斉(戦国) 春秋戦国時代

斉(戦国・田斉)の史実『東方の大国はなぜ滅亡したのか』

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宮下悠史

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名前斉(田斉)
建国と滅亡紀元前386年ー紀元前221年
年表紀元前342年 馬陵の戦い
紀元前334年 王号を称す
紀元前288年 斉秦互帝
紀元前284年 済西の戦い
紀元前221年 滅亡
画像YouTube

斉は春秋時代と戦国時代で一族が代わっているのが特徴です。

春秋時代は斉の君主は呂尚を始祖とする姜姓の国ですが、戦国時代の斉の君主は田氏であり、簒奪により斉の君主となりました。

それ故に、春秋時代の斉と戦国時代の斉を分けて考え、戦国七雄の斉は田斉と呼ばれたりもします。

戦国時代の初期はがリードしましたが、田忌孫臏桂陵の戦い馬陵の戦いで魏軍を破り東の大国としてのし上がりました。

西では商鞅の改革で力をつけており、戦国時代中期は秦と斉の二強時代となります。

斉の湣王は宋を滅ぼすなど強勢となりますが、孟嘗君と袂を分かつなどもあり、楽毅率いる合従軍の前に大敗北を喫しました。

楽毅により斉は莒と即墨を残すのみとなり壊滅状態となりますが、燕の昭王の死後に楽毅がに逃亡すると、田単が斉の旧領を奪い返す事になります。

田単の活躍により斉は復興しますが、それ以降は対外戦争を行わず、沈黙を続けました。

秦の征服戦争においても斉は他国を助けず、秦は最後に残った斉を滅ぼし天下統一となりました。

斉を滅ぼしたのは秦の王賁李信蒙恬の三将軍です。

東方の大国である田斉がどの様にして建国し滅亡したのかを解説します。

尚、戦国七雄の田斉以外の国々は下記の通りです。

斉への亡命

田斉の始祖ですが、陳の公子である陳完から始まります。

陳は三皇五帝の舜を始祖とする国であり、陳完はその子孫という事になります。

春秋時代に斉の桓公は管仲の補佐もあり覇者となりますが、この時代に陳完は亡命公子として斉を訪れました。

斉の桓公は陳完を工正とし陳完は斉で大夫となります。

陳完は五代で正卿となり、八代で比肩するものがいなくなると予言されており、この予言が成就される事になります。

斉の有力者となる

陳完から数えて5代目の田無宇は斉の荘公の時代の人であり、寵愛を受ける事になります。

田無宇の時代に田氏は斉の有力氏族になったとも言えるでしょう。

斉の景公の時代になると、田乞が民に恩徳を施し人心を得ました。

田乞は徴税の時には小さめの升を用いて、民に給付する時は大きめの升を使い人心掌握に務めたわけです。

田氏は山川藪沢で蓄えた財を人心掌握に使ったとも言われています。

斉には晏嬰がいましたが、田氏の行いを見て晋の叔向に「斉の政は田氏に帰する」と予言した話があります。

晋では公室の力が衰えており、六卿の勢力争いの時代となっていました。

六卿で最初に脱落したのが范氏と中行氏であり、田乞が范氏と中行氏を助ける様に要請した話があります。

斉の景公は晏孺子を後継者に指名し高張と国夏が補佐する体制となります。

しかし、田乞は自分と親しかった陽生を立てようと考え暗躍しました。

田乞は鮑牧と共に乱を起こし陽生が斉の君主となります。

田常が権力を握る

陽生が斉の悼公であり、田乞の後継者の田常も仕える事になります。

鮑牧は斉の悼公と折り合いが悪く、互いに命を落とす事になります。

斉の簡公が後継者になると、田常は監止と共に左右の大臣となりました。

後に田常と監止の権力闘争が起こり、監止が殺害され斉の簡公も命を落とす事になります。

斉の平公が即位すると、田常は宰相となり、魯や衛には奪った土地を返還し、民には恩徳を施しました。

田常は斉の有力大夫である鮑氏、晏氏などを滅ぼし、斉の安平から東は自分の領地としました。

この時点で田常も持つ領土は斉の平公よりも大きくなりました。

田常は身長が高い女性を後宮に入れて、賓客などにも後宮に出入りさせています。

こうした事もあり、田常が亡くなる時には男子の数だけで70人の子がいたとあり、これらの子を使って田氏は勢力基盤を整えように画策しました。

勿論、田常の子ではなく賓客の子らも混ざっていた事でしょう。

田常は70人を超える子供を全て自分の子として面倒をみたわけです。

田氏が諸侯となる

田常の後継者は田盤であり、斉の宣公の宰相となります。

田盤は自分の一族の者たちを次々に斉の都邑の大夫とし、田斉への基盤を作る事になります。

田常の子が大量にいた事で、田氏は斉の多くの地に自分の一族のものを送り込む事が出来たわけです。

田白、田悼子、田和も引き続き斉の宣公の宰相となりました。

田和の時代は魏の文侯や武侯の時代であり、戦国七雄の最強国となっていたわけです。

斉の宣公が亡くなると、斉の康公が即位しますが、斉の康公に権力はなく田和が実権を握る事になります。

斉で田氏による権力強化ばかりが行われていたばかりではなく、魏の文侯が晋の烈公を擁立しの三晋連合を率いて斉に攻めて来ました。

魏の文侯を中心とした斉への攻撃は、周の威烈王の命令でもありましたが、斉は三晋の連合軍の前に敗れています。

紀元前403年に周の威烈王は魏、韓、趙を諸侯としてみなし資治通鑑では、この年を持って春秋時代と戦国時代の境としました。

戦国時代に入っても、斉はまだ名目上とは言え姜姓の国として続いていたわけです。

斉を破った後の魏、趙、韓の間では対立が見られる様になり、紀元前386年に魏の武侯は外交を有利に進める為に、周の安王に働きかけ田和を諸侯として認めさせました。

史記の田敬仲完世家だと斉の康公の素行に問題があった様な書き方をしていますが、実際には魏の武侯と田和の意向が合致した結果として、田和は諸侯として認められたわけです。

これにより田斉が誕生しました。

田和は太公と呼ばれたりもします。

田和が亡くなると田午が斉公となり、と魏が韓を攻撃し韓が救援を斉に求め鄒忌と段干朋が議論した話が史記にあります。

田斉の躍進

魏の武侯が亡くなった時にで内紛が起こり、は出兵し晋の孝公を屯留に遷し、東周も東西に分割させました。

これにより魏は晋の公室や周王を擁して権威を確立する事が不可能となったわけです。

それでも、内紛を勝ち抜いた魏の恵王の権力は強大であり、他国の脅威となっていました。

斉の威王の時代に斉の田忌孫臏が中心となり、魏の龐涓桂陵の戦い馬陵の戦いで勝利する事になります。

魏は西方では商鞅に敗れた事もあり、最強国の座から転落し、時代は秦と斉の二強時代に突入しました。

斉の威王と魏の恵王は紀元前334年に徐州で会見を行い互いを「王」と呼び合う事になります。

これにより斉と魏は互いを「王」として承認しあった事になり、斉王と魏王が正式に誕生する事になりました。

斉と魏が王号を称したのは、紀元前334年以降となります。

尚、斉の威王に関しては、楚の荘王の「鳴かず飛ばず」の様な逸話や鄒忌を重用した話があります。

斉は稷下の学士などの話もあり、首都の臨淄は学問の都として栄える事になります。

鄒衍、淳于髠や諸子百家の学者なども多く集まりました。

斉に多く集まった学者などは官職が与えられたわけではなく、あくまでも斉王への提言をするブレーンとして集められたわけです。

斉の政治の中心は田氏で固められていました。

それでも、斉の宣王の時代頃から田氏だけではなく、学士なども登用される様になっていきました。

因みに、史記の田敬仲完世家では馬陵の戦いや魏の恵王と王を呼び合った話は、斉の宣王の時代の話となっています。

司馬遷も田斉の歴史を纏めるのは非常に困難だった様で、田斉に関しては非常に掴みにくい部分が多いです。

大都市臨淄

史記の蘇秦列伝に蘇秦が斉にやってきて斉の宣王に遊説を行った話があります。

蘇秦が斉の宣王に説いた言葉の中に「臨淄の戸数は7万戸で、1戸あたり3人の男子が徴用する事が出来、臨淄だけで兵が21万揃えられる」と述べた話しがあります。

蘇秦の言葉から当時の臨淄には人口が50万人はいたのではないかと考える人もいます。

さらに、蘇秦は臨淄の民は豊かであり、蹴鞠や筑なども楽しんだとも述べています。

蘇秦は戦国七雄の国々を周りましたが、ここまで一つの都市を褒める事は少なく臨淄が如何に発展し文化レベルも高かったのかが分かるはずです。

斉の首都の臨淄には人が肩や車軸をぶつけ合う程であり、大都市だと蘇秦も認めた事になるでしょう。

この時の斉は世界でも有数の都市だったとする見解もあります。

五都の兵

斉の威王の時代から斉には司馬穰苴の兵法を元に考案された五都の兵と呼ばれる軍隊がありました。

司馬穰苴は姜斉の斉の景公に仕えた兵法家でもあります。

呉の闔閭に仕えた孫武孫臏も斉の所縁ある人物であり、斉では兵法も盛んだったのでしょう。

斉の整備された軍隊は強く他国を畏れさせた話しもあります。

孟嘗君の活躍

孟嘗君戦国四君に数えられる人物であり、斉の宣王や斉の湣王に仕えました。

孟嘗君は多くの食客を養い鶏鳴狗盗の逸話などでも有名です。

から戻った孟嘗君は紀元前298年に斉、の合従軍を組織し、匡章を総帥とし秦を攻撃しました。

この時の匡章の采配が見事だった事もあり、秦は函谷関を抜かれ合従軍と和議を結ぶ事になります。

孟嘗君が宰相をしていた時代に、斉は大きく国力を伸ばしますが、斉の湣王との対立もあり孟嘗君は斉を去り魏に移る事になります。

尚、斉は燕王噲が子之に禅譲し国が混乱した隙に、を攻撃し一時は燕を属国としてしまいました。

しかし、斉の強引なやり方に大夫や豪族たちが反発したのか統治は長続きせず、斉は2年ほどで燕に奪った土地を返還し撤兵しています。

斉が燕の内紛に介入し荒しまわったのが、史記だと斉の湣王の時代という事になっていますが、実際には斉の宣王の時代だったと考えられています。

斉が燕を征服してしまった話ですが、孟嘗君も関係していると考える人もいますが、はっきりとはしません。

斉が燕を騙し討ちにして征服してしまった事で、燕の昭王は斉を深く怨み郭隗の優遇に始まる人材厚遇策により多くの優れた人材を集め、斉への復讐を考える様になります。

田斉の全盛期

斉は紀元前288年にと東西の帝となりました。

秦の昭王が西帝であり、斉の湣王が東帝となったわけです。

秦斉の東西称帝ですが、蘇代の進言で斉の湣王が東帝を取りやめ、秦も斉に続いて帝の称号を捨て去りました。

秦と斉の東西称帝の時代は斉と秦の国力が拮抗していたとも考えられ、斉は秦と同じ位の国力があった事を伺い知る事が出来ます。

さらに言えば、斉と秦が東西の帝を名乗る事は、周王朝を頂点とする社会秩序の消失を意味する事になります。

斉は286年に宋を滅ぼし、これにより田斉の全盛期がやってきたわけです。

斉の湣王の絶頂期でもあった事でしょう。

田斉の崩壊

斉の絶頂期は長く続かず紀元前284年に楽毅の帥将となりと共に斉を攻撃し、済西の戦いで斉軍は大敗北を喫しました。

楽毅は斉の領内に進攻し莒と即墨だけを残し全て占領しています。

斉のは首都の臨淄を捨て去り各地を逃げ回りますが莒に籠ると、楚の頃襄王は淖歯を援軍の将として派遣する事になります。

斉の湣王は淖歯の到着を喜び宰相としますが、淖歯は斉の湣王を手に殺害してしまいました。

王孫賈が淖歯を討ち取り斉の湣王の仇を取ると、斉の襄王が斉王として即位しています。

斉は崩壊状態となりますが、このタイミングで燕の昭王が亡くなり、燕の恵王が即位しますが、楽毅と折り合いが悪く楽毅は趙の恵文王の元に逃亡しました。

楽毅が燕を去ると、燕は騎劫を将軍としますが、即墨の田単が反撃に転じ、遂には燕に奪われた領土を回復しています。

田単は斉の旧領を回復しましたが、斉は大きく国力を落し、これ以降は対外戦争を殆ど行わなくなります。

斉の没落により、勢力の均衡が崩れ秦が天下統一に向けて邁進する事になります。

秦の白起は紀元前276年にの首都である郢を陥落させ、紀元前260年の長平の戦いでも秦は趙に勝利を収めました。

尚、長平の戦いの時に趙の孝成王が斉に食糧を求めましたが、斉は趙を助けなかった話があります。

斉の滅亡

紀元前249年には東周を併合し、諸侯を滅ぼす最終段階に入る事になります。

こうした中で紀元前238年に斉王建は秦に入朝したとあります。

斉王建が秦に入朝したというのは、秦に対し連衡を採用したか降伏したのかを指す事になるでしょう。

秦は戦国七雄の国々を攻めますが、斉は助ける事がありませんでした。

こうした中で韓、魏、趙、楚、燕は滅亡し、遂には秦と斉だけの二国が残ったわけです。

秦は王賁李信蒙恬の三将に斉を攻撃させると、斉王建は降服し、これにより秦の天下統一が決まりました。

秦と斉の違い

と斉は東西に割拠していましたが、最終的に天下統一したのは西方の秦となりました。

斉が天下統一出来なかった理由は、もちろん、斉の湣王に見られる様に外交上の孤立があり、合従軍により壊滅的な状況になってしまったのも一つの原因でしょう。

しかし、人材登用において田斉では田氏を重用し過ぎたという点も指摘されています。

田常が田氏の権力を固める為に、田氏の一族を各地にばらまき権勢を固めました。

秦では商鞅、張儀、魏冄、白起范雎と王族ではない多国人であっても、有能な人物を積極的に登用していたわけです。

斉は田氏一族の優遇が基本となっているのに対し、秦は実力主義を見せる事になります。

秦は血縁関係に拘らず中央集権体制を作って行く事になります。

田氏は一族の者を各地に派遣し重用した事で、姜斉から国を簒奪したにも関わらず、国は安定していたわけです。

これはにも言える事であり、楚でも王族が高官を独占した事で簒奪が起こらず、楚王の位は安定をもたらしました。

しかし、田氏の血縁関係で固めたとしても、時代が下るにつれて同族関係は弱まり自律性が強まる事になります。

孟嘗君なども薛を半独立状態としており、斉王にとっては扱いにくい存在でもあったはずです。

田氏一族のもので地方に派遣された者は土着化しており、さらに官僚も土着化してしまい貴族と化し、中央集権化を阻害する要因となっています。

秦以外の六国は国を纏め上げる事が出来ず、秦に敗れたとする見解が強いです。

その後の斉

紀元前221年に斉王建が降伏し戦国七雄が覇を競い合う時代は終焉を迎えました。

秦王政は始皇帝を名乗りますが、始皇帝が崩御すると陳勝呉公の乱が勃発しています。

この時に、斉では田儋が一族の田栄や田横らと共に反秦の兵を挙げました。

田氏は斉では多大な影響力があり、田儋は挙兵する事が出来たのでしょう。

田儋は章邯に敗れ命を落としますが、秦は劉邦項羽により滅ぼされました。

楚漢戦争に突入すると田栄や田横が奮戦し項羽と戦うなどもありましたが、劉邦が派遣した韓信の前に斉、楚連合は敗れ去り、楚将の龍且も命を落としました。

田横が斉王になったと思われますが、最後は自刃し田横の最後を持って田斉は滅亡したと言っても良いでしょう。

田横に関しては、作家の宮城谷昌光氏が香乱記で主人公として描いた事で有名です。

田斉の君主一覧

姜姓の配下時代

陳完ー田穉ー田湣ー田須無ー田無宇ー田開ー田乞ー田恒ー田盤ー田白ー悼子

諸侯時代

田和ー田剡ー田午

歴代斉王

威王ー宣王ー湣王ー襄王ー王建

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