鄧龍は劉表から江夏太守に任命された黄祖配下の武将です。
正史三国志の周瑜伝に僅かですが、名前があり実在した武将なのでしょう。
鄧龍に関しては分かっている事が少なく、どの様に黄祖に仕える事になったのか?なども不明です。
正史三国志では西暦206年に黄祖の命令で、鄧龍は紫桑を攻めますが、周瑜に敗れ捕虜となっています。
しかし、三国志演義では208年に起きた呉の孫権と、黄祖の最終決戦に参加し、甘寧に斬られた事になっていました。
今回は目だった活躍はありませんが、実在した将軍であろう鄧龍を解説します。
因みに、水滸伝でも鄧龍(別人)なる人物が登場します。
水滸伝の鄧龍は二龍山の頭目でしたが魯智深、楊志、曹正らにより殺害され二龍山を奪われています。
鄧龍亡き後の二龍山は、武松が加わるなど一大勢力となりますが、呼延灼に攻撃された時には、梁山泊に合流しました。
鄧龍は正史三国志、三国志演義、水滸伝と全てパッとしない役柄だとも言えるでしょう。
正史三国志の鄧龍
周瑜は孫瑜の目付け役として、山越が籠る麻屯と保屯を攻撃しました。
麻屯と保屯の戦いでは周瑜や孫瑜の采配が光ったのか、山越の首領を斬首し、1万の捕虜を得るなど大戦果を挙げています。
この後に周瑜と孫瑜は、軍を移動させ宮亭の守備に就いています。
江夏太守の黄祖は、山越を呉の周瑜らが攻めている時が好機だと思ったのか、鄧龍に命じて紫桑を攻撃させました。
黄祖にとってみれば呉の周瑜、孫瑜らが山越討伐に苦戦し長期戦になれば、絶好のチャンスだと考えたのかも知れません。
この時に黄祖は鄧龍に数千の軍勢を預けて、紫桑に侵攻させた話があります。
しかし、電光石火で山越の乱を平定してしまった周瑜や孫瑜の前に、鄧龍は呆気なく敗れたのでしょう。
周瑜と鄧龍の戦いでは、周瑜が追撃を行った話しもあり、鄧龍は周瑜の軍に敗れて追撃された様に思います。
もしくは、周瑜や孫瑜が思ったよりも早く紫桑に現れ、びっくりして撤退しようとしたら追撃されてしまったのかも知れません。
周瑜や孫瑜に追撃された鄧龍は、見事に捕虜になってしまったわけです。
捕虜になった鄧龍は、呉に護送された話がありますが、正史三国志には、これ以降の鄧龍に関する記載がありません。
その為、鄧龍は呉の孫権に斬られてしまったのか、黄祖の元に返されたのかは不明です。
三國志演義の鄧龍
三國志演義にも僅かですが、鄧龍は登場します。
史実だと先に述べた様に西暦206年の戦いで、周瑜ら呉軍の捕虜となっていますが、三国志演義では208年におきた呉と黄祖の最終決戦に参加しています。
この時に、鄧龍は陳就と共に呉に対し黄祖軍の先陣として攻撃を仕掛けています。
しかし、呉軍の甘寧に出会ってしまい鄧龍は、斬られてしまいました。
甘寧も元は黄祖の配下としており、三国志演義だと元同僚に斬られてしまった事になるはずです。
三國志演義の設定だと甘寧が恩がある黄祖配下の都督である蘇飛には、思い入れがあったようですが、鄧龍には愛着も無かったのか斬られるだけの設定となっています。
鄧龍は史実でも三国志演義でも、パッとしない存在だとも言えます。
鄧龍の能力値
三国志14 | 統率54 | 武力67 | 知力36 | 政治26 | 魅力33 |