
| 名前 | サルゴン2世 |
| 生没年 | 不明ー紀元前705年 |
| 在位 | 紀元前722年ー紀元前705年 |
| 国 | アッシリア |
| 一族 | 父:ティグラト・ピレセル3世? 子:センナケリブ |
| コメント | アッシリアの威光を輝かせが最期は戦死している |
サルゴン2世は新アッシリア帝国の時代のアッシリア王です。
簒奪により王位を奪ったとも言われていますが、即位するとアッシリアの勢力を大きく拡大させる事になります。
サルゴン2世は新首都のドゥル・シャルキンを建設しましたが、息子のセンナケリブがニネヴェに遷都した事で、一代だけの都となりました。
イスラエル王国を滅ぼすなど勢力は拡大しましたが、サルゴン2世は最終的に戦死しました。
サルゴン2世の最後に関しては、史料によって最後が違っており不明な点が多いです。
それでも、戦死した事だけは間違いないのでしょう。
尚、サルゴン2世はアッカド帝国の英雄的な王であるサルゴンに因んでの名前だとする説もあります。
サルゴン2世の即位
シャルマネセル5世が亡くなると、サルゴン2世(Sargon II)が後継者となります。
彼の出自については、古代の碑文や王名表において多くの謎に包まれています。
「サルゴン」という名はアッカド語で「正当な王」を意味しますが、あえてこのような王名を名乗ること自体が、彼が非・正当な手段で王位を奪った「簒奪者(さんだつしゃ)」であったことを強く示唆しています。
近年の歴史研究においては、彼がシャルマネセル5世の息子ではなく、ティグラト・ピレセル3世の別の息子(すなわちシャルマネセル5世の「兄弟」)であり、王族内の軍事派閥を率いて政権を奪取したとする説が有力視されています。
この権力闘争の決意を示す決定的な証拠として、サルゴン2世は即位直後、自身に敵対した前王派の有力なアッシリア市民や政敵など
「6000人以上」を、シリアの重要拠点である都市ハマト(Hamat)へと強制移住させ、不満分子を排除して自らの新政権(サルゴン朝)を強固なものとしました。
歴史のミステリー:イスラエル王国滅亡の「二つの年代」
サルゴン2世は、簒奪というスタートを切りながらも、軍事・内政の全方位において圧倒的な手腕を発揮した極めて有能な君主でした。
彼は王位の正当性という不足を「圧倒的な戦果と人心掌握」によって補うべく、西方のパレスチナ諸国家、および南方のバビロニアに対して
中央直轄の「属州化」を強硬に推し進めます。
しかし、この拡大政策は、アッシリアの南方に位置する大国「エジプト(第25王朝)」や東方の「エラム王国」、さらには北方の「ウラルトゥ王国」に対して、「次に属州化されるのは自分たちである」という強烈な危機感を与えました。
結果として、パレスチナの小国やバビロニアの反乱勢力を裏で操り、武器や兵力を提供する「アッシリア包囲網(反アッシリア同盟)」が
周辺大国によって構築されることになりました。
この激動の中で、西方の盾であった「イスラエル王国」は完全に崩壊を迎えますが、その「滅亡の正確な年代」については、古代の異なる史料間で深刻な時系列の矛盾が存在しています。
・サルゴン2世の年代記(アッシリア側史料):自らの治世の記録において、紀元前711年頃にイスラエル王国(サマリア)を完全に攻略・滅ぼし、自らの輝かしい武功として属州化したと誇らしげに記録している。
・バビロニア年代記・『旧約聖書』:イスラエル王国が完全に陥落したのは「紀元前722年」であり、これは時系列上、
前王であるシャルマネセル5世の治世の最終年(あるいはサルゴン2世の即位の瞬間)に該当する。
この「約11年もの空白と矛盾」について、近年の研究では以下のような因果関係が判明しています。
「実際にサマリアを長い包囲戦の末に陥落させたのは『前王シャルマネセル5世(紀元前722年)』であり、その直後に簒奪によって即位したサルゴン2世が、
国内における自らの脆弱な政権の正当性を国内外へ誇示するため、前王の偉大な軍功を公式記録(年代記)の上で自分の功績として上書きした」
パレスチナ遠征の構造:エジプトとの衝突
その後もサルゴン2世の西征は続き、反アッシリア同盟の主軸であったイスラエル王国を完全に解体・属州化しただけでなく、南の「ユダ王国」や地中海沿岸のフィリシア人などのパレスチナ諸小国を次々に臣従国としました。
しかし、アッシリアの本拠地(首都ニネヴェやアッシュルなどのメソポタミア北部)からパレスチナは地政学的にあまりにも遠く、補給線(兵站)が限界突破して伸びきってしまうリスクを常に抱えていました。
そのため、パレスチナの諸小国は、背後に位置する大国「エジプト」からの物資や軍事援助を受けるたびに、アッシリアへの服属誓約を破って「離反と反乱」を繰り返すという泥沼の局地戦へと突入することになります。
アッシリアがこの西方の反乱リスクを構造的に根本から排除するためには、単に目の前の従属国を罰するだけでは不十分でした。
そのため、その反乱を裏で支えている「大国エジプトそのものの軍事力を直接叩き潰す」という、次代の王たちへと引き継がれる
巨大なオリエント世界の覇権戦争へと突き進んでいくことになるのです。
サルゴン2世の試練
サルゴン2世が簒奪によって王位を掌握した瞬間、帝国の南方においてアッシリアの支配を根底から揺るがす最大の宿敵が台頭します。
それが、カルデア人の有力な首長であり、反アッシリアの強烈なカリスマ的指導者であった「メロダク・バルアダン2世」です。
デール近郊の戦い:王位交代の隙を突いた反乱
紀元前722年、アッシリア中枢のクーデターに伴う軍事・行政の空白を突く形で、メロダク・バルアダン2世は即座に行動を起こしました。
彼はアッシリアの東方の大国「エラム王国(Elam)」と同盟を結び、その強力な軍事支援を後ろ盾にしてバビロンへと進軍、自ら「バビロニア王」への即位を宣言したのです。
南方におけるこの二大勢力の強固な連携を危険視したサルゴン2世は、即座に大軍を率いて南下し、紀元前720年に国境付近の要衝である
「デール(Dēr)近郊」において、バビロニア・エラム連合軍との全面戦争に突入しました。
この激戦において、サルゴン2世率いるアッシリア軍は連合軍の猛攻の前に実質的な「敗北」を喫することになります。
同時代の史料(バビロニア年代記など)によると、この戦いでアッシリア軍を徹底的に圧倒する武功を挙げたのは、メロダク・バルアダン2世の軍というよりも、
同盟軍の主軸として参戦していたエラム王「フンバン・ニカシュ1世」率いる精鋭部隊であったと考えられています。
カルケミシュ滅亡とメディア遠征
デール近郊の敗戦により、サルゴン2世はバビロニアの即時奪還を一時的に断念せざるを得なくなりましたが、彼はこの挫折を他の全方位における圧倒的な戦果によって即座に補填していきます。
紀元前717年、サルゴン2世はユーフラテス川の交易の要衝であり、反乱の火種を抱えていたシリアの富裕な都市国家「カルケミシュ(Carchemish)」へと侵攻してこれを完全に滅ぼし、中央直轄の属州へと解体・再編しました。
さらに東方のイラン高原へと軍を進め、台頭しつつあった「メディア人(Medes)」の諸勢力とも激しく交戦し、莫大な戦利品と軍馬をアッシリアの本土へともたらしたのです。
キンメリア人の出現と「緩衝地帯」としてのウラルトゥ
この時代、オリエント世界の地政学を根底から塗り替える新たな軍事的脅威が、北方から突如として出現します。
それが、黒海北岸のステップ地帯から南下してきた、強力な騎馬遊牧民族「キンメリア人(Cimmerians)」や「スキタイ人」です。
新アッシリア帝国の北方に位置するアナトリア山岳地帯には、長年の宿敵である「ウラルトゥ王国」がアッシリアの国境線と対峙していましたが、
このキンメリア人の凄まじい南下侵略の第一波を受けたことで、ウラルトゥの国家基盤は致命的な大打撃を被り、急速に弱体化へと向かっていました。
サルゴン2世はこの北方の勢力図の大激変を好機と捉え、紀元前714年に満を持してウラルトゥ王国への大規模な親征(第八回遠征)を断行します。
アッシリア軍はウラルトゥの強固な要塞を粉砕して大勝を収め、ウラルトゥの聖都市ムサシルから大量の金銀や戦利品を獲得することに成功しました。
しかし、サルゴン2世はウラルトゥ王国をあえて完全に滅ぼし尽くすことはしませんでした。
これには極めて高度な計算が働いています。
アッシリアの本拠地であるメソポタミア北部(ニネヴェなど)にとって、ウラルトゥ王国が北の国境線に存在し続けることは、
さらにその背後から押し寄せてくる騎馬民族キンメリア人の侵略を最前線で食い止める「緩衝地帯」として機能することを意味していたのです。
宿敵ウラルトゥの武力を適度に削ぎ落として朝貢国としつつ、北方遊牧民に対する「盾」として存続させる。
単なる破壊に留まらない、この冷徹かつ計算し尽くされた全方位の国境の構築こそが、サルゴン2世がバビロニアの敗戦を覆し、
新アッシリア帝国をオリエントの絶対王座へと君臨させ続ける生命線となったのです。
サルゴン2世の新首都建設
新アッシリア帝国の絶対権力を象徴するサルゴン2世は、その治世の後半である紀元前713年、帝国の北方山岳地帯から地中海へと続く主要街道(交易路)を
網羅的かつ強固に直接支配するため、旧首都ニネヴェの北東に位置する広大な土地に、自らの名を冠した一大新首都「ドゥル・シャルキン(Dūr-Šarrukīn / サルゴンの城壁)」の建設を断行しました。
巨大要塞都市ドゥル・シャルキンの規模と価値
ドゥル・シャルキンは、先行する大都市カルフ(ニムルド)に比べると総敷地面積こそ限定的であったものの、その中心にそびえ立つ王宮やジッグラト、
そして都市を囲む防衛壁としての規模は、アッシリア史上最高峰の巨大さを誇っていました。
この都市は単なる王の居住区に留まらず、北方の宿敵ウラルトゥや遊牧民キンメリア人の脅威を睨みつつ、帝国全土の行政や軍を集中統治するための
最先端の拠点として構築され、サルゴン2世の治世末期における絶対的な首都として機能することになります。
王宮粘土板書簡が明かす「新首都建設」
この国家の威信をかけた都市建設を巡っては、首都ニネヴェなどの遺跡から出土した当時の「王宮公文書(粘土板書簡)」により、巨大帝国アッシリアにおける極めてリアルな「財政調政」の実態が浮かび上がっています。
これは「サルゴン2世が、町の金融業者から私的に『借金』をして新首都を建てた」ということではありません。
出土した督促状形式の粘土板は、民間業者からの取り立てなどではなく、「新首都建設の現場を指揮する王宮の高級建築官僚や、各州・属州を統轄する有力な総督(あるいは財政担当官)」が、
中央政府の国庫や他の行政管区に対して、公式に予算の執行や未納の割当金・建材物資の早急な融通を求めた「公式な行政・財務督促書簡」です。
当時の新首都建設は、以下のような高度な財政分配システムで運営されていました。
・属州への費用・労働力割当:サルゴン2世は、新首都建設のために帝国全土の属州総督や臣従国に対して、一定額の「銀(資金)」や建築資材(レバノン杉など)、そして大量の「捕囚民(強制移住させた労働力)」を組織的に割り当てて供出させていた。
・管区間の予算融通と督促:しかし、広大な土地での大規模工事では、特定の管区において銀の現物や調達物資が一時的に枯渇する事態が頻発した。
そのため、現場の担当役人(粘土板の破損により個人名は不明なケースが多い)は、王の命令を円滑に遂行するための「公式の職務」として、
「割り当てられた資金の一部をまだ納入していない他の総督」や「中央国庫」に対し、速やかに資金を回すよう公式な書簡(督促状)を送り、プロジェクトを維持していた。
絶対君主たる王自身も、これらの高級官僚たちの間で行われる緻密な財政の貸し借りや物資のやり取り、それに対する返済計画を厳格に把握・管理しており、国家の最高プロジェクトを滞りなく完了させるための民政に深く関わっていました。
後世に名を遺すような単一の記名データこそ欠損しているものの、世界初の大帝国を支えたこの高度な「官僚制財務」と、王の命令のもとで巨額の国家予算を誤差なく融通・督促し合っていた行政機能こそが、
古代オリエントの荒野にわずか数年で「サルゴンの城壁」という大要塞都市を出現させた真の原動力であったと言えるでしょう。
バビロニアの完全再征服と北西の外交
西方のパレスチナ諸国を完全に服属させたサルゴン2世は、紀元前710年、満を持して最大の懸案事項であった南部バビロニアの奪還へと再び大規模な侵攻(再征服)を開始しました。
サルゴン2世は当時のバビロニアを支配していたメロダク・バルアダン2世は戦いに敗れ、エラム王国にも受け入れを拒否された事で、最終的にサルゴンの降伏しています。
ここでサルゴン2世はメロダク・バルアダン2世を処刑せず、泳がせてしまった事で後にアッシリアは反乱を起こされる事になります。
ムシュキのミタ王(フリギアのミダス王)との和睦
サルゴン2世の治世末期、帝国の北西に位置するアナトリア半島(現在のトルコ中央部)の外交において、極めて重大な歴史的同定が成立します。
紀元前709年、長年アッシリアの北西国境を脅かしていたムシュキ国の「ミタ(Mita)王」が、アッシリアの圧倒的な国力と武力を前にしてついに敵対を断念し、サルゴン2世との「和睦・朝貢誓約」を締結したのです。
このアッシリアの粘土板史料に刻まれた「ムシュキのミタ王」は、フリギア王国の君主「ミダス(Midas)王」であると考えられています
(古代ギリシャの史家ヘロドトスの記述や後世のギリシャ神話・童話『王様の耳はロバの耳』や『触れるものすべてを金に変える能力』のモデルとして世界的に有名な「ミダス王」とは、同名の別人です)。
当時、アナトリア半島で強盛を誇っていたフリギア王国(アッシリア側呼称:ムシュキ)のミダス王は、北方の狂暴な遊牧民キンメリア人の
凄まじい南下侵略という安全保障上の大危機に直面していました。
ミダス王は自国が単独でキンメリア人に大破されるのを防ぐため、かつての宿敵であった大帝国アッシリアを「防衛の共同パートナー」として選択し、サルゴン2世に対して公式に朝貢を行い、北西国境の集権的な平和を構築したのです。
サルゴン2世の最期とサルゴン朝の呪縛
新アッシリアをオリエントの絶対王座へと押し上げた偉大な君主サルゴン2世の治世は、紀元前705年、突如として幕を閉じることになります。
サルゴン2世の戦死:東西二大戦線の決壊
サルゴン2世の最期については、古代の碑文や年代記において相反する記述が存在し、長年歴史の謎とされてきました。
史料の一部には「イラン西部のザグロス山岳地帯での軍事行動」とある一方で、別の有力な記録では「アナトリア地方(現在のトルコ中南部)のタバル(Tabal)への軍事遠征」と記されており、東西で全く異なる方向が示されているためです。
近年の分析によると、これはアッシリア軍が道に迷ったわけではなく、当時帝国が「東西の広大な国境線において、遊牧民や反乱勢力との激しい同時局地戦(二大戦線)を抱えて限界を迎えていた」という構造的要因に起因します。
紀元前705年、サルゴン2世は北西国境の要衝タバルで勃発した大反乱を鎮圧すべく自ら親征を行いましたが、戦況を見誤って敵軍の包囲急襲を受け、無念の戦死を遂げました。
享年60歳前後であり、戦場で斬殺されたと伝えられています。
大帝国アッシリアの絶対君主が戦場で命を落とすという前代未聞の事態は、オリエント全土に凄まじい衝撃をもたらしました。
サルゴン朝の呪縛:遺体未回収の恐怖と「ニネヴェ遷都」
サルゴン2世の戦死における最大の悲劇は、王の「遺体すら回収できなかった」という点にあります。
古代メソポタミアの世界観(宗教観)において、適切な埋葬や葬儀・供養が行われずに荒野に放置された死者の霊は、現世を彷徨う狂暴な「悪霊(ウツック)」と化し、血縁者や国家に恐ろしい呪いをもたらす絶対的な不吉の象徴であると考えられていました。
後継者として即位した息子「センナケリブ(Sennacherib)」が直面したのは、まさにこの「父親の戦死と悪霊の呪い」という巨大な精神的・宗教的脅威(激しい幻聴や精神的過負荷などの記録)でした。
センナケリブは、父親が心血を注いで建設し、自らも入居したばかりの新首都ドゥル・シャルキンを「父の非業の死によって完全に呪われた不吉な土地」として認知し、国家の維持のために都市そのものを完全放棄するという断固たる決断を下しました。
そして、古くからの伝統的な聖座であり、防衛システムが整った大都市「ニネヴェ(Nineveh)」へと遷都を強行したのです。
センナケリブが自らの公式な王碑文において、あえて偉大な先王「サルゴン2世の息子」であることをも名乗らず、自らの血統を隠蔽するように記述している背景にも、父親の呪縛や悪霊から国家の正当性を残さず遮断したいという、極めて厳格な防衛策があったと言えます。
こうした中でタバルでは反乱が勃発し、バビロニアではエラムの力を借りたメロダク・バルアダン2世がバビロニア王に返り咲きました。
サルゴン2世の突然に死により後継者のセンナケリブは、苦境に立たされる事になります。
尚、新アッシリア帝国の歴史の本質は、このサルゴン2世の戦死という大転換期を起点として、次代のセンナケリブ、エサルハドン、
そしてアッシュル・バニパルという歴代の強力な専制君主たちの手によって、
エジプト征服にいたる史上最大の覇権拡大と、その直後に訪れる劇的な国家的終滅へと突き進んでいくことになるのです。