
戚夫人は劉邦が最も愛した女性ですが、劉邦死後に呂氏により人豚にされてしまった事でも有名です。
生前に戚夫人は我が子の劉如意を後継者にする様に、劉邦に積極的にアピールを行っており、呂后に恨まれていました。
劉邦が生きている間は、華やかな生活をしていた戚夫人ですが、劉邦の死により暗転しました。
人彘事件では「可哀そう」などの同情の声もありますが、それと同時に自業自得などの厳しい声もある状態です。
今回は戚夫人の生涯をみながら、どうすれば人彘事件を回避する事が出来たかなどを解説します。
戚姫と劉邦の出会い
戚姫と劉邦の出会いは、はっきりとしておらず、秦末期に項梁が定陶に駐屯していた時代に出会ったとも、彭城の戦いで劉邦が項羽に大敗北を喫した後に出会ったともされています。
しかし、両方の説で共通しているのは、戚姫と劉邦が定陶で出会ったという事であり、戚姫は劉邦に好かれ側室となりました。
劉邦と戚夫人の間に、劉如意が誕生する事になります。
正室の呂雉を劉邦は戦場に連れて行こうとはしませんでしたが、戚夫人は常に劉邦に付き従い関東にも行ったとあります。
戚夫人の願い
戚夫人ですが、自らの子である劉如意の擁立を考える様になり「日夜泣いて我が子を太子に立てたがった」とあります。
この言葉から劉邦に泣き落として、自らの子である劉如意を太子にしたかったとみる事が出来ます。
戚夫人が生んだ劉如意の活発な姿を見て劉邦も「自分に似ている」として可愛がったわけです。
楚漢戦争で劉邦は最終的に項羽を破り、劉如意を趙王としました。
しかし、劉如意は趙に行こうとせず、長安に留まり「太子になりたい」と述べたと言います。
子供の劉如意が何処まで本気で言っていたのかは不明ですが、戚夫人が言わせていた部分もあるのかも知れません。
戚夫人自身も劉如意が皇帝として即位しなければ、自分の身に禍が降りかかると考え、何としても我が子を皇帝に擁立したかった可能性も残っています。
ただし、こうした戚夫人の態度を苦々しく見ていたのが、呂后であり、戚夫人と劉如意に対し恨みが溜まって行く事になります。
戚夫人の敗北
劉邦は楚漢戦争で勝利した後も、匈奴や黥布と戦争を行っており、黥布との戦いでは負傷し体調が悪化しました。
こうした中で劉邦は太子を劉如意に代えようとしますが、叔孫通が命を懸けて諫めますが、劉邦は劉如意を後継者にしようとしたと記録されています。
劉邦の命は尽き掛けていましたが、戚夫人は勝利の目前まで来ていたと言えるでしょう。
ある時に、宴会が行われますが、太子の劉盈に賢人として知られた東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公が付き従っていました。
これを見た劉邦は驚き「どうする事も出来ない」と述べ、戚夫人には「呂后こそが其方の主だ」と述べています。
この時点で後継者争いの決着はつき、後継者は劉盈に決定し戚夫人は敗れ去ったと言えるでしょう。
尚、東園公らを呼び寄せたのは張良であり、功臣の多くも呂后を支持していました。
劉邦の歌と戚夫人の舞
劉邦の言葉に戚夫人は泣きますが、劉邦は戚夫人に「儂の為に楚舞を舞って欲しい。其方の為に楚歌を歌おう」と述べました。
※史記留侯世家(ちくま学芸文庫訳)
鴻鵠高く飛んで 一挙に千里
羽翼すでに就って 四海を横絶す
四海を横絶すれば 当に如何すべき
矰繳(いぐるみ)あれど 何処に施さん
数曲劉邦は歌いますが、戚夫人はすすり泣いて涙を垂れたとあります。
後に劉邦は崩御しますが、劉如意の為に周昌を趙の丞相としました。
劉如意は領国である趙で暮らす事になりましたが、戚夫人はそのまま長安に残ったのでしょう。
戚夫人の暗転
紀元前195年に劉邦が崩御すると、戚夫人の人生は一気に暗転する事になります。
劉邦に愛された分だけ、戚夫人は呂后に憎まれ復讐される事になります。
恵帝が即位しますが、実権を握ったのは呂后であり、永巷に命じて幽閉させたとあります。
戚夫人は自らの子である劉如意を帝位に就けたいと考えて動いており、呂后にとってみれば恵帝の存在を脅かす者でもあり、危険人物として認定していたのでしょう。
成人した劉如意に注目が集まっても困るわけであり、政敵排除の意味で早めに始末したい存在でもあったとみる事が出来るはずです。
囚人の歌
漢書に戚夫人が幽閉された時の事が記載されており、頭髪を剃り鉄のたがで首を束ね赤い囚人服を着せたとあります。
戚夫人は罪人の格好をさせられた事になります。
囚われの身となった戚夫人は、次の歌を謳いました。
漢書外戚伝(ちくま学芸文庫訳)より
子は王さま、母は虜の身、
終日舂きて薄暮まで、いつも死因の仲間入り。
たがいに離れて三千里、誰にたのめば汝に知らせられるやら。
戚夫人は自らの子で趙王となった劉如意だけを頼りとしたのでしょう。
しかし、劉如意には呂后に対抗できるだけの力はなく、戚夫人の命は風前の灯であり、呂后の手に握られました。
漢書外戚伝によると、戚夫人の歌を聞いた呂后は「お前は息子に頼ろうとするのか」と述べ、趙王を召し出し誅殺しようとしたとあります。
趙の宰相になっていたのが周昌であり、理由をつけて劉如意を行かせない様にしますが、周昌が都に呼び出されています。
ここで趙に劉如意の入朝を求めると、劉如意はやってきたわけです。
これにより戚夫人に続き、子の劉如意の命も風前の灯となりました。
人彘事件
人彘事件とは
恵帝は劉如意を数カ月間に渡り一緒に行動し命を守りますが、結局は呂后により毒殺されました。
これを考えると、戚夫人は数カ月に渡って幽閉されていた事にもなるでしょう。
それと同時に、劉如意を始末するまで戚夫人を生かしておく、呂后のいやらしさも感じるのではないでしょうか。
劉如意を殺害した呂后は、戚夫人の手足を切断し、目をくりぬき、耳を焼き薬でのどを潰され便所に置き「人豚」と呼んだと言います。
当時の中国では便所の下に豚を飼っていた事が分かっており、呂后は戚夫人を便所に置いたのではなく、便器から落としたとも考えられています。
さらに、人豚状態を数カ月に渡って続けさせた話があります。
これが人彘事件であり、呂后が中国三大悪女にされてしまう最大の原因ではないでしょうか。
劉邦の最愛の寵姫であった戚夫人は見るも無残な姿となり、亡くなる事になります。
人彘事件の謎
人彘事件ですが、呂后は戚夫人の手足を切断したわけですが、この時点で出血多量で亡くなってしまったのではないかと思うかも知れません。
普通で考えれば、手足を切断されれば、かなりの出血であり、助からないでしょう。
しかし、秦の法律で足を切断するという刑罰があり、足を切断する刑罰があるのであれば、死なない様にする手当の方法もあったのではないかと考えられています。
他にも、宦官にする為の宮刑は確実に存在しており、当時の治療技術の高さも分かる話です。
これらを考慮すると、人彘事件があったとするならば、戚夫人は手足を切断された後に、死なないための手当てを受けた事になるでしょう。
その上で、便所に捨て「人豚」と呼んだ事になります。
ただし、人彘事件は単なる説話の可能性もあり、真実は不明です。
戚夫人はどう行動するべきだったのか
自業自得なのか
戚夫人に対しては「可哀そう」「気の毒」とする声もありますが、自業自得とする声もある状態です。
劉邦に自らの子である劉如意を後継者にする様に強くアピールし、最終的に呂后により酷い目に遭うのは自業自得にも見えます。
戚夫人と正反対だったのが、漢の文帝の母親である薄姫だったのではないでしょうか。
薄姫は劉邦の寵愛も大して受けておらず、子の劉恒が僻地の代で王になっており、呂后からは危険視されず生き残っています。
戚夫人は積極的に劉如意を推した事が仇になったとあり、その点は自業自得と呼べるのかも知れません。
戚夫人がすべきだった行動
戚夫人がするべき行動ですが、恵帝や呂后に対して、趙の土地を割譲するなど徹底的な屈服が必要だった可能性があります。
恵帝の異母弟である劉肥も呂后により殺害されそうになりますが、土地を割譲した事で許されています。
呂后は土地を割譲する劉肥を見て「危険人物ではない」と判断したのでしょう。
勿論、劉肥の母親の曹氏と戚夫人の劉邦からの愛され方は違っていましたが、徹底的な屈服を行い「危険人物ではない」事をアピールすれば、助かった可能性も残っていたのではないでしょうか。
やってみなければ分かりませんが、呂氏への徹底した服従が必要だった様に感じています。