
軻比能は鮮卑の大人になった人物です。
三国志の時代の鮮卑族の中で、最も注目されていた人物でもあります。
檀石槐の死後に鮮卑は乱れ世襲の一族は、求心力を失っていきました。
これに対し求心力を得たのが軻比能となります。
軻比能はライバルの歩度根を相手にも有利に戦いを進めたりもしました。
諸葛亮の北伐でも南下する様に要請がありましたが、積極的には動きませんでした。
後に王雄が放った刺客の韓龍により、軻比能は命を落とす事になります。
尚、三国志演義にも登場しますが、馬超に恐れをなし撤退するなどしています。
軻比能の登場

魁頭が亡くなると弟の歩度根が後継者になりました。
正史三国志の注釈・魏書には檀石槐の死後に、大人の位は世襲される様になったとあります。
歩度根が鮮卑を率いた時期には、檀石槐の時代ほどの統一性は見られず、兄の扶羅韓が数万を率いて別の勢力として活動したと記録されています。
こうした中で、鮮卑族に軻比能が誕生しました。
軻比能は鮮卑諸部の中でも大きな勢力ではない部族の出身でしたが、勇敢で裁きも公平であったと記録され、財貨を貪らず、信望を集めて大人となったと伝えられています。
袁紹が公孫瓚を破り河北を掌握した時期、中原の混乱により多くの流民が北方へ移動し、その中には知識人も含まれていたとされます。
軻比能はこうした人々から中国式の武器製造や軍事指揮法を学び、太鼓や旗を用いた指揮方法を取り入れたと記録されています。
207年、曹操が郭嘉や張遼などと共に烏丸を討伐すると、鮮卑諸部は魏との関係を調整する必要に迫られ、軻比能と歩度根は閻柔を介して曹操政権と友好関係を結びました。
この時期、歩度根の兄である扶羅韓の部下の一部が軻比能に通じたため、軻比能は一万騎を率いて扶羅韓と会見し、そこで扶羅韓を殺害したと伝えられています。
その後、扶羅韓の子である泄帰泥を厚遇したことも記録に残っています。
歩度根は兄を殺害されたことから軻比能を恨んだと記録されています。
軻比能の勢力拡大
曹操は烏丸および鮮卑諸部に対する軍事行動を行い、北方の情勢を安定させたのち、南下して孫権勢力と対峙しました。
208年の赤壁の戦いでは、孫権側の周瑜が軍を指揮し、曹操軍は敗北しました。
その後も曹操は各地で軍事行動を続け、211年には馬超・韓遂ら西涼諸将との潼関の戦いに勝利しました。
同時期、田銀が反乱を起こしますが、軻比能は烏丸校尉の閻柔とともにこれを鎮圧したと記録されています。
218年には烏丸の一部が乱を起こし、後漢の国境を侵したとされています。
この頃は劉備に勢いがあり、益州を制圧し、漢中で夏侯淵と定軍山の戦いを行っていた時期でした。
そのため、情勢を見て軻比能も北方の国境を侵したのではないでしょうか。
曹操の子である曹彰が烏丸討伐に向かうと、軻比能は退却し、再び魏に服属しました。
曹操が220年に没し、曹丕が魏の皇帝となると、軻比能は馬を献上し、附義王に封じられました。
歩度根もまた魏に馬を献上し、王位を授けられています。
鮮卑内部では軻比能と歩度根が対立しており、軻比能は複数回の戦闘で歩度根を破り、勢力を拡大していました。
歩度根は泄帰泥に軻比能の危険性を説いたとされています。
軻比能は魏との関係を重視し、自らのもとに身を寄せた人々を代や上谷へ送り返したほか、中国との交易も活発化しました。
この頃、中原は魏・呉・蜀の三国に分立していましたが、鮮卑諸部は魏に朝貢し、北方からの侵入は減少したと考えられています。
軻比能と諸葛亮の北伐
226年に曹叡が即位すると、蜀の諸葛亮による北伐が始まりました。
軻比能は北伐に積極的に関与しませんでしたが、魏の田豫は鮮卑内部の対立を利用しようとし、軻比能の娘婿である鬱築鞬を泄帰泥らとともに討ちました。
これに対し、軻比能は三万騎を率いて馬城で田豫を包囲しましたが、閻柔の弟である閻志の説得により包囲を解いています。
鮮于輔の働きもあり、軻比能は退却したものの、田豫に対して不満を抱いていたと記録されています。
231年、蜀の諸葛亮が第三次北伐を開始する際、鮮卑の軻比能に協力を求めたと記録されています。
諸葛亮は蜀軍が南から進軍する一方で、鮮卑が北方から魏を牽制することを期待していたと考えられます。
当時、魏の軍事指揮は曹真から司馬懿へと移っていました。
第三次北伐では蜀軍が一定の戦果を挙げたと伝えられていますが、兵站の問題により李厳が補給を維持できず、蜀軍は最終的に撤退しました。
軻比能は諸葛亮の要請に呼応し、北地郡の石城まで出兵したが、大規模な軍事行動には至りませんでした。
一方で、軻比能が魏に名馬を献上したことも記録されています。
魏への不信感
この頃、軻比能は大規模な騎兵を保有し、戦利品を公平に分配したため部下の信望が厚かったとされています。
また、他の鮮卑諸部からも一定の尊敬を受けていたと伝わっています。
魏の幽州刺史・王雄は鮮卑との関係改善を図りましたが、軻比能は田豫との過去の対立から魏に対して不信感を抱いていたとされています。
そのため、軻比能は歩度根との協力を模索しました。
当時、歩度根は魏に降伏していましたが、軻比能は歩度根を迎えて会見しようとしました。
これを知った并州刺史の畢軌は、鮮卑討伐を曹叡に上奏しましたが、曹叡は鮮卑諸部が結束することを懸念してこれを退けました。
しかし畢軌は独断で蘇尚・董弼に命じて鮮卑を攻撃させました。
軻比能は自らの子に兵を与えて歩度根を援護し、蘇尚と董弼を討ったと考えられています。
これにより軻比能と歩度根は合流しました。
その後、魏は秦朗に軍を与えて鮮卑を攻撃し、軻比能と歩度根は敗れて北方へ退いたとされています。
歩度根の部下である戴胡阿狼泥が魏に降伏したことを契機として、軻比能は歩度根を処刑したと伝わっています。
軻比能の最後
西暦235年、韓龍が軻比能を暗殺しました。
韓龍は王雄の配下でしが、王雄自身は鮮卑に対して友好的であったと考えられています。
王雄が軻比能を暗殺した理由はよく分かっていません。
それでも、軻比能がいなくなれば鮮卑は大人しくなると、王雄は判断したのでしょう。
軻比能の死後、弟が後継者となったと伝えられていますが、その名は明確ではありません。
軻比能の死後、鮮卑諸部の勢力は分散し、以前ほどの統一性を保てなくなったと考えられています。