
盧綰は劉邦と同じ日に生まれた人物であり、家も近かった様で幼馴染として育ちました。
劉邦は皇帝となり大出世をしますが、前漢では盧綰を燕王としています。
盧綰が燕王になれたのは功績ではなく、劉邦に個人的に信頼されていたからでしょう。
しかし、韓信や彭越などの諸侯王が世を去る中で、盧綰は呂后を恐れ不安になりました。
張勝や臧衍の策で反旗を翻した陳豨を支援するなどしており、劉邦は最終的に樊噲を将として燕を撃たせました。
盧綰は劉邦に詫びるつもりでしたが、劉邦が崩御してしまい盧綰は仕方がなく匈奴に亡命する事になり、翌年に世を去る事になります。
尚、盧綰は史記では韓王信盧綰列伝に、韓王信や陳豨と共に実績が収録されている状態です。
盧綰と劉邦は同じ日に生まれる
史記の韓王信盧綰列伝によると、盧綰は豊の人であり、高祖(劉邦)と郷里が同じだったと記録されています。
さらに、劉邦の父親の太上皇は、盧綰の父親と親交があった事が記録されており、家族ぐるみの付き合いをしていたのでしょう。
盧綰と劉邦は同じ日に生まれており、誕生した時には郷里の人々は羊と肉を買い、両家を祝福したと言います。
二人は成長すると文字を学び、親愛したとあります。
劉邦における竹馬の友が盧綰だったのでしょう。
劉邦はとても行儀正しい人だとは言えず、罪を犯して行方を眩ましたりしていましたが、盧綰も劉邦について行方を眩ませています。
劉邦の寵愛を得る
劉邦は沛で挙兵すると、盧綰は客分として劉邦に従う事になります。
項羽が秦を滅ぼすと、劉邦は漢中王となりますが、盧綰は将軍となり項羽と戦った時は太尉として劉邦の傍らにいたと言います。
劉邦は盧綰を寝室に入れるほどに信用していた話があります。
功績の上では曹参や蕭何に盧綰は及びませんでしたが、劉邦のメンタルを支えた存在でもあったのでしょう。
劉邦は衣服、飲食など多くのものを下賜しました。
群臣たちはあえて、盧綰と寵愛を争おうとはしなかったと記録されています。
劉邦は盧綰を長安侯としました。
長安侯としたのは、長安が秦の咸陽だったからだと言います。
史記によると漢王の五年(紀元前202年)に、項羽を破ると、盧綰は別将に任ぜられ、劉賈と共に臨江王の共尉を撃ち破ったとあります。
燕王盧綰の誕生
紀元前202年に劉邦は燕王の臧荼を斬りました。
燕王が不在となると、劉邦は群臣の中で功績のある者を王にすると、詔を出しています。
劉邦は盧綰を燕王にしたいと考えていましたが、自分から「盧綰を燕王にする」と言えば、棘が出ると考え詔を出したと言えるでしょう。
臣下の者達は、劉邦が盧綰を燕王にしたいと考えている事を知りました。
群臣らは「太尉長安侯の盧綰は陛下に従い天下を平定し、功績も多く燕王にするのに相応しい」と告げたわけです。
劉邦は詔を出し、盧綰を燕王としました。
史記には諸侯王の中で寵幸した事において、燕王に及ぶ者はなかったと記録しています。
実際の所ですが、楚漢戦争の功績において、盧綰よりも陳平、周勃、樊噲らの方が功績は大きかったと言えるでしょう。
手柄で考えれば、盧綰は王になるほどの功績は立てていませんが、劉邦にとってみれば身内同然であり、燕王としたとみる事が出来ます。
劉邦にとっても「盧綰だったら裏切る事はない」と考えて燕王としたのでしょう。
ただし、盧綰の燕王の位は劉邦からの信頼だけで成り立っているようなものであり、非常に危ういものでもあったわけです。
盧綰の不安
史記によると漢の11年(紀元前196年)の秋に、代で陳豨が叛いたとあります。
陳豨は韓信と共謀し、反旗を翻したわけです。
この時に陳豨は匈奴に配下の王黄を派遣し、救援を求めました。
燕王の盧綰も張勝を匈奴に派遣し「陳豨の軍は敗れた」と告げさせようとしています。
盧綰は陳豨が敗れたとする偽情報を匈奴に流し、匈奴の出兵を阻止させようとしたのでしょう。
しかし、張勝は匈奴に亡命していた臧衍の言葉を受け、逆に陳豨を助けるような行動を取りました。
張勝の話を聞いた盧綰は一族を処刑しようとしますが、張勝の言葉を聞き納得しました。
盧綰は陳豨が滅びれば、次は自分の番だと考える様になります。
范斉を使者とし、陳豨には決戦に応じないようにと、戦いを長引かせるように動きました。
盧綰の恐れ
樊噲は陳豨を斬る事に成功しますが、陳豨の副将の一人が燕王の盧綰が范斉を通じて陳豨と繋がっていた事を白状しました。
劉邦は黥布との戦いで負傷した傷が悪化に向かっていましたが、激怒する事になります。
劉邦は盧綰を召しますが、盧綰は恐れ病と称し応じなかったわけです。
取り調べの使者として劉邦は、審食其と趙堯を派遣しました。
審食其と趙堯は盧綰の側近らを取り調べ、この時に盧綰は恐れ近しい者には次の様に述べています。
※史記韓王信盧綰列伝より
盧綰「劉氏でなくて王になっているのは、私と長沙王の呉臣だけである。
先年の春には、漢は淮陰侯(韓信)を族滅させ、彭越を誅している。
これは全て呂后の謀略である。
今の主上(劉邦)は病で、政治を呂后に任せているが、呂后は婦人故に、理由をつけて異姓の王や功臣らを殺害する事を優先している」
既に大功臣で王となっていた韓信や彭越が世を去り、次は自分の番だと恐れた盧綰は要請に応じて出向けば殺害されると考え、動かなかったわけです。
それと同時に、この時期には既に呂后が政治の中心となり、動かしており、盧綰が恐れていたのは劉邦ではなく、呂后の方だったのでしょう。
盧綰の側近らは恐れて逃げ出し、燕の内部の事情が知れ渡る事になります。
盧綰が匈奴に亡命
当然ながら審食其は劉邦の元に戻ると、ありのままを報告し、劉邦の怒りは増しました。
さらに、盧綰が張勝を匈奴に派遣し、繋がっている事を知ると、劉邦は「盧綰は謀叛した」と述べ、樊噲に命じて燕を攻撃させています。
史記によると盧綰は宮人・郎党・騎兵数千を率いて、長城の下に移動し情勢を見て自ら参内し、劉邦に詫びようと願ったとあります。
万里の長城の下(国境)まで盧綰は行ったと考えられており、既に戦意はなかったのでしょう。
盧綰は「劉邦なら、きちんんと謝れば許してくれる」と思っていたのかも知れませんが、紀元前195年に劉邦は崩御しました。
盧綰は「呂后が自分を許すはずがない」と考えていた様であり、一族郎党を率いて匈奴に亡命する事になります。
匈奴に盧綰は亡命したわけですが、劉邦の事だけは最後まで信じていたのではないでしょうか。
尚、燕の地は最終的に周勃により平定されました。
東胡の盧王
匈奴は盧綰を東胡の盧王としたとあります。
この時に、匈奴の長は冒頓単于であり、前漢の情報も欲したのか盧綰の亡命を受け入れました。
しかし、他の蛮夷に侵略されるなど匈奴の生活は過酷だった様であり、盧綰は故国に帰りたいと常に思っていたと言います。
盧綰の最後
匈奴での生活が余りにも、ストレスだったのか史記によると、盧綰は1年あまりして胡地で亡くなったとあります。
紀元前194年に盧綰は世を去る事になったのでしょう。
盧綰は亡くなりましたが、盧綰の家族は漢に帰りたいと考えていた様であり、呂后の時代に漢に降ったとあります。
ただし、盧綰の家族の全てが漢に復帰したわけではなく、匈奴に残った者もいたようです。
この時に、呂后は病になっていましたが、宴を開いて盧綰の妻らに会おうと考えていましたが、回復せずそのまま世を去りました。
盧綰の妻も後を追うように亡くなったと言います。
前漢の景帝の6年(紀元前151年)に、盧綰の孫の他之が、東胡王として漢に降ったとあり、前漢では亜谷侯としました。