
| 名前 | 劉肥(りゅうひ) |
| 生没年 | 生年不明ー前189年 |
| 一族 | 父:劉邦 母:曹氏 |
| 子:劉襄、劉章、劉興居、劉罷軍、劉寧国、劉信都、劉安 | |
| 劉将閭、劉辟光、劉志、劉卬、劉賢、劉雄渠 | |
| 年表 | 紀元前201年 斉王に封じられる |
| コメント | 斉王に封じられた劉邦の最年長の子 |
劉肥は劉邦がまだ庶民だった頃に、曹氏との間に出来た子です。
劉邦の後継者は恵帝ですが、年齢で言えば劉肥の方が年上でした。
楚漢戦争で項羽を滅ぼし劉邦は皇帝となり、前漢が始まりますが、劉肥を韓信に代えて斉王(悼恵王)としています。
劉邦が崩御すると呂后の時代となりますが、一時は殺されそうになりました。
しかし、内史の勲の進言により城陽郡を魯元公主に譲った事で許され、無事に斉に帰る事ができ、生を全うすることができたわけです。
劉肥の出自
史記の斉悼恵王世家によると、劉肥は漢の高祖(劉邦)の最年長の庶子であると記録されています。
劉肥の母親は劉邦がまだ庶民だった頃の外妾であり、曹氏だとあります。
一説によると劉邦は呂雉と知り合う前に、曹氏と結婚しており、息子に劉肥がいたとされています。
しかし、資産家の呂公に認められ劉邦が呂雉と結婚するにあたり、曹氏と離縁したとも考えられている状態です。
劉邦にしてみても、呂公や呂沢の援助により、天下統一を成し遂げた部分もあり、呂雉を正妻にしないわけにはいかなかったのでしょう。
尚、劉肥の母親の曹氏は史記には出自が書かれておらず、正体不明の女性です。
ただし、曹姓である事から、前漢の功臣である曹参の姉妹もしくは、一族の者だったのではないかとも考えられています。
因みに、呂雉の子に劉盈(恵帝)がいますが、年齢で言えば、劉肥の方が年上です。
斉王劉肥の誕生
劉邦は項羽を破り天下統一しますが、この時に劉肥がどの様な活躍があったのかは不明です。
前漢の最初期は韓信が斉王でしたが、韓信を楚王に移封した事で、劉肥が斉王となりました。
史記には漢の高祖の6年に肥を斉王としたとあり、紀元前201年に劉肥は斉王になったのでしょう。
劉邦は韓信や彭越を代表される異姓王の排除を企てており、結果として劉氏の劉肥が斉王になる事が出来ました。
劉肥は斉の70城を領有し、斉の方言を用いる諸地域も斉王に与えたと言います。
戦国時代に楽毅が斉に壊滅的な打撃を与えますが、この時に楽毅は斉の70城ほどを陥落させており、劉肥には戦国時代の斉の領域の大半を与えたという事なのでしょう。
尚、劉邦が呂后と結婚する為に、曹氏と離縁したのであれば、曹氏や劉肥への罪滅ぼしの意味で大領を与えたのかも知れません。
それと同時に、劉邦も劉肥であれば乱を起こす事がないと考えたのでしょう。
呂后の怒り
劉邦は崩御しますが、当然ながら劉肥は皇帝にはなれず、弟の劉盈が後継者となりました。
紀元前193年に劉肥は長安に入朝する事になります。
この時に恵帝は劉肥を臣下として扱わず、対等の礼で持て成そうとしました。
恵帝は劉肥の方が年上であり、兄としてもてなそうとしたのでしょう。
劉肥の方も辞退せず、これを受ける事になります。
この姿を見ていた呂后は怒り、斉王を誅しようとしたとあります。
呂后は劉肥を毒殺しようとしますが、恵帝が共に劉肥の杯で飲もうとした事もあり、呂后は驚いて酒を捨てさせました。
劉肥は酔った振りをして宴席を抜け出し、危機を脱する事になります。
城陽郡を割譲
既に呂后は劉如意と戚夫人を葬っており、劉肥の立場は危ういものとなります。
呂后は劉肥が恵帝よりも年長であり、求心力を集め脅威になる事を恐れたのでしょう。
さらに、斉の宰相は歴戦の猛者である曹参であり、曹参の動きも気になる所だったはずです。
この時に、内史の勲が斉の領地を呂后に割譲することを進言しました。
内史勲の進言を聞き入れた劉肥は、斉の城陽郡を割譲し、呂后の娘の魯元公主のものとしています。
城陽郡は魯元公主の化粧領となりました。
これを聞いた呂后は喜び、劉肥は暇乞いして斉に戻る事になります。
劉肥は城陽郡を差し出す事で、呂后に恭順の意を示し許されたのでしょう。
呂后の方でも屈服した劉肥を追い詰める様な事はしませんでした。
劉肥の最期
史記によると斉の悼恵王の劉肥は、在位13年、恵帝の6年に没したとあります。
紀元前189年に劉肥は世を去った事になります。
劉肥の後継者は子の劉襄となりました。
劉襄は呂后が没した後に、呂氏に対し外部から反旗を翻した人物でもあります。
斉は後に劉肥の子孫によって国は分割され、呉楚七国の乱では斉の劉卬、劉雄渠、劉賢、劉辟光が劉濞に加担し乱に加わっていますが、これらは劉肥の子でもあります。