
| 名前 | カルタゴ |
| 建国 | 前814年?-前146年 |
| コメント | 共和制ローマと戦ったポエニ戦争は有名 |
カルタゴはフェニキア人のティルスの植民都市であり、現在のチュニジアにありました。
ティルスのフェニキア人が地中海からの帰りの航路で、カルタゴを利用したと考えられています。
伝承によればカルタゴは、エリッサにより建国されました。
後にカルタゴは共和制ローマとポエニ戦争を戦い、ハンニバルの奮戦はありましたが、結局は敗れて紀元前146年に滅亡しています。
アウグストゥスの時代に都市としてのカルタゴは復興し、ローマ帝国の属州としての道を歩みました。
最終的にカルタゴの都市は、西暦698年にウマイヤ朝の攻撃により陥落し、ローマの都市としてのカルタゴも滅亡しています。
ウティカの建設
カルタゴの少し北にウティカという場所があり、カルタゴよりも先にウティカの方にフェニキア人は住んでいたと考えられています。
伝承では紀元前1101年がウティカが誕生した事になっていますが、現在確認出来るのは、紀元前9世紀頃となっています。
紀元前9世紀にはカルタゴに先んじて、ウティカにフェニキア人は住んでいたのでしょう。
尚、現在のウティカは内陸部になっていますが、古代とは海岸線が違っており、ウティカが栄えた時代は、海岸部に面していた事が分かっています。
カルタゴの建国神話
エリッサの出奔
一般的なカルタゴ建国の神話を纏めると、次の様になるのではないでしょうか。
紀元前4世紀半ばから、紀元前3世紀の前半を生きたティマイオスが、断片資料ではありますがカルタゴの建国について述べています。
ティマイオスの記録を纏めると、エリッサ(ディードー)が兄弟でティルス王のピュグマリオンによって、夫のアケルバスを殺害され、自分を支持する貴族たちと共に出奔する事になります。
尚、夫のアケルバスはヘラクレス(メルカルト)の神官という事になっているのも、ポイントの一つです。
ウェルギリウスのアエネーイスの記述にもある様に、カルタゴが元はティルスの植民都市だった点は多くの資料で一致しています。
エリッサも当然ながら、ティルスの女性です。
出奔したエリッサの一行はキプロスの女性たちと結婚しますが、キプロスを立ち北アフリカに向かう事になります。
カルタゴ発祥の地ビュルサ
エリッサはアフリカの湾に到着し、土地の原住民と相互通商を行うなど友好関係を結ぶ事になります。
これがカルタゴ建国の第一歩となります。
その後に、エリッサは一頭の牛の皮で覆うことができるだけの広さの土地を買い、そこで長い航海で疲労した仲間の休憩をとる事になります。
現地民も牛の皮を伸ばしても大した土地にはならないと考えており、土地を売ったのでしょう。
エリッサは牛の皮の細く切り出来るだけ長い帯にする様に命じました。
この土地を占有し領土としたわけです。
エリッサ(カルタゴ)の抜け目のなさが分かる話にもなっています。
ただし、牛の皮を幾ら伸ばしても、大した土地にはならないとも考えられており、創作の可能性が高いとみる事も出来るはずです。
別説としては、フェニキア人は交易が得意であり、現地にもお金を落していく事で、現地では歓迎されたのではないか?とする説があります。
牛の皮の話から、後にビュルサの名前が誕生したとも伝わっています。
このビュルサ(牛の皮)こそがカルタゴの発祥の地という事になっています。
カルタゴの建国は紀元前814年だとされています。
カルタゴの牛と馬

カルタゴの建国神話を見ると、牛が大きなポイントになっている様に感じるのではないでしょうか。
しかし、カルタゴから出土したコインには、牛ではなく馬のデザインが刻まれたのが多いのが現状です。
ローマのポンペイウス・トログスがその事について語っており、最初の城壁の土台を据えようとした場所から牛の頭が発見されたと言います。
牛の頭は豊穣の印ではありますが、苦労が多く服従する都市の予兆があると考えました。
他の場所に行くと馬の頭が発見され、力のある国民に育ち縁起がよいと考え、その場所に都市が出来たとあります。
人々は集まりカルタゴは発展しました。
カルタゴでは馬が縁起がよく実際にコインにも使われた事になります。
ローマ人の描くカルタゴの話は想像の話が多いとも指摘されていますが、上記の記述の様に全てが創作というわけでもないのでしょう。
エリッサの最後
エリッサはカルタゴを軌道に乗せますが、現地民の王・ヒアルバスに結婚を要求されました。
ここで、エリッサは夫のアケルバスを想い自害する事になります。
ウェルギリウスのアエネーイスでも、ディードー(エリッサ)は悲劇的な最後を迎えた事になっています。
どちらにしろ、カルタゴの祖であるエリッサの死は報われるものではありませんでした。
カルタゴ建国神話と正統性
カルタゴの建国神話は、正統性を主張するものだとする説があります。
エリッサの血統を考えると、ティルスの王家の者です。
さらに夫のアケルバスはティルスの主神であるメルカトルの神官でもあり、ピュグマリオン王に次ぐ実力者でもあります。
エリッサはティルスを出る時に、メルカトル神に犠牲を捧げたりもしており、見方によってはピュグマリオンによって殺害された夫のアケルバスの宗教的な権威を持ち、出奔した事にもなります。
エリッサは最終的に、求婚を承諾せずアケルバスに殉じた最後にもなっています。
これらを考えると、エリッサによるカルタゴ建設は、メルカトル信仰の総本山をティルスからカルタゴに遷したようにも見えるわけです。
この説が正しければ、カルタゴの建国神話は、カルタゴの人々が考え出した可能性が飛躍的に上がったと感じています。
考古学的なカルタゴの建国
考古学的には、エリッサのカルタゴ建国よりも遅れ、紀元前730年代くらいではないかと考えられています。
この時代から、ティルスのフェニキア人によるカルタゴへの入植が活発になったとされています。
先にも述べた様に、カルタゴの発祥の地はビュルサであり、この丘は現在はサン・ルイと呼ばれています。
ここからユーノーの丘、デルメシュまでの間に、カルタゴの時代の墓が見つかっており、その中でも特にユーノーの丘が最も古いと考えられており、年代にして紀元前730年位ではないかと考えられている状態です。
尚、カルタゴではビュルサの丘が、カルタゴの発祥の地とする何らかの出来事が、あったのではないかともされています。
それでも、近年の考古学的な研究から、カルタゴの起源が伝承の紀元前814年に徐々に近づいているようです。
カルタゴとイベリア半島
カルタゴの建国者のエリッサは亡くなってしまいましたが、その後にどの様になったのかはイマイチ不明です。
カルタゴ王がいたのか、民衆の代表が中心となり政治を行っていたのかは、よく分かっていません。
しかし、ティルスのフェニキア人はイベリア半島に金、銀、錫などの鉱物を得る為に、交易拠点を築いていました。
イベリア半島にはガデスがあり、交易の重要拠点になっていたわけです。
フェニキア人はガデスの現地民と取引を行い鉱物をティルスに持ち帰り、古代オリエントの他の国と商売し利益を上げていました。
ただし、イベリア半島の現地人は無知であり、フェニキア人たちは東方の陳腐化した雑貨類と交換し、多くの利益を上げていたとも考えられています。
ガデスで商品を仕入れた後に、中継地点のカルタゴは非常に都合がよく重宝されたと言えるでしょう。
ただし、カルタゴで雑貨が生産できる様になれば、カルタゴが直でイベリア半島に行き交易を行う事も可能であり、立地的にカルタゴはティルスやシドンなどのフェニキア都市を超える条件を備えていたとみる事が出来ます。
カルタゴの本国のティルスは、アッシリアのエサルハドンや新バビロニアのネブカドネザル2世に苦しめられ衰退し、カルタゴの方が発展する事になります。
カルタゴでは前7世紀中頃から墓の数が増加しており、人口が激増した事が分かっています。
ただし、ティルスやシドン、ビブロスなどのシリアの都市は戦乱による被害を受けており、フェニキア人たちがカルタゴに流入したとも見られている状態です。
立地条件もよく人口も増やしたカルタゴは前6世紀頃までには、独自の西方交易網を形成する事になります。
カルタゴが独自に植民する場合もあり、専門家によってはカルタゴ帝国とまで呼ばれている状態です。
フェニキア人に代わりカルタゴが西地中海を覆う事になりました。
ポカイアとの戦い
カルタゴはイベリア半島の原住民と盛んに商売を行っていましたが、ここにアナトリア半島西部のギリシア系のポカイアがやってくる事になります。
シリアのフェニキア都市の衰退により、空白地となった地中海にギリシア人が参入したとも見られている状態です。
ギリシア人は現在のフランスのマルセイユの辺りに、植民都市のマッサリアを建設しました。
尚、マッサリアに進出したギリシア人がポカイア人と呼ばれる様になります。
さらに、ギリシア人はイタリア半島の南部にマグナ・グラエキアと呼ばれる諸都市を建設しており、地中海を抜けブリテン島まで行ってしまった話まであります。
ヘロドトスによれば、ポカイアの人々はイベリア半島のタルテッソスの現地の王に気に入られ、移住まで勧められたといいます。
しかし、ポカイアの人々は王の要請に応じなかったとあります。
カルタゴとポカイアはタルテッソスとの交易を巡って戦いとなりました。
ギリシア人がマッサリアを建設しようとした時も、カルタゴは阻止しようとするも敗れた話があります。
この戦いでカルタゴは敗れてしまいますが、タルテッソスの権益は守り抜く事に成功しました。
しかし、海上交易を巡ってのカルタゴとギリシア人の戦いは、これで終わったわけではありませんでした。
カルタゴはシチリア島の西部に拠点を持ち、ギリシアの進出を防ぐ事になります。
フェニキア人とギリシアの戦いは続く事になります。
カルタゴの軍事改革
紀元前6世紀の中頃になると、カルタゴではマゴが実権を握りました。
ただし、マゴはカルタゴ王なのか、カルタゴの司令官なのかはっきりとしない部分も多いです。
それでも、マゴの子孫が指導者となっており、マゴ王朝とも呼ばれています。
この頃のカルタゴの領域は北アフリカの西部やイベリア半島の南、シチリア島の西端になっていました。
サルディーニャ島にはフェニキア人の植民都市がありましたが、カルタゴとは別の勢力だったと考えられています。
カルタゴは今までは住民たちが兵士をやっていましたが、マゴは傭兵中心に切り替えました。
軍事改革を行ったと言えるでしょう。
元々カルタゴは商業で潤っており、大軍を組織する事が出来る様になったわけです。
マゴはコルシカ島を支配する為に、イタリア半島のエトルリア人と結びポカイアと戦う事になります。
この戦いはカルタゴが勝利したようであり、コルシカ島を手に入れました。
資料は少なく詳細は不明ですが、カルタゴは西地中海の覇権に一歩前進したと言えるでしょう。
カルタゴと共和制ローマの第一次平和条約
カルタゴはエトルリアとも友好関係を結んでいました。
ローマはエトルリアに従属しており、エトルリアを通じてカルタゴとも繋がっていたわけです。
紀元前509年にローマはエトルリア人のタルクィニウス王を追放し、王政ローマから共和制ローマに生まれ変わりました。
共和制ローマになった年に、カルタゴと共和制ローマは平和条約を結びました。
ポエニ戦争までにカルタゴとローマは、4度の平和条約を結びますが、紀元前509年が最初の平和条約です。
この時のローマはイタリア半島も統一してはおらず、弱小勢力であり、往年のローマ帝国の様な圧倒的な力はなかった時代となります。
第一次の平和条約ではカルタゴの領土は、サルディーニャ島、アフリカ、西シチリアに決定し、西地中海のカルタゴの覇権を認めました。
さらに、ローマ人が「美しい岬」と呼ばれるカルタゴの領域に入ってはいけない事も定められる事になります。
美しい岬の場所は不明ですが、国力ではカルタゴが圧倒しており、カルタゴ有利の平和条約でした。
この条約は150年以上も更新されておらず、特にカルタゴと共和制ローマが争う事もなかったわけです。
ヒメラの戦い
紀元前492年になると、アケメネス朝ペルシアとギリシアのアテネやスパルタを中心としたポリス連合との間で、ペルシア戦争が始まりました。
ティルスはアケメネス朝ペルシアの傘下として戦いますが、カルタゴは動かず中立の構えを見せます。
ダレイオス1世の要請はありましたが、カルタゴは動かなかったという事です。
ただし、カルタゴはシチリア島の征服を目論んでおり、ギリシア人をシチリアから追い出そうと画策していました。
逆を言えばギリシア人のシラクサの僭主ゲロンも同じ事を考えており、シチリアでの権益拡大の為に動く事になります。
シラクサはシチリア島の北方にあるヒメラを占拠し、親カルタゴのテリッロスはカルタゴに助けを求めました。
カルタゴはテリッロスを助ける大義名分も出来た事で、ゲロンとの戦いに突入する事になります。
テリッロスはシチリア東部のレギオンとも親しく、テリッロスを通じてカルタゴとレギオンが接近しました。
アケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世の要請があり、ギリシアに攻撃を仕掛ける事になります。
これがシケリア戦争であり、別名がギリシア・カルタゴ戦争です。
この時のカルタゴは、マゴの孫のハミルカルが率いる30万もの大軍だったと伝わっています。
尚、ポエニ戦争の英雄ハンニバルの父親も「ハミルカル」ですが、ヒメラ戦争のハミルカルとは別人です。
カルタゴには「ハミルカル」なる人物が大量に登場しており、注意が必要だと言えるでしょう。
カルタゴ軍をシラクサのゲロンとアクラガスのテロンが迎え撃ちました。
これがヒメラの戦いです。
ギリシア連合は5万5000の兵力しかおらず劣勢でしたが、カルタゴは悪天候に見舞われ多くの兵士を失いセリヌスに援軍を要請する事態に陥っていました。
カルタゴはセリヌスの兵を迎え入れますが、その兵がシラクサの兵であり、大混乱に陥りハミルカル自身が世を去る事になります。
カルタゴ軍は大敗北を喫しています。
尚、同日にサラミスの海戦も行われており、ギリシアのポリス連合がアケメネス朝ペルシアの軍を破りました。
カルタゴのアフリカ進出
ヒメラの戦いの敗北により、カルタゴは海上進出が停滞する事になりました。
ただし、カルタゴはアフリカの内陸部に進出する事になります。
アフリカでの戦いにカルタゴは勝利し、広大な農地を手に入れ食糧需給を安定させる事になります。
ただし、先住民から多くの徴収を行っており、先住民の犠牲の上に成り立っていた改革だとも考えられています。
カルタゴはヒメラの戦いで歴史的な大敗北は喫しましたが、国内の体制強化を進める原因になったともされている状態です。
カルタゴは国を安定させた事で、再びシチリアに目を向け、シラクサと戦う事になります。
カルタゴは410年位から再びシチリアに進出し、60年ほどの間に、9回も矛を合わせました。
一時はシラクサを除く多くを占拠し戦いを優勢に進めるも、シラクサの僭主デュオニソスの反撃もあり、決定的な戦果を挙げる事は出来なかったわけです。
こうした中で前339年に平和条約が結ばれ、カルタゴとギリシア人勢力の領域が確定しました。
しかし、これらは一時的な平和に過ぎず、前316年頃からシラクサのアガトクレスにより再び戦乱の時代に巻き戻る事になります。
寡頭政治の始まり
話を戻しますが、カルタゴではマゴ王朝があったと考えられていますが、370年頃に寡頭政治に移行しました。
カルタゴでは最高指導者として、スーフェースという役職が設置されています。
スーフェースは世襲ではありませんでしたが、有力な家から選ばれる事が多かったようです。
さらに、スーフェースの他にも元老院と民会があり、スーフェースと民会の間で意見調整が出来なかった場合は、民会の最終決定に委ねられる事になっていました。
監察機関として百人会があり、軍事の最高指揮官として将軍が設置されていたわけです。
尚、様々な役職があった様ではありますが、有力な家系により独占されていたと考えられています。
紀元前4世紀の中頃を過ぎた頃に、カルタゴでは独自の貨幣を発行し、周辺の地域に流通させていた事が分かっています。
カルタゴ経済は強く影響力は甚大でした。
アガトクレスとの戦い
カルタゴのシチリア遠征は紀元前339年ごろまで続いており、カルタゴとシラクサの間で講和が結ばれた事もありましたが、再び対立する事になります。
尚、共和制ローマは勢力を拡大しており、紀元前348年に先の平和条約を更新しました。
シラクサから亡命したアガトクレスは、後にシチリアのモルガンティナの将軍となり、レオンティーニを占拠しシラクサを包囲する事になります。
シラクサはカルタゴに救援を求め、カルタゴは軍を派遣しました。
カルタゴとシラクサは長年に渡り敵対してきましたが、カルタゴはシラクサと共闘する事になります。
しかし、思わぬ事態となりカルタゴ軍を率いたハミルカル(ハンニバルの父親とは別人)がアガトクレスと結託し、ハミルカルが仲介を行いアガトクレスとシラクサの都市は和解しました。
アガトクレスはカルタゴに従う事をケレス女神に誓いますが、後に破られる事になります。
アガトクレスはクーデターを起こし、シラクサの実権を握りました。
紀元前316年にシラクサの僭主アガトクレスは、重要拠点であるメッセネを奪取する事になります。
メッセネはカルタゴに救援を求めました。
アガトクレスは西部にあるカルタゴ側の都市に攻撃した為、カルタゴとシラクサは再び戦争状態となります。
しかし、カルタゴは戦いを優勢に進めシラクサの本拠地を包囲する事になります。
アガトクレスは危機的な状況となりますが奴隷を解放し兵士として、決死隊を率いて包囲を突破し、1万4千の兵で船でアフリカに渡りカルタゴの本国を襲い掛かりました。
カルタゴの元老院はシラクサのカルタゴ軍が壊滅し、カルタゴ本国に押し寄せてきたと考えパニックになりますが、シラクサではカルタゴ軍が奮戦している事を知ると、冷静さを取り戻し徹底抗戦の道を選ぶ事になります。
不意を突かれる形になったカルタゴですが、カルタゴ市民を中心とした軍を編成し、ハンノとボミルカルに迎撃させています。
この軍の中にはカルタゴ貴族の精鋭部隊である神聖軍団も含まれていたわけです。
カルタゴの本拠地の近くで、アガトクレスはカルタゴ軍を破る事になります。
ハンノは戦死し、ボミルカルは逃亡しました。
この戦いでカルタゴ軍は楽に勝利出来ると考えていた様であり、ギリシア軍を捕虜にした時の為の二万以上の手枷を用意していた話があります。
アガトクレスの軍はカルタゴ軍の陣に大量にあった手枷を見て驚いた事でしょう。
カルタゴ最強部隊である神聖軍団の敗北も重なり、カルタゴの求心力が大幅に低下し、アフリカの諸都市が離反するなど苦しい立場となりました。
アガトクレスはアフリカに駐屯し、カルタゴを苦しめる事になります。
先の戦いで逃亡したボミルカルはアガトクレスと合流しようとしますが、最終的にはカルタゴに捕らえられ処刑されています。
結局はカルタゴとシラクサの間で講和が成立し、アガトクレスはシチリアに撤退しました。
カルタゴとシラクサが戦い疲弊しあう中で、オリエントの方ではアレクサンドロス大王が大帝国を築きますが、後に崩壊しています。
古代オリエントの地はプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアに分裂しました。
尚、カルタゴは紀元前306年に、共和制ローマとの講和条約を更新しました。
ピュロス戦争
紀元前280年頃になると、ギリシア北西部のエピロスのピュロス王が、イタリア南部やシチリアを狙っていました。
ピュロスはかなりの野心家だったと伝わっています。
カルタゴは共和制ローマと同盟して、ピュロスと戦う事になります。
紀元前279年にカルタゴとローマは共闘しますが、平和条約にピュロス戦争で協力するという軍事項目が追加される事になります。
かなり苦戦もしましたが、最終的にカルタゴとローマはピュロスを打ち破りました。
ローマ軍がベネウェントゥムの戦いで、勝利し勝敗を決しています。
尚、ピュロスは軍事的な才能には溢れていましたが、戦いに勝っても思った様に戦果を得る事が出来ず「ピュロスの勝利」という諺まで出来ました。
戦いに勝っても得られないという不名誉な諺でもあります。
紀元前272年に共和制ローマはイタリア半島を統一しています。
共通の敵がいなくなった事で、今度はカルタゴとローマは戦いに突き進む事になります。
カルタゴとローマの平和条約まとめ
ポエニ戦争の前にカルタゴと共和制ローマは平和条約を結んでいます。
平和条約の流れをまとめておきます。
先に述べた様に、共和制ローマとカルタゴの最初の条約である紀元前509年であり、共和制ローマの元年でもあります。
カルタゴとローマの平和条約の年代は、下記の通りとなっています。
| 前509年 | 前348年 | 前306年 | 前279年 |
前509年、前348年、前306年の平和条約は、互いの勢力範囲の取り決めを確定したものでしたが、明らかにカルタゴが有利だった事が分かっています。
第1回の平和条約である前509年から第2回平和条約の前348年まで、150年を超える長さがあるのも注目されている状態です。
そして、第2回の平和条約が行われると、次は第3回が306年、第4回が前279年と条約を更新する間隔が明らかに早くなっています。
平和条約は何の問題もなければ更新する必要がないわけであり、頻繁に更新される様になったのは、何らかの政治的な理由があり情勢が慌ただしくなったからでしょう。
実際に共和制ローマは紀元前3世紀後半から2世紀後半にかけて、イタリア半島の中でも勢力を拡大させており、カルタゴにとっても脅威になりつつあったと考えられています。
カルタゴにとって、ローマは地中海を挟んだ海の向こうの国でしたが、楽観視できない状態になっていたのでしょう。
紀元前272年に共和制ローマはイタリア半島を統一しました。
イタリア半島にいたエトルリア人、ギリシア人なども共和制ローマに屈する事になります。
しかし、共和制ローマはイタリア半島の外に領地は一つも持っていない状態であり、最初に目を付けたのがシチリア島になります。
カルタゴはシチリア島に領地を持っており、これによりポエニ戦争が始まりました。
因みに、ポエニ戦争の事が詳しく分かるのは、ポリュビオスが書き残したからであり、実際に小スキピオに同行した人物でもあります。
ポリュビオスは第三次ポエニ戦争の、カルタゴ陥落の様子を目撃しました。
尚、共和制ローマはカルタゴとポエニ戦争を行うだけではなく、前215年から前146年に、4回に渡るマケドニア戦争も行っており、最終的にマケドニアも属州としています。
カルタゴとローマの対立の始まり
紀元前289年にシラクサのアガトクレスが亡くなると、雇っていた大量の傭兵が行き場を失う事になります。
傭兵たちはシチリア半島の北東部にあるメッセネを占拠し、自らを「マメルティニ」と名乗りました。
メッセネの対岸のレギオンでもローマ兵による都市の乗っ取りが起きています。
ここでメッセネとレギオンは協力する様になり、シチリア各地を転戦しました。
ピュロスとの戦いが終わったローマではレギオンを攻撃し、占拠していた兵士らを処罰しています。
孤立したマメルティニはシラクサの僭主であるヒエロン2世に大敗する事になります。
窮地に陥ったマメルティニはカルタゴとローマの両方に助けを求めました。
ここでカルタゴがシラクサを滅ぼしてしまえば、シチリアはカルタゴの手に落ちる事は確実であり、共和制ローマではマメルティニを救援する事になります。
既にカルタゴは西地中海の覇者となっており、ここでローマに近いシチリアを取られてしまうのは、共和制ローマにとってみれば死活問題だったと言えるでしょう。
カルタゴの方もマメルティニに兵を出しますが、後から来た共和制ローマの軍により追い出されました。
カルタゴは怒りマメルティニの本拠地であるメッセネを包囲する事になります。
さらに、シラクサと同盟を結びました。
カルタゴ・シラクサと共和制ローマ・マメルティニという構図が出来上がったわけです。
遂にカルタゴと共和制ローマは対立しました。
尚、長年に渡り敵対していたカルタゴとシラクサは同盟したわけですが、早い段階でシラクサは共和制ローマに寝返っています。
ポエニ戦争
第一次ポエニ戦争
カルタゴと共和制ローマが対立し、第1次ポエニ戦争が勃発する事になります。
第1次ポエニ戦争ですが、紀元前264年から紀元前241年まで23年間も行われましたが、下記の様に分類する事が出来ます。
| 年表 | 出来事 |
| ①前264年ー前261年 | シチリア島での戦い |
| ②前260年ー前255年 | ミュエラ沖の勝利とアフリカ侵攻の失敗 |
| ③前254年ー前248年 | 一進一退の攻防 |
| ③前247年ー前241年 | ハミルカル・バルカのゲリラ戦と海戦での決着 |
共和制ローマは長い年月を掛けてイタリア半島に動いており、陸戦は得意でしたが、海戦を苦手としていました。
歩兵は強いにも関わらず、海上での戦いは不慣れで弱かったと言えるでしょう。
共和制ローマはギリシアの同盟都市に船を用意して貰いました。
ギリシア人はエーゲ海や地中海の交易を行っており、船を巧みに操る事が出来る存在だったわけです。
ミュエラ沖の戦いでカルタゴ軍は共和制ローマの軍に敗れました。
共和制ローマの軍はカルタゴの本国であるアフリカにまで、攻撃を仕掛ける事になります。
しかし、カルタゴ軍はスパルタの傭兵を繰り出すなどし、共和制ローマの軍を退けました。
その後は、一進一退の攻防が続きますが、第一次ポエニ戦争の終盤において、カルタゴの将軍にハミルカル・バルカが登場する事になります。
ハミルカル・バルカはゲリラ戦を駆使し陸上での戦いで勝利しました。
陸上戦ではカルタゴ軍は奮戦しましたが、アエガテス諸島沖の海戦で共和制ローマの軍に大敗を喫しています。
紀元前241年に第1次ポエニ戦争はカルタゴの敗北で幕を閉じました。
シチリアを失う
カルタゴは共和制ローマに敗れて講和条約を結ぶ事になります。
条約ではカルタゴはシチリア島の全域から手を引き、イタリアとシチリアの間にあるすべての島から出て行く事が決まりました。
内容はシチリアや様々な地中海の島々の支配領域を、決め直したような内容だったわけです。
カルタゴの本国である北アフリカの領地は保全する事が出来ました。
ただし、カルタゴは共和制ローマに10年以内に2200タラントンを支払い、1000タラントンは即時支払う事となります。
尚、共和制ローマはシチリア島を手に入れますが、これがローマの初の属州となります。
ケルクアンの遺跡
第1次ポエニ戦争で、アフリカのカルタゴの都市であるケルクアンが陥落しました。
ケルクアンは職人の街であり、最盛期は2000人ほどの住民が暮らしていたわけです。
ケルクアン遺跡は埋もれていたわけですが、20世紀の半ばに発見され話題を呼んでいます。
カルタゴで信仰されていたタニト神を祀った家も発見されました。
傭兵戦争
第1次ポエニ戦争のカルタゴ軍の将軍はカルタゴ人でしたが、兵隊はほぼ傭兵だったと伝わっています。
カルタゴは戦争に負けた事もあり、傭兵たちに満足がいくだけの給料を支払う事が出来ませんでした。
ここにおいて、カルタゴで傭兵戦争が勃発する事になります。
傭兵戦争は泥沼となり、ここに共和制ローマが介入し、カルタゴはサルディーニャ島やコルシカ島も放棄する事になります。
さらに、カルタゴは共和制ローマに1200タラントンを支払う羽目になりました。
第1次ポエニ戦争の後に、カルタゴはローマに合計すると4400タラントンも支払う事になります。
バルカ家のスペイン支配
フェニキア人たちは地中海の全域で活動を行っており、イベリア半島にも拠点を持っていました。
カルタゴではイベリア半島からの立て直しを図り、バルカ家がスペイン支配に乗り出す事になります。
バルカ家で最も有名なのがアルプス越えで有名なハンニバルでしょう。
第二次ポエニ戦争はハンニバル戦争とも呼ばれています。
尚、ハンニバルは複数いるハミルカル・バルカの息子の一人であり、義兄としてハスドルバルがいます。
ハミルカル・バルカが亡くなった時に、ハンニバルは幼かった事で、ハスドルバルが後継者になりました。
ハスドルバルとローマの間で紀元前226年頃に、結ばれた協定があり、カルタゴはイベリア半島で戦争目的としてイベル川(エブロ川)を超えてはならない事としています
第二次ポエニ戦争の敗北
第二次ポエニ戦争ではカルタゴはイベリア半島から、ローマを目指す事になります。
さらに、共和制ローマも手薄になったイベリア半島を攻撃しました。
最終的に大スキピオはイベリア半島の重要拠点であるガデスを陥落させ、イベリア半島もローマの属州となります。
ハンニバルもトレビア河畔の戦い、トラシメヌス河畔の戦い、カンナエの戦いで勝利しますが、膠着状態となり最終的には大スキピオにアフリカのザマの戦いで敗れています。
第二次ポエニ戦争は201年に終わり、ここでもカルタゴは敗れ去りました。
尚、カルタゴ軍は戦象を使った記録が残っていますが、アフリカ象やインド象に比べると、小さ目な森林象を使ったと考えられています。
ハンニバルの戦い
ローマではカルタゴ軍率いるハンニバルが暴れまわり、カンナエの戦いでは共和制ローマを相手に劇的な勝利を得た事は有名でしょう。
ハンニバルは最終的に大スキピオに敗れてはいますが、敵地であるイタリア半島で10年以上も戦い続けた統率力、人望、戦略などは名将という他ないでしょう。
傭兵が多いカルタゴ軍にも関わらず、脱走者を出さないなど、歴史に残る名将がハンニバルです。
ハンニバルと言えば、名将としてのイメージが非常に強いわけですが、カルタゴのスーフェース職に就任し紀元前196年に国政改革を行っています。
ハンニバルは百人会の任期制限や財政改革を行っています。
カルタゴの元老院の中でも特に力を持った百人会の存在を問題視し、任期を決め制限しようとしたのでしょう。
財政改革では第二次ポエニ戦争の、賠償金問題などの解決を図る事になります。
ただし、任期は1年しかなく、最終的には失脚し国を追われ10年程各地を流浪しました。
ハンニバルは安住の地を求めていたはずですが、ローマに引き渡される事が決まり、紀元前183年に毒酒を飲み世を去る事になります。
カルタゴを追われたハンニバルですが、反ローマの姿勢は最後まで貫いたと伝わっている状態です。
現在のチュニジアでもハンニバルは、非常に人気の高い人物となっています。
厳しい講和条約
第二次ポエニ戦争の敗北により、カルタゴは共和制ローマにより厳しい講和条約を結ばされる事になります。
ヌミディアはマッシニサに返還する事が決まりました。
さらに、10隻の軍船を除きすべての軍船と軍象をローマに明け渡す事も決まりました。
アフリカでの軍事行動を行うには、ローマ側の許可が必要となり、カルタゴはほぼ戦争が出来ない様な国になってしまったと言えるでしょう。
賠償金として1万タラントンを50年で支払う事も決まりました。
50年間も賠償金を払い続けるのは、カルタゴが長期に渡り屈する事になり、ローマに逆らう気を無くす為だとも考えられています。
ソフトパワーによる支配を共和制ローマはカルタゴに行ったとみる事も出来ます。
カルタゴの復興
カルタゴですが、多くの軍船は没収されましたが、商船に関しては規制されたわけではありませんでした。
その為、商業は普通に行う事が出来たわけです。
第三次ポエニ戦争までの間にカルタゴは50年程、共和制ローマとは戦っておらず、再び商業で潤ったのではないかと考えられています。
ビュルサの丘の南面の発掘調査を行っており、その結果として、カルタゴは復活に向かったと見られています。
第二次ポエニ戦争が終わった紀元前201年から紀元前149年までは、カルタゴは比較的平和な時代となります。
この時代に共和制ローマは、マケドニア戦争、シリア戦争、マカベア戦争などを行っており、カルタゴには手を出さなかったわけです。
共和制ローマはカルタゴ以外の国と戦い続け、その間にカルタゴは復興に向かったと言えるでしょう。
共和制ローマのカルタゴ滅亡論
カルタゴは復興に向かいますが、カルタゴが強大になるのを共和制ローマは黙ってみてはいませんでした。
共和制ローマの大カトーは元老院の演説で「僅か海路で三日の場所に、見事なイチジクの実がなる豊かな土地カルタゴがある」と述べています。
大カトーはタカ派であり、カルタゴ滅亡論を提唱する事になります。
共和制ローマの中には「カルタゴを生かしておくべし」とする声もありましたが、最終的にカルタゴを滅ぼす方向に舵を切る事になります。
第三次ポエニ戦争の始まり
カルタゴは第二次ポエニ戦争後の条約で、戦争を行うにはローマの許可がいる事になっていました。
しかし、近隣のヌミディアとの間には土地問題が多く発生しており、カルタゴとヌミディアの間で戦争に突入してしまったわけです。
共和制ローマにとってみれば条約違反であり、大カトーが自ら調査に来ました。
最終的に共和制ローマは「内陸に移り住め、海を捨てろ」と命令しています。
カルタゴは海洋国家でもあり、海を捨てるのは死活問題であり、海を使った商売をやってはならない事になります。
当然ながらカルタゴは要求を呑む事は出来ませんでした。
共和制ローマはカルタゴを攻撃し、第三次ポエニ戦争が勃発したわけです。
カルタゴ側は籠城を選びました。
カルタゴの滅亡
既にローマは地中海北岸に広大な領域を支配しており、カルタゴは劣勢となります。
それでも、カルタゴは3年に渡り籠城しました。
カルタゴは戦いに敗れれば滅亡であり、死に物狂いで戦った部分もあるのでしょう。
しかし、最後は壮絶なる市街戦が繰り広げられ、カルタゴは滅亡しました。
共和制ローマは二度と人が住めないようにと、徹底的にカルタゴの街を破壊したと言います。
ポリュビオスのカルタゴの敗因
第三次ポエニ戦争にも従軍したポリュビオスは、共和制ローマの勝因とカルタゴの敗因を語っています。
ポリュビオスはカルタゴが建国された当初は、王(スーフェース)や元老院が機能していたと評価しました。
しかし、カルタゴはハンニバル戦争(第二次ポエニ戦争)の頃には国力が下がり始め、逆に共和制ローマは上り始めたと述べています。
ポリュビオスは全てのものに成長があり、カルタゴの方が成長が早く、ローマの方が成長が遅くきたとしました。
ポリュビオスは国として衰えだしたカルタゴと、成長期の頂点にいる共和制ローマと戦い、ローマは(ハンニバル)により打ちのめされながらも、最後には優れた政策でカルタゴを滅ぼしたと述べています。
成長と衰退をポリュビオスは考えて、カルタゴと共和制ローマの勝敗を分けたとしたわけです。
ただし、実際にはローマ側はカルタゴの船を徹底的に分解するなど研究しており、建築も得意であり高い技術力を持っていました。
当時の海戦は船をいかに沈没させるかの戦いでしたが、ローマの船はコルブスを取り付け、船から船に乗り移れるようにし、陸上戦に持ち込むなどしています。
こうした共和制ローマの創意工夫の前に、カルタゴは敗れ去ったとする見解もある状態です。
カルタゴの復興
アウグストゥスが皇帝となりローマ帝国の時代になると、カルタゴが復興に向けて動き出す事になります。
カルタゴはローマの植民市として、コロニア・ユリア・コンコルディア・カルタゴとして再生されました。
ローマ帝国は過去に滅ぼしたカルタゴの街の上に、再び街を造る事になります。
現在のカルタゴ遺跡の大半は、ローマ時代のものだった事が分かっています。
その後のカルタゴ
193年にローマ帝国はセウェルス朝の時代となりました。
始祖のセプティミウス・セウェルスはフェニキア人であると同時にカルタゴ人でもあったと伝わっています。
セウェルスはアフリカから出た初のローマ皇帝となります。
カルタゴ人がローマ皇帝として即位する時代があった事になるでしょう。
238年に北アフリカではゴルディアヌス1世による政変が勃発しますが、反乱はテュスドルス(エム・ジェム)から始まったと伝わっています。
この頃に円形闘技場が造られており、ローマのコロッセオには及びませんが、世界で三番目の大きさを誇るものとなっています。
395年にローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂しますが、カルタゴは西ローマ帝国の領域に組み込まれました。
439年にはカルタゴ領内にヴァンダル王国が成立し100年程続きますが、東ローマ帝国により534年に滅亡しています。
カルタゴは東ローマ帝国の領域に編入されました。
イスラム勢力の西進の時代となり、698年にウマイヤ朝がカルタゴを陥落させました。
ここにおいて、ローマの属州としてのカルタゴの都市も滅びたと言えるでしょう。
※この記事は佐藤育子先生の講座及び「興亡の世界史 通商国家カルタゴ」「カルタゴの歴史: 地中海の覇権をめぐる戦い」をベースに記事を作成しています。さらに、詳しく知り合い場合は、講座を受けたり書籍を購入したりするようにしてください。