古代オリエント

エラム人は古代のイラン高原に一大勢力を築いた

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宮下悠史

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名前エラム人
コメント古代のイラン高原に栄えた民族

エラム人は古代のイラン高原に割拠した民族です。

メソポタミアの隣人とも呼ばれており、メソポタミア文明の影響をかなり受けた事でも知られています。

シュメール人とは千年を超える単位で争いましたが、最終的にエラム人たちはシュメール人のウル第三王朝を滅ぼしました。

さらに、エラム人はバビロンカッシート王国も滅ぼしており、メソポタミアに対し強い影響力を持った事でも知られています。

最終的にエラムはアッシリアにより滅ぼされていますが、何千年にも渡り古代のイラン高原を支配しました。

メソポタミアの世界やイラン史に名を残した民族だと言えるでしょう。

エラム人、アラム人、アムル人は名前が似ており、間違いやすいので注意してください。

尚、エラム人の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

エラムとは何か:地理・名称・起源

エラムとは、メソポタミアの東側に位置する地域を指し、現在のイラン南西部、ザグロス山脈西麓からイラン高原にかけて居住していた人々が「エラム人」と呼ばれています。

ただし、この名称は彼ら自身の呼称ではなく、メソポタミア側が用いた外部呼称であったと考えられています。

古代中東世界では、文明の中心をメソポタミアとみなす史観が強く、その視点から見て「東方のエラム」という名称が定着したとされています。

農耕と牧畜は、従来「肥沃な三日月地帯」で始まったとされてきました。

この地域には野生の麦が自生しており、農耕の発展に適した環境が整っていました。

しかし近年の研究では、メソポタミアの東側、ザグロス山脈周辺でも農耕・牧畜が独自に始まったということが明らかになっています。

紀元前5200年までには、イラン高原の広い範囲で定住農耕村落が成立していたことが確認されています。

つまり、エラム人の祖先はメソポタミアとは異なる系統の農耕文化を持っていた可能性が高いです。

原エラム文明の成立とスーサの発展

紀元前3500年頃、南メソポタミアではシュメール人によって都市文明が誕生しました。

これにより、世界最初の都市が形成され、専門職の分化が進み、文字(古拙文字)が誕生しました。

この時代の文字は、後の楔形文字とは異なる初期段階のもので、記録のための象徴的な図形が中心でした。

メソポタミアの地は農耕に適しており、食糧生産は十分に行われていました。

しかし、金・銀・銅などの鉱物資源がほとんど存在しないという大きな弱点がありました。

そのため、メソポタミアの人々は交易を有利に進める目的で、東方のエラム地域へと進出するようになります。

イラン高原には豊富な鉱山資源が存在しており、多くのメソポタミアの人々がこの地に移住・植民したと考えられています。

こうした交流と移住の結果、スーサ(Susa) が都市として発展しました。

スーサは後にエラムの中心都市、そして王都となる場所です。

スーサでは、現地の人々とメソポタミアから来た人々が共に活動していましたが、紀元前3200年ごろになると、メソポタミア側の勢力が撤退したのか、あるいは植民地的な体制が瓦解したと考えられています。

その結果、イラン高原で最初の固有文明である「原エラム文明(Proto-Elamite)」 が誕生しました。

原エラム文明の中心はスーサであり、メソポタミアの古拙文字の影響を受けつつも独自の原エラム文字が生み出されました。

初期のエラムとシュメール

エラム人たちは複数の都市国家を築いていましたが、共通の言語を話し、エラム人としての自覚を持っていたと考えられています。

しかし、メソポタミア側の史料では、シュメール人アッカド人がエラム人を「野蛮な東方の民」と見下していたことが記録されています。

これは文化的優越意識に基づく表現であり、当時のメソポタミア中心主義的な価値観を反映しています。

エラムに関する最古の記録は、『シュメール王名表』に登場するキシュ第一王朝の王エンメバラゲシによるものです。

王名表には、「エンメバラゲシはエラムの国をその武器で打ち負かした」と記されています。

エンメバラゲシは『ギルガメッシュ叙事詩』にも登場する伝説的な王であり、ギルガメッシュの父とされることもあります。

ただし、この記述は伝承的要素が強く、史実として確定できるものではないという見解が現在では一般的です。

シュメール人の都市国家ラガシュでは、ウルナンシェ朝が成立しました。

第三代の王エアンナトゥムの碑文には、エラムの名が登場します。

そこには、「エラムはラガシュの敵であり、エアンナトゥムはエラム人勢力であるスーサ、ウルア、ウルアズ、ミシメ、アルアを撃破した」と記録されています。

ラガシュはメソポタミア南部の東側に位置していたため、隣接するエラムとは地理的に衝突しやすい状況にありました。

このため、両者の戦争は自然な流れであったと考えられます。

この時期、シュメール都市ウンマがラガシュを攻撃した際、その混乱に乗じてエラムがラガシュを攻撃したという記録も残っています。

ただし、ウンマとエラムが同盟していたわけではなく、それぞれが独自にラガシュを攻撃したと考えられています。

ラガシュとエラムの戦いでは、エアンナトゥムの軍事的采配により、
攻め込んできたエラム軍を撃退するだけでなく、逆に反撃を加えてエラム側の諸都市を征服しました。

征服された都市として記録されるウルアズ、ミシメ、アルアは、いずれもエラムの中心都市スーサの周辺地域に位置していたと考えられています。

この時代のエラム勢力は、スーサ周辺の地域を中心とする小規模な都市国家群 と理解すればよいでしょう。

ただし、時代が進むとエラムは勢力を拡大し、南方のアンシャン付近まで領域を広げることになります。

ラガシュとエラムは継続的に戦っていたと考えられていますが、同時に交易も続けられていました。

メソポタミアは穀物生産に優れていたものの、鉱物資源が不足していました。

一方、エラムは金・銀・銅などの鉱物を産出する一方で、穀物生産はメソポタミアほど豊かではありません。

そのため、両者は「戦争を繰り返しながらも、互いに必要な資源を補うために交易を続けていた」という、古代らしい複雑な関係が成立していたと考えられます。

アッカド帝国とエラム

混乱していたシュメールの都市国家をルガルザゲシが統合したとされますが、彼がエラムに対してどのような行動を取ったかについては、現存する史料が限られており詳細は不明です。

その後、シュメールを統合したルガルザゲシと、アッカドを統合したサルゴンの間でメソポタミアの覇権をめぐる争いが起こり、サルゴンが勝利したと記録されています。

アッカド帝国は広範な領域を支配した最初期の国家体制の一つとされ、サルゴンはシュメール地方を支配下に置いた後、エラムへ遠征しました。

サルゴンの年名には「サルゴンがエラムを破った年」とあり、アッカドとエラムの戦闘ではアッカド側が優勢であったことが示唆されます。

サルゴンの碑文には、エラム王ヒシプラシニの子ルヒシャンの名が登場します。

彼はエラム王名表に記されるアワン王朝第八代のルヒシャンと同一人物とみなされることがありますが、単に名前が一致しているだけの可能性も指摘されており、確定的ではありません。

いずれにせよ、アッカド王朝期のエラムはアワン王朝の時代と重なると考えられています。

アッカドのサルゴンの子リムシュの時代には、エラムに対して大きな打撃を与え服属させたと記録されています。

後継者マニシュトゥシュの時代には、エラム支配は比較的安定していたとされ、エラムはアッカド帝国の支配下に置かれていたと考えられます。

さらにアッカド帝国はバラフシやアンシャンも服属させたと記録されています。

アンシャンは後にエラムの重要都市となる地域であり、この頃から「エラム」という名称がスーサだけでなくアンシャンを含む広い地域を指すようになりました。

さらに、場合によってはイラン高原全体を指すこともありました。

現存する史料から判断すると、この時期のエラムはアッカド帝国に対して劣勢であったとみられますが、エラム側の史料が乏しいため、詳細な状況を復元することは困難です。

アッカド帝国はナラム・シンの時代に勢力を拡大し、マガン(オマーン地方)にまで到達したとされています。

この結果、ペルシア湾の支配権もアッカド側が掌握したと考えられています。

ナラム・シンの時代、スーサの支配者は「ナラム・シンの敵は私の敵であり、ナラム・シンの友は私の友である」と述べたと伝えられています。

これは、当時スーサがアッカド帝国と協調関係にあったことを示唆するものと解釈されています。

ただし、アッカド帝国の最盛期はナラム・シンの治世であった点には注意が必要です。

その後、アッカド帝国は徐々に弱体化していきます。

アッカド帝国第5代の王シャルカリシャリの時代には、アッカド軍がエラム軍をアクシャクで破ったと記録されています。

これは、エラムがアッカドへの服従をやめ、反撃に転じたことを示すものと考えられます。

アクシャクの位置はアッカドの北方と推定されており、エラム勢力がアッカド北部にまで侵攻した可能性が指摘されています。

シャルカリシャリの治世の後、アッカド帝国では約3年間の無政府状態が続きました。

その後に2人の王が即位したとされますが、最終的にアッカド帝国は滅亡しました。

アッカド帝国の衰退については、気候変動による乾燥化が影響したとする説がある一方で、グティ人など外部勢力の侵入も大きな要因であったと考えられています。

プズルインシュシナクとアワン王朝の終焉

アッカド帝国が弱体化していた頃、スーサではプズルインシュシナクが王となりました。

彼はアンシャンやシマシュキなどのエラム諸都市を奪還し、エラム地域を再統一したとされています。

さらに、プズルインシュシナクはキマシュやフルティなどの都市も制圧し、支配領域を拡大しました。

その勢力はイラン高原にとどまらず、メソポタミア北部にまで及んだ可能性が指摘されています。

同時期、メソポタミア南部ではウル第三王朝が成立していました。

プズルインシュシナクは長命であったとされ、ウル第三王朝の建国者ウルナンムとも戦ったと伝えられています。

プズルインシュシナクはエラムのアワン王朝の最後の王と考えられており、アワン王朝は彼の治世で終焉を迎えたとされています。

また、ウルナンムはグティ人またはエラム人との戦いで戦死した可能性が指摘されており、その点から、プズルインシュシナクがウルナンムに勝利した可能性も議論されています。

ただし、当時の史料は断片的であり、確定的な結論を下すことは困難です。

プズルインシュシナクはスーサを中心に勢力を拡大し、イラン高原およびメソポタミア北部にまで影響力を及ぼしたと考えられています。

しかし、エラムの拡大は彼の時代を頂点としており、ウル第三王朝第二代のシュルギの治世になると、エラムは重要拠点であるデールを失うなど、次第に劣勢に立たされました。

シュルギは軍事的・政治的手腕に優れていたとされ、軍事遠征だけでなく、マルハシに王女を嫁がせるなど外交的手段も用いて、エラム周辺地域を自らの勢力圏に組み込んでいったと考えられています。

この頃にはプズルインシュシナクはすでに没しており、アワン王朝も終焉していました。

エラムではシマシュキ王朝が主要勢力となっていましたが、ウル第三王朝の圧力を受け、厳しい状況に置かれていたとみられます。

プズルインシュシナクの死がエラムの弱体化につながった可能性も指摘されていますが、これについても確定しているわけではありません。

エラムの多くはウル第三王朝の支配下に入っていましたが、第四代王シュシンの時代にエラムで大規模な蜂起が発生しました。

シュシンは討伐を行い、ザブシャリを征服したと記録されています。

シュシンの碑文には、「シマシュキとザブシャリの国々、アンシャンの端から上の海まで、イナゴのように掃討した」と記されています。

この記述から、ザブシャリ遠征はシマシュキ勢力に対する遠征でもあり、この時期にはエラムでシマシュキ王朝が成立し、反ウル的な姿勢を明確にしていたことがうかがえます。

シマシュキ王朝の台頭

アワン王朝の滅亡後、エラムの中心勢力はシマシュキ王朝へと移行していたと考えられます。

ウル第三王朝最後の王イッビ・シンの時代までに、シマシュキ王朝の王エバラトがウル第三王朝の打倒を目指し、スーサへ遷都したとされています。

スーサはシマシュキよりも南メソポタミアに近く、エバラトがウル第三王朝に対抗するため、前線に近いスーサを拠点としたという可能性が考えられます。

ただし、遷都の理由については史料が限られているため、未だ明確には分かっていない状況です。

イッビ・シンの治世3年のスーサの記録には「エバラトが王になった年」とあり、この時点でエバラトがウル第三王朝の支配から離脱していたことが確認できます。

エラムにはスーサと並ぶ重要都市としてアンシャンが存在していました。

アンシャンはシマシュキ王朝の勢力圏に属していたと考えられていますが、同時にウル第三王朝に対して従属的な姿勢を示し、グナ貢納を収めていたという記録も残されています。

しかし、イッビ・シン治世9年には、ウル第三王朝がフフヌリ征伐を行ったと記録されています。

フフヌリは「アンシャンの国の門」と表現されることがあり、この時期にはアンシャンがウル第三王朝と対立関係にあったことがうかがえます。

イッビ・シンの時代はウル第三王朝が急速に弱体化した時期であり、アンシャンも従属関係を維持しなくなっていたと考えられます。

ウル第三王朝の末期には、イシュビエッラがイシンでイシン第一王朝を建国しました。

これにより、ウル第三王朝は南メソポタミア内部でも競合勢力を抱えることになり、政治的立場は一層不安定になりました。

この状況はエラム側にとって有利に働いたと考えられます。

ウル第三王朝とイシン第一王朝は本来対立関係にあっても不思議ではありませんが、対エラム政策においては共闘したとみられます。

これは、エラム勢力がメソポタミアにとって共通の脅威として認識されていたためと考えられます。

エラム人とウル第三王朝の崩壊

イッビ・シン治世14年には、弱体化していたはずのウル第三王朝がエラムへ遠征し、スーサ、アダムドゥン、アワンの諸勢力を屈服させたと記録されています。

ただし、その後エラムは比較的短期間で勢力を回復しています。

ウル第三王朝が勝利後に略奪を行い、長期的な占領を行わず撤退した可能性が指摘されており、これがエラムの再興を許した要因の一つと考えられています。

ウル第三王朝は長年アムル人の侵入に悩まされており、エラムだけに軍事力を集中させることが難しかったとみられます。

エラムは勢力を回復した後、ウル第三王朝に侵攻しましたが、この時は敗北したとされています。

しかし、イッビ・シン治世22年には、エラムが再びウルを攻撃しました。

この年の年名は「嵐がウルを覆った年」と記録されており、これはエラム軍の侵攻を象徴的に表現したものと解釈されています。

この時期、エラム側の中心人物としてキンダトゥが登場します。

キンダトゥは元々アンシャンを本拠としたとされますが、後にエラム全域を支配し、ウル第三王朝に対して攻勢を強めたと考えられています。

スーサを支配していたシマシュキ王朝のエバラトとは、同じシマシュキ王朝に属しながらも系統が異なる可能性が指摘されています。

アンシャンの王であったキンダトゥが、スーサの王の娘との政略結婚によってエラム全体の支配権を得たとする説もあります。

このことから、当時のエラム内部ではスーサとアンシャンの間で政治的な駆け引きが行われていたと考えられます。

ウル第三王朝の滅亡については、紀元前2004年にエラムのキンダトゥがウルを攻撃し、
イッビ・シンを捕虜としてエラムへ連れ去ったことが王朝崩壊の直接的な要因であったとする見解が一般的です。

これによりウル第三王朝は終焉を迎え、長く続いたシュメール人の政治的時代も終わったとされています。

エラムとイシン第一王朝

ウル第三王朝はエラム勢力によって崩壊しましたが、メソポタミア南部にはイシン第一王朝が成立しており、エラムとの対立はその後も継続しました。

ウル第三王朝の崩壊後、メソポタミアではアムル人が多くの都市国家を建設し、イシン第一王朝もウルの奪還を目指していました。

イシン第一王朝はアムル人の傭兵を多く雇用し、ウル第三王朝滅亡から8年後にはウルをエラムから奪還したとされています。

このことから、エラムによるメソポタミア支配は必ずしも安定したものではなく、継続的な抵抗や反撃に直面していたことがうかがえます。

エラム勢力はウル陥落の際、都市神ナンナの神像をエラムへ持ち去ったとされています。

当時のメソポタミアにおいて、都市神像は政治的・宗教的正統性の象徴であり、その喪失は都市にとって重大な意味を持ちました。

イシン第一王朝第2代シュ・イリシュの時代に、ナンナ神像がエラムから返還されたと記録されています。

これは政略結婚による外交的合意の結果であったと考えられています。

イシン第一王朝第3代イディン・ダガンの時代には、正式にエラムとの婚姻関係が結ばれました。

この婚姻関係は、両者の政治的均衡を反映したものと解釈されています。

イシン・ラルサ時代とクドゥル・マブクの台頭

この頃、東方のインダス文明が衰退したとされていますが、その原因については不明な点が多く、詳細は明らかになっていません。

メソポタミアではイシン・ラルサ時代に入り、ラルサがイシンから独立して両者の対立が続きました。

戦いはラルサ側が優勢に進めたとされますが、イシン第一王朝を完全に滅ぼすには至りませんでした。

エラムはイシン第一王朝と同盟関係にあり、複数回にわたりイシン側を支援したと記録されています。

このエラムの介入が、イシンとラルサの争いを長期化させた可能性も指摘されています。

こうした状況の中で、エラムの諸王の一人とされるクドゥル・マブクが単独でラルサを攻撃し、制圧に成功したと記録されています。

その後、クドゥル・マブクはラルサ王シリ・アダドを追放し、ワラド・シンという人物をラルサ王に任命しました。

ワラド・シンはエラム人であったとされますが、ラルサではエラムへの反発が強かったため、アムル人風の名前を名乗った可能性が指摘されています。

クドゥル・マブクについては、その名がエラム語で「マブクの子」を意味する可能性があることからエラム人であったとする説がある一方で、アムル人であったとする説も存在し、確定していません。

また、クドゥル・マブクがエラム全体の王であったかどうかについても、史料が限られており、明確ではありません。

エラムによるメソポタミアの掌握

クドゥル・マブクの行動はメソポタミアの政治情勢に大きな影響を与えました。

エラムがラルサ側に立ったことで、イシン・ラルサ時代は終焉へ向かうことになります。

エラムは当初イシン第一王朝を支援していましたが、クドゥル・マブクの子がラルサ王となったことで、エラムはラルサと同盟関係を結び、イシン第一王朝とは対立する立場に移行したと考えられています。

ラルサ王ワラド・シンの後継者となったリム・シンも、クドゥル・マブクの子であったとする説があります。

リム・シンの治世において、ラルサはイシン第一王朝を完全に滅ぼし、メソポタミア南部を掌握しました。

これにより、ラルサはメソポタミアにおける主要勢力の一つとなりました。

リム・シンはイシン第一王朝を滅ぼした後は慎重な統治を行い、内政に力を入れたとされますが、積極的な領土拡大は目指さなかったと考えられています。

紀元前18世紀前半頃には、メソポタミアの地はアムル人勢力が広く進出しており、アムル人の時代であったとみられます。

北方ではアッシリアのシャムシ・アダドが勢力を持ち、エラムに干渉したとする記録もあります。

一方で、バビロン、エシュヌンナ、マリなどの都市国家が台頭し、シリア地域ではヤムハドやカトナなどアムル人系の王国が存在していました。

スッカルマハ王朝とエラムの再興

この頃、エラムではシマシュキ王朝からスッカルマハ王朝へと移行していました。

スッカルマハ王朝のツィワパラルフフパクの時代には、バビロン、エシュヌンナ、マリの王たちが互いを「兄弟」と呼び合い、対等な関係を築いていたとされます。

しかし、エラム王に対しては「父」と呼び、エラム王もメソポタミア諸王を「子」と呼んでいたと記録されています。

この表現は、当時の外交儀礼においてエラムが優位な立場にあったことを示唆しています。

ツィワパラルフフパクの治世は、エラムが再び強勢を示した時期の一つと考えられています。

シャムシ・アダドの死後、アッシリアは弱体化し、ジムリ・リムはヤムハド王国の支援を受けてマリを復興しました。

また、エシュヌンナも勢力を拡大しました。

このように、シャムシ・アダドの死を契機として、メソポタミアの諸勢力は互いに均衡した状態になったと考えられています。

エラムはバビロンやマリと協力して隣国エシュヌンナを攻撃し、エシュヌンナはアタムルムの離反も影響して滅亡したと伝えられています。

これにより、エラム勢力はメソポタミア内部へ本格的に進出することになりました。

エラム王ツィワパラルフフパクは、その後マリやシリア、メソポタミアの諸都市に働きかけ、バビロンを攻撃するよう調整したとされています。

いわゆる「バビロン包囲網」を構築しようとしたものの、この試みは成功しませんでした。

その結果、バビロンとマリは「単独でエラムと講和しない」という条件で盟約を結び、メソポタミアとシリアにまたがる反エラム同盟が形成されました。

なお、ラルサはこの同盟には参加しなかったとされています。

これを受けて、エラムは南方のバビロンと北方のマリを同時に攻撃する二正面作戦を決断しました。

ツィワパラルフフパクは北方軍の司令官にアタムルムを任命しましたが、マリはヤムハド王国の支援を受けて大軍を編成したため、アタムルムは降伏したと記録されています。

一方、エラム本隊もヒリトゥムの戦いでバビロン第一王朝のハンムラビに敗れ、エラムの二正面作戦は失敗に終わりました。

エラムに勝利したハンムラビは勢いを得て、ラルサを征服し、復興したばかりのエシュヌンナも支配下に置き、最終的にはマリをも滅ぼしました。

ハンムラビはエラムに勝利してからわずか数年のうちにメソポタミアの主要地域を掌握したと考えられています。

中期エラム王国

この敗戦はエラムにとって大きな打撃となり、エラムはしばらくの間メソポタミアへの積極的な介入を控えたとみられます。

バビロン第一王朝が弱体化した際には、エラムがバビロンへ侵攻した記録もありますが、大規模な軍事遠征ではなかったとされています。

その後、バビロン第一王朝はヒッタイトの攻撃によって崩壊し、バビロンでは海の国第一王朝が成立しました。

最終的にはカッシート王国(バビロン第三王朝)が台頭し、メソポタミアの主要勢力となりました。

カッシート王国はアッシリアやエラムと対峙することになり、メソポタミアの政治構造は再び大きく変化していきます。

バビロン第一王朝に敗北した後のエラムについては、史料が限られており、不明な点が多いとされています。

この時期のエラムは、以前のように頻繁にメソポタミアへ侵入することはなく、活動の詳細も十分には把握されていません。

それでも、カッシート王国が安定すると、ディルムンの制圧やエラム方面への軍事行動が行われたと記録されています。

エラムはカッシート王国の勢力下に組み込まれましたが、この段階ではエラム国家そのものが消滅したわけではありません。

カッシート王国が成立した頃、シリアではミタンニ王国が強勢であったと考えられています。

しかし、エジプト新王国の支援が弱まるとミタンニは衰退し、その後はメソポタミア北部でアッシリアが台頭し、シリア西方ではヒッタイトが勢力を拡大しました。

ヒッタイトはエジプト新王国とのカデシュの戦いで知られています。

こうした国際情勢の変化の中で、エラムではキディヌ王朝やイゲ・ハルキ王朝が成立しました。

イゲ・ハルキ朝が中エラム時代の始まりでもあります。

紀元前13世紀初頭には、エラムはカッシート王国の支配から脱し、ペルシア湾の交易路を掌握したと考えられています。

宗教都市の建設

エラムのイゲ・ハルキ朝のウンタシュ・ナピリシャの時代には、新都アール・ウンタシュ・ナピリシャ(現在のチョガ・ザンビール)の建設が進められました。

新都建設はウンタシュ・ナピリシャの死後に中断されましたが、その宗教的中心地としての機能は長く維持され、アッシリア王アッシュル・バニパルによる征服まで存続したとされています。

この時期のエラムでは、メソポタミアのものよりも大規模なジッグラトが建設されました。

ジッグラトの頂部にはインシュシナク神やナピリシャ神が祀られ、基部には多数の神々の神殿が配置されていました。

こうした大規模な宗教建築の存在から、この頃のエラムが政治的・経済的に充実した時期であったと考えられています。

ウンタシュ・ナピリシャは紀元前1235年頃に没したと考えられています。

この時期には、いわゆる「紀元前1200年のカタストロフ」が発生し、海の民の活動によりヒッタイトやウガリトなどが崩壊したと伝えられています。

ただし、近年の研究では「海の民がヒッタイトを滅ぼしたとは限らない」
「ウガリトは海の民の襲撃以前にすでに衰退していた可能性がある」といった指摘もあり、当時の情勢には不確定な部分が多く残されています。

エジプト新王国は海の民を撃退したものの、その後の弱体化に拍車がかかったと考えられています。

カッシート王国はアッシリアにより一度滅ぼされましたが、後に復興しました。

しかし、この頃のカッシート王国はすでに弱体化が進んでいたとみられます。

紀元前1155年頃、エラム勢力がカッシート王国を攻撃して勝利したと記録されています。

エラム軍は戦利品としてハンムラビ法典が刻まれた石柱をスーサへ持ち帰ったとされます。

エラムのシュトルク朝の王シュトルク・ナフンテ1世はカッシート王国を滅ぼし、エシュヌンナやシッパルなどの都市に重い貢納を課しました。

この際に持ち去られたハンムラビ法典碑は1901年にスーサで発見され、現在はルーブル美術館に所蔵されています。

エラムの弱体化

シュトルク・ナフンテ1世の子クティル・ナフンテ1世は、
最後のカッシート王エンリル・ナディン・アヒをマルドゥク神像とともにエラムへ連行したとされ、これによりカッシート王国は滅亡したと考えられています。

ただし、エラムはバビロニア全域を直接支配する体制を築いたわけではなく、バビロニアではイシン第二王朝が勢力を拡大しました。

イシン第二王朝の最盛期の王ネブカドネザル1世は、エラムからマルドゥク神像を奪還したことで知られています。

当時、都市神像の返還は政治的・宗教的に極めて重要とされ、この奪還はネブカドネザル1世の主要な功績の一つとみなされています。

ネブカドネザル1世の攻勢はエラムにとって大きな脅威となり、この頃からエラムの弱体化が進んだと考えられています。

エラム新王国とアッシリアの圧力

メソポタミアではイシン第二王朝の後、海の国第二王朝、バズ王朝、エラム王朝が続きました。

バビロン第7王朝は「エラム王朝」とも呼ばれていますが、統治期間は1代のみで、紀元前980年頃から約5年間と短期間でした。

その後に成立したE王朝(バビロン第8王朝)については、現存する史料が極めて限られており、詳細は明らかではありません。

紀元前750年頃になると、エラムではフンパンタラ王朝が成立し、これがいわゆるエラム新王国時代の始まりとされています。

この時期、アッシリアは急速に勢力を拡大し、バビロニアやエラムにとって大きな脅威となりました。

紀元前704年、エラムはバビロン第10王朝のメロダク・バルアダン2世と同盟し、アッシリア王センナケリブと戦いましたが、キシュの平原で敗北しました。

翌年、センナケリブはバビロンを破壊し、メロダク・バルアダン2世はエラムへ逃れたとされています。

紀元前694年、センナケリブは水陸両面からエラムを攻撃しました。

これに対し、エラム王ハッルシュは軍をディアラ川沿いに展開し、バビロニア北部への攻撃を命じました。

その結果、エラム軍はシッパルを占拠することに成功しました。

この時期、カルデア人・アラム人・エラム人が協力してアッシリアに対抗したと考えられています。

エラム軍はさらに勢力を伸ばし、バビロニアの人々と協定を結んだ上で、アッシリア王センナケリブの後継者に指名されていたアッシュル・ナディン・シュミをエラムへ連行しました。

これは当時のエラム軍が大きな戦果を挙げたことを示す記録とされています。

エラム滅亡への道

激しい戦闘が続く中で、エラムではクーデターが発生し、王位はハッルシュからクティル・ナフンテへと移りました。

しかし、クティル・ナフンテは反乱によって死亡し、これを知ったアッシリア王センナケリブはエラムへの攻勢を強めたとされています。

アッシリア軍と、エラム人・カルデア人・アラム人の連合軍との間でハルレの戦いが発生しました。

紀元前691年のこの戦いについては勝敗が明確ではありませんが、アッシリア側も大きな損害を受け、最終的には撤退したと考えられています。

その後、センナケリブは息子たちによって暗殺され、最終的にエサルハドンが後継者となりました。

暗殺の背景には、後継者に指名されていたアッシュル・ナディン・シュミがエラムに連れ去られていたことも影響したとする説があります。

エサルハドンが即位した紀元前680年には、アッシリアはエラム王ウルタクと友好条約を結びました。

エサルハドンは紀元前672年にエジプト遠征を行い、エジプト第25王朝の首都メンフィスを陥落させましたが、遠征中に死亡したとされています。

エラム王国の滅亡

紀元前669年になると、アッシュルバニパルがアッシリア王として即位しました。

紀元前663年にはテーベを陥落させ、エジプトを完全に支配下に置きました。

一方、エラムでは紀元前664年頃にテウマンが王位に就きました。

しかし、テウマンは前王ウルタクの子らを殺害しようとしたため、彼らはアッシュルバニパルに保護を求めました。

テウマンはアッシリアに対し、ウルタクの子の返還を要求しましたが、交渉は成立しませんでした。

このことが、テウマンがアッシリアとの戦争を決断する要因になったと考えられています。

この時期、テウマンはエラム全土を統一していたとする説もあります。

紀元前653年、ティル・トゥーバで決定的な戦いが起こりました。

戦場の正確な位置は不明で、ウライ河の戦いとも呼ばれています。

この戦いでエラム軍は大敗し、テウマンはアッシリア兵に殺害された、あるいはアッシュルバニパル自身により討たれたと伝えられています。

その後、アッシリアはエラムへの攻撃を継続し、紀元前646年までにスーサを破壊しました。

さらに紀元前640年のアッシリア軍の侵攻により、エラム王国は壊滅し、滅亡したとされています。

エラム王国滅亡後の世界

当然ながら、エラム王国が滅亡した後も、エラム人そのものが消滅したわけではありません。

アッシリア崩壊後に成立したメディア王国や、続くアケメネス朝ペルシアでは、エラム人は行政・軍事・文化面で重用されたと考えられています。

エラム人は非常に長い歴史を持ち、古代メソポタミアの隣人としてしばしば「異民族」として扱われながらも、独自の高度な文化と政治体制を維持してきました。

アケメネス朝ペルシアはキュロス2世の時代に大きく発展し、ダレイオス1世はスーサを主要な王都の一つとしました。

このことは、スーサが地理的・交通的に優れた立地条件を備えていたことを示唆しています。

スーサはアケメネス朝の行政中心地として整備され、王の碑文や行政文書にはエラム語が使用され続けました。

これは、エラム文化がアケメネス朝の国家運営に深く組み込まれていたことを示す重要な証拠です。

しかし、ダレイオス1世の死から150年ほどが経つと、スーサはアレクサンドロス大王の東方遠征によって支配下に入ることになります。

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宮下悠史

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