
| 名前 | ナバテア人 |
| 本拠地 | ペトラ |
| コメント | 交易で莫大な富を築いた民族 |
ナバテア人はペトラを中心とした隊商貿易により莫大な富を得て、後にはナバテア王国を建国しました。
聖書ではナバテア人はアラビア人と呼ばれています。
ナバテアの意味はアラム語の「水を掘る者」です。
名前の通りナバテア人は高い治水技術を持っており、少ない水を最大限生かした灌漑設備があった事が分かっています。
ナバテア人はアラム文字が元になっているナバテア文字を使用しました。
ナバテア人は遊牧民でしたが、アラム語を採用したり、ヘレニズム文化に接する中で開化する事になります。
ナバテア王国は莫大な富を得て領域を拡大させますが、最終的にはローマ帝国の属州となり滅亡する事になります。
ナバテア人とは
遊牧民である
アッシリアが紀元前6世紀頃にアラビア人部族の「ナバトゥ」の反乱を鎮圧した記録があり、これがナバテア人だったのではないかとする説があります。
ナバテア人は紀元前6世紀から4世紀頃に、エドム人の領域に侵入したともされています。
しかし、ナバテア人に関しての最も古い言及は、ディオドロスによる紀元前312年の記述だとされています。
ディオドロスはナバテア人に対し、次の様に述べています。
ナバテア人は自由を得ている。
そのために、外敵が水を得ることのできる川も豊かな泉水もない荒野を祖国と称し、戸外を住居としている。
ナバテア人たちは種を撒かず、果実なる木を植えず、酒を飲まず、家を建てない。これらが彼らの掟であり、もし反する者がいたならば、その者は死刑に値する。
旧約聖書エレミヤ書の遊牧民について、葡萄酒を飲まない。家を建てない。種を撒かない。天幕に住む。葡萄園を作ってはならない。と記述されています。
エレミヤ書の遊牧民の特徴を書いた記述と一致する部分も多く、初期のナバテア人は明らかに遊牧民だったと言えるでしょう。
さらに、ディオドロス自身もナバテア人がラクダや羊を飼い放牧を行っていると記録しています。
ナバテア人と家畜
遊牧民であるナバテア人にとって、家畜はとても重要で必需品と言えます。
ナバテア人の家畜に対しては、ディオドロスは次の様に記録しています。
※ナバテア王国(作品社)より
ナバテア人は家畜には、三日に一度水を与えた。
そこでナバテア人は食べる物も水も無く見捨てざるを得ない地域にいても、絶えざる水の補給の必要がない。
彼らの食物は獣乳と肉であるが、そこに生える野生の食物もまた食用にした。
胡椒が彼らの土地で育ち、水と混ぜて飲む木の蜜が沢山あったからだ。
死海沿岸の砂漠にはオアシスがあり、木の蜜はオアシスに存在する野生のナツメヤシの事だと考えられています。
ナバテア人とペトラ
ナバテア人は砂漠の民でもあり、雨量が非常に少ない地域に住んでいます。
しかし、ナバテア人は高い灌漑技術を有しており、広範囲に降る少ない雨水を一カ所の林や果樹に集めて作物の栽培を行ったわけです。
先にも述べた様に、ナバテア人の意味は「水を掘る者」であり、名前の通り精巧な治水技術を持っていたと言えるでしょう。
ナバテア人は食糧を豊富に得る事が出来る様になると、他のオアシスにいた他部族を追い出し、支配する様になります。
ナバテア人は定住も可能となり、その最大のものがペトラだったわけです。
ペトラは現在のペトラ遺跡でもあり、大発展する事になります。
ナバテア人は裕福だった
紀元前312年の段階では、ナバテア人の人口は1万人弱位でしたが、アラブの牧羊民の中では最も裕福だったとあります。
ナバテア人はラクダで南アラビアとガザの間を結ぶ貿易も行っており、これがナバテア人の富貴の秘密だったようです。
香辛料貿易などは都市住民が行う事が多いとされていますが、ナバテア人は香辛料貿易も行って富を得ました。
初期のナバテア人の長老たちが支配しており、王はいなかったと考えられています。
ナバテア人は敵が攻めて来ると女子供、銀を洞窟に隠し、砂漠に逃走したとあります。
ナバテア人の宗教
ナバテア人の神々ですが、ドゥシャラと呼ばれている主神がいますが、他の神々は殆ど知られていません。
ドゥシャラはギリシア神話ではディオニュソスに相当する神だとされています。
他にも、アラートと呼ばれる女神がおり、ギリシア神話ではアフロディーテに相当します。
ナバテア人は聖なる石の形で神々を祀ったり、原始的な石柱崇拝や山頂での祭祀を行っていました。
しかし、ヘレニズム文化の影響もあり、後にはギリシア神話と同じように人型の彫像も作られる様になります。
イシスと習合したペトラのアル・ウッザーの女神像は有名です。
ナバテア人はバイリンガル
地域の共通語であるアラム語も使われていた事が分かっています。
後期アラム系諸文字の中から、ナバテア文字が出来たとも考えられています。
ナバテア文字はアラビア文字の起源ともされています。
しかし、現在でもまだ分かっていない部分が多く真実は不明です。
ナバテア人の文献から見て複数の言語を使っており、バイリンガルだった事は明らかでしょう。
ナバテア人とアンティゴノス朝との戦い
1度目の戦い
ナバテア人は通行税を取ったり、商品を右から左に流したり、交易により莫大な富を築きますが、この富を狙ったのがアンティゴノス1世となります。
アンティゴノス1世はアレクサンドロス大王の配下の将軍の一人でしたが、ディアドコイ戦争では主役に一人でもあり、アンティゴノス朝マケドニアを建国した人物でもあります。
紀元前312年にアンティゴノス朝とナバテア人は戦う事になります。
アンティゴノス朝の将軍のアテナイオスは、夜中にペトラを襲撃しました。
ペトラは非常に暑い地域であり昼間よりも夜の方が商売が盛んであり、商業活動を行っていたナバテア人たちを急襲する事になります。
アンティゴノス朝の軍は大量の銀や香辛料を略奪し、人々を捕虜とし奴隷として連れ去りました。
しかし、ここからナバテア人の逆襲が始まる事になります。
ナバテア人の騎兵(ラクダ兵含む)は、アンティゴノス朝の軍を追撃しました。
交易路を確保していたナバテア人は地の利を知り尽くしており、圧倒的な強さを見せる事になります。
ディオドロスの記録によれば、襲撃に参加したアンティゴノス朝の兵士4000は壊滅し全員が討ち取られ、僅かな騎兵だけが生還したとあります。
ペトラのナバテア人の軍はよく訓練されていたのでしょう。
ナバテア人はアンティゴノス1世に非難の言葉を告げ、東方との交易路を持ち出し、痛い所を指摘したわけです。
アンティゴノス1世は作戦に失敗したアテナイオスを解任しました。
2度目の戦い
アンティゴノス1世はナバテア人に苦杯を舐めますが、ペトラ征服を諦めたわけではありませんでした。
今度は息子のデメトリオスが指揮官となり、ナバテア人と戦う事になります。
デメトリオスが攻めて来ると、ナバテア人は次の様に告げました。
デメトリオス王よ。王は何が欲しくて、また何の必要があって我々と戦うのか。
我らは砂漠に寝起きし、そこには水、穀物、酒もない。
一言で言えば、あなた方のもとで使うに値するようなものは、何も所持していない。
当然ながら、これで諦めるデメトリオスではなく、ナバテア人と一戦する事になります。
デメトリオスは有能な人物ではありましたが、多くの損害を出し撤退しました。
ナバテア人はアンティゴノス朝マケドニアに勝利し、これに懲りたのかアンティゴノス1世は再びペトラを征服しようとはしなかったわけです。
ナバテア人とアスファルト
デメトリオスの遠征において、ナバテア王国の領域が北は死海に達するほどもあったとされています。
ナバテアでは湖底の亀裂から、自然に浮かび上がってくる天然アスファルトの塊をすくい集める習慣があったと言います。
当時のアスファルトは接着剤や防腐剤など、様々な役割を果たしており、当時としては貴重なものでした。
ナバテア人が北方に領土を拡げていったのは、天然資源のアスファルトの獲得が狙いだったのではないかとも考えられています。
紀元前2世紀のナバテア人
アレクサンドロス大王が紀元前323年に亡くなると、ディアドコイ戦争が勃発し、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトが誕生する事になります。
プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアは、アレクサンドロス大王の都市重視政策を継続した事で、交易活動が活発になり、これがナバテア人の地位を引き上げる事になります。
交易の拡がりにより、ナバテア人の隊商民としての重要性が増しました。
紀元前2世紀になるとセレウコス朝シリアが弱体化し、パルティア、ユダヤ人が国を建てると隊商路が南に寄り、海伝いとなりナバテア人の隊商民としての地位をさらに引き上げられました。
ナバテア人は社会の追い風もあり、さらに裕福となりました。
王が現れる
紀元前2世紀頃にナバテア人の人口は増加し、何十万人に達したと考えられている。
領土も拡大しアラビア北部、ヨルダン、ダマスクスを含むシリア南部やネゲブ砂漠にまで及びました。
遊牧民社会で人口が増加し、ペトラを中心としての定住と王の出現が確認出来る様になります。
ナバテア人の多くの村は王によって支配される様になったと言えるでしょう。
この頃のナバテア人の軍には騎兵がいた事が分かっており、馬はパルティアから輸入していた事が分かっています。
軍は隊商路の確保などにも貢献しました。
紀元前169年頃に王になったアレタス1世が初代ナバテア王という事になっており、この時点で間違いなくナバテア王国が誕生したと言えるでしょう。
ナバテア王国の滅亡
アレタス1世の即位からナバテア王国が始まったとされていますが、紀元前9年ごろに即位したアレタス4世の時代に全盛期を迎える事になります。
ペトラ遺跡の崖に刻まれた宝物殿が建造されたのも、この時代だとされています。
しかし、この時代はローマ帝国の力が強かった時代でもあり、西暦106年頃にローマの属州となりました。
これによりナバテア王国は滅亡したと言えるでしょう。
ナバテア人のその後
ナバテア人はペトラを中心に交易で富を得ていましたが、交易路が代わりペトラは衰退し、代わりにパルミラ王国が栄える事になります。
パルミラ王国は過去のペトラの様に、交易により莫大な利益をあげる事になります。
さらに、地域の降雨量の減少があり、砂漠化が進みました。
ビザンツ帝国の時代にペトラは緩やかに衰退していく事になります。
西暦600年頃にはアラム語も使われない様になり、代わりにギリシア語を使いました。
キリスト教への改宗もしたりしましたが、ナバテア人は遊牧民の部族社会に回帰したとされています。
イスラムの勢力が拡張すると、ビザンツ帝国の臣民としてのナバテア人は姿を消し、その国土は六つのアラブの小国に分割される事になりました。
ペトラは敵の攻撃で陥落したわけではなく、放棄されただけであり、現存の姿で残されており、19世紀の初めに発見された時は世界を驚愕させています。
ナバテア人の芸術や文化は世界を震撼させました。