の母である董太后に育てられる事となります。
劉協は董太后に養育されますが、董太后は劉協を霊帝の後継者にしたいと考えており、蹇碩と結びつきました。
これにより後継者争いが勃発し劉弁派には何皇后、大将軍の何進、車騎将軍の何苗がおり、劉協派には董太后や驃騎将軍の董重、西園八校尉の蹇碩がいた事になるでしょう。
何進暗殺計画
189年になると霊帝は病に掛かり崩御してしまいます。
霊帝は突然死だった様で、後継者を正式に発表してはいなかったわけです。
霊帝は亡くなる時に、遺詔を残しており、遺詔には後継者を次男の劉協を指名し、蹇碩に授けたと伝わっています。
しかし、蹇碩は何進や何皇后に遺詔を握りつぶされる事を恐れ、何進を暗殺しようと考えました。
何進は霊帝の葬儀に参加する為に、宮中に入りますが、蹇碩配下の司馬である潘隠は何進を出迎えています。
何進と潘隠は旧知の間柄であり、潘隠は何進に目配せを行い危険を知らせました。
何進は潘隠の目配せに「宮中に行くのは危険だ」と判断し、陣に帰り屋敷に留まり霊帝の葬式には、病気と称し参加しなかったわけです。
蹇碩による何進暗殺計画は潘隠により、阻止されたとも言えるでしょう。
録尚書事
蹇碩は何進の暗殺に失敗しますが、霊帝の遺詔を出しても信じる者がいるのかも分からず、何も出来なかったわけです。
そうこうしている内に、何皇后が息子の劉弁を即位させました。
劉弁は後に少帝と呼ばれる事となりますが、朝政は何皇后が行う事となります。
少帝が即位すると何進と太傅の袁隗が政治を補佐する事となります。
何進はこの時に録尚書事となり、軍事だけではなく政治にも強い影響力を持ちました。
蹇碩は録尚書事になった何進に対し、歯がゆい思いをしていたはずです。
董重を討つ
少帝は即位しましたが、劉協を育てた董太后は、自分が権力を握りたいと考え何皇后と対立しました。
何進も大将軍ではありましたが、驃騎将軍の董重と争う事となります。
何進は何皇后の意向もあり、弟で車騎将軍の何苗と共に「董太后は宦官を結びつき私腹を肥やしている。永楽宮に移すべき」と上奏しました。
董太后は永楽宮に移される事となり、何進はや驃騎府を包囲し董重を罷免に追い込んでいます。
董重は自害し、董太后は頼りにしていた董重が討たれた事で、意気消沈してしまったのか、それから間もなく亡くなりました。
何進は政敵である董太后や董重を排除する事に成功したわけです。
袁紹の進言
何進は董重は片付けましたが、宦官の蹇碩が自分の命を狙っている事を知っており、不安に感じていました。
この様な時期に、袁紹は張津を使い何進に「宦官の排除」を進言しています。
何進の配下には宦官を嫌う者も多くおり、何進も宦官の排除に乗り出す事となります。
何進は袁紹だけではなく、袁逢の子で任侠の人として定評があった袁術も重用しました。
何進は蹇碩を始めとした宦官排除に動き出す事となります。
蹇碩を処刑
蹇碩の方でも、何進が自分を排除するつもりだと悟りました。
蹇碩も同じく宦官の趙忠や宋典に書状を送り「何進が宦官の排除に動いている」と訴えています。
蹇碩はさらに「自分が握っている兵権を使い何進を討とう」と趙忠や宋典を誘っています。
蹇碩は宦官たちに何進の排除を訴えますが、何皇后を後宮に入れた宦官の郭勝は蹇碩に味方しようとは思いませんでした。
郭勝は何皇后や何進に恩を売っており、何皇后や何進が排除されてしまえば、自分にとってマイナスに働くと考えたのでしょう。
蹇碩が何進を討ち取ったとしても、郭勝にメリットはないと思ったとしても不思議はありません。
郭勝は何進に手紙を送り、蹇碩が何進を討とうとしている事を告げました。
郭勝が何進に味方した事で、宦官たちは震えあがり大半の宦官は何進に味方する事となります。
何進は黄門令に命令し、蹇碩を捕え処刑しました。
蹇碩は西園八校尉の元帥であり莫大な兵を持っていたわけですが、何進は蹇碩の兵を奪い取る事に成功したわけです。
何進はさらに強大な権力を手に入れました、
宦官撲滅計画
何進は董太后と蹇碩を打倒した事で、後漢王朝内に敵はいないと思ったのかも知れません。
しかし、袁紹はまだ「危険である」と判断したのか、何進に「軽々しく宮中に入りませぬ様に」と諫言しました。
袁紹は蹇碩が死んでも、宦官たちの勢力が盛り返し、第二、第三の蹇碩が現れると考えたのでしょう。
袁紹は竇武を例に出し、宮中の汚れである宦官を残さず掃除すれば、周の申伯以上の評価を得られると進言しています。
袁紹は中途半端に宦官を排除するのではなく、宦官たちを撲滅させようと考えていたわけです。
何進は宦官のお陰で出世出来た部分が大きく、感謝もしていたはずですし、逆に宦官が天下を乱す原因になっている事も知っており、複雑な気分だった事でしょう。
それでも、何進は袁紹や配下の名士達の意見を聞き入れたのか、大規模な宦官排除に向けて動く事となります。
何皇后の反対
何進は宦官撲滅計画を実行する為に、何皇后の元に行き宦官排除の許可を願い出ました。
しかし、何皇后は宮中に宦官は必要であり、宦官たちにお陰で皇后になれた事もあり、何進の計画には大反対したわけです。
何進も何皇后の意見に背き、宦官排除を決行する事が出来ず引き返しました。
何皇后だけではなく、母親の舞陽君や何苗も宦官に恩を感じており、何進の一族は宦官の排除には反対だったと考えられています。
何進は袁紹ら家臣団と一族の間で板挟みになってしまったのかも知れません。
各地の軍閥を呼び寄せる
袁紹は意地でも宦官撲滅を成し遂げようとしたのか、地方の有力者を洛陽に集め兵を使って何皇后を脅そうと考えました。
多くの兵が宦官の排除を訴えれば、何皇后も折れて宦官排除を了承すると考えたわけです。
何進は袁紹の進言を聞き入れ、地方の兵を都に集めようとしますが、陳琳は「大袈裟過ぎる」と思い反対した話があります。
地方の軍を集めれば下手をすればバトルロイヤルとなり、最強の者が何進を凌ぐ可能性があったからです。
何進は袁紹を司隸校尉、仮節に任命し独自の判断で武力を用いてもよいという許可を出し、王允を江南尹に任命しました。
曹操、張遼、鮑信、張楊、王匡、橋瑁らも兵を集め何進の為に動いています。
何進の宦官追放作戦は着々と準備を進めたわけです。
董卓や丁原など地方の軍は洛陽に集まり、これを見た何皇后は宦官たちを罷免し、何進や袁紹の計画は上手く行ったかに思えました。
それでも宦官たちは何進に詫び、許しを請いますが、何進は「天下が乱れたのは宦官の責任」と述べ取り合いませんでした。
しかし、何進は宦官たちの命を奪う事もしなかったわけです。
何進は宦官を追放するだけで済まそうとしました。
何進は宦官の排除と言っても、害がある悪徳な宦官だけを排除しようと考えていたのでしょう。
実際に歴史を見ても明王朝に仕えた鄭和や、戦国時代に藺相如を推挙した繆賢、曹操の祖父に当たる曹騰など良質な宦官もいたわけです。
そうした事も考慮し、何進は一部の宦官だけを排除しようと思ったのでしょう。
それに対し、袁紹は窮鼠猫を噛むの話もあり、宦官の善悪を見分けるのは難しいから、全ての宦官を排除するべきだと考えていました。
袁紹は後漢王朝は幼帝が続き宦官たちにより腐敗し、宦官こそが諸悪の根源だと思っていたのでしょう。
何進の最期
何進は一度は宦官らを宮中から出す事に成功しましたが、宦官らは舞陽君や何苗らに賄賂を贈っており、それらが生きて来る事となります。
舞陽君や何苗は何皇后に宦官を戻す様に進言しました。
この時に、舞陽君や何苗は、何進を讒言したとも伝わっています。
舞陽君や何苗は何進と血の繋がりが無く、賄賂に負けて讒言してしまったとも言えるのかも知れません。
何皇后は舞陽君や何苗の意見に従い宦官たちを宮中に戻しました。
この何皇后の選択が舞陽君や何苗の寿命を縮め、何進の一族が凋落する原因にもなります。
何皇后が宦官を宮中に戻した事で話が進まず、何進は遂に何皇后に謁見し「宦官を誅殺し三署郎に任せる」と宣言しました。
何進は宦官の撲滅に舵を切った事になります。
しかし、何進の動きを宦官の張譲らは察知しており、同じく宦官の畢嵐、段珪と共に兵を率いて宮中に入りました。
張譲らは何皇后の偽りの詔を作成し、何進を宮中に呼ぶ事に成功します。
何進は宮中で張譲らの兵に囲まれました。
張譲は何進に天下が乱れたのは自分達の責任だけではないと述べ、自分達は何皇后をかなりフォローしたのに、お前の態度は何だ!と何進を責めています。
何進は張譲に罵倒され、その後に渠穆が剣を抜き何進を討ち取りました。
何進は嘉徳殿の前で命を落したと伝わっています。
何進は後漢末期に肉屋から大将軍にまで成り上がりましたが、呆気なく最後を迎えたわけです。
何進の死後
何進の死後に張譲や段珪らは、詔を偽造し樊陵を司隸校尉に任命し、少府の許相を江南尹にしようと画策します。
尚書が何進に確認をさせて欲しいというと、宦官たちは何進の首を投げ「謀反人の何進は討ち取った」と述べました。
この話を何進の部下の呉匡と張璋が聞くと、多いに怒り、呉匡は袁術と共に宦官誅殺の為に宮中に入ります。
これにより宮中では惨劇が始まりました。
さらには、尚書の盧植も宮中に入り、袁紹や袁隗も宦官が任命した樊陵や許相を斬首しています。
霊帝に寵愛された宦官の大物である趙忠も討ち取られました。
何進の弟の何苗は袁紹らと共に戦いはしましたが、何苗が何進の意見に何度も異を唱えた事もあり、呉匡は何苗を嫌っており董卓の弟である董旻と共に何苗を殺害しています。
この時に何進配下の兵たちは、何進の死に涙を流し奮戦した話が残っています。
何進の弔い合戦で多くの者が亡くなり、宮中は大惨事になったと言えるでしょう。
この混乱の中で少帝と陳留王(劉協)を保護した董卓が権力を握る事となります。
董卓が実権を握ると陳留王を献帝として即位させ、李儒により少帝及び何皇后は毒殺されました。
舞陽君も董卓に殺害されており、何進の死で一族は没落したと言えるでしょう。
尚、この混乱の最中に何進の孫の何晏は母親と共に逃げ出し、曹操に育てられる事となります。
因みに、何晏は司馬懿と曹爽の高平陵の変で命を落しました。
何進の評価
何進は三国志演義のイメージが強く無能な人物だと考えられがちですが、実際には有能な人物だった様に思います。
全くの無能であれば何皇后の威光があったとしても、大将軍にまでなる事は出来なかったはずです。
それを考えると何進は有能にも見えてきます。
何進は庶民ゆえの優しさもあり兵士達にも好かれていたのでしょう。
さらに言えば、袁紹、袁術、荀攸、逢紀など多くの者が家臣の下に集まっており、清流派からの支持は大きかった様に感じました。
袁紹などは董卓が擁立した献帝を認めず、都を脱出し反董卓連合を結成しています。
袁紹のこれらの行動は見方によっては、何進への忠義だと見えなくもありません。
何進が亡くなった事で、後漢王朝は董卓が実権を握る事となり、潰えたとも考えられるはずです。
それを考えれば、何進の死は後漢王朝のレームダックさせる原因にもなったと感じています。