劉表と言えば、三国志の中でも温和な老人と言うイメージがないでしょうか?
さらに、優柔不断というイメージもあります。
しかし、史実の劉表を見てみると、荒ぶった事もかなりしているわけです。
尚、劉表の容姿に関しては、正史三国志に記録があり身長は8尺あり、外見は整っていたとあります。
身長8尺というのは、張飛や趙雲などとも同じであり、劉備や曹操よりも身長は高い事になります。
劉表の身長は180cmを超えていて、現在でも劉表はかなり身長の高い部類に入るはずです。
身長も高く、今でいうイケメンだったのでしょう。
ただし、己の外見に自信があった為か、風貌が冴えない王粲などは用いませんでした。
尚、劉表の先祖を辿って行くと前漢の景帝の子である劉余となり、血縁は遠くなりますが、皇室とも繋がりがあります。
因みに、幽州刺史となった劉虞や劉曄などは後漢の初代皇帝・光武帝の子と繋がってくる家系となります。
劉備が中山靖王劉勝の子孫だと言うのは、怪しい系図ですが、劉表は本当に皇室と血が繋がっていたのでしょう。
そんな劉表がどの様な荒ぶった行為をしてきたのかが、今回の主題となります。
上記の画像は、横山光輝先生の漫画三国志で、重体になってしまった劉表が劉備に国を譲ると言い出すシーンです。
しかし、正史三国志を見ても、劉表が劉備を後継者にしようと考えたとする記述はありません。
ただし、「劉表は劉備を任用する事が出来なかった」と書かれているわけです。。
尚、三国志演義で劉備に徐州を譲ろうとした陶謙も温和なイメージがありますが、実際にはかなり荒ぶった人物だったと言えるでしょう。
劉表が温和で優柔不断なイメージがある理由
劉表が温和なイメージがあるのは、荊州に赴任して政局が安定したきた時代のイメージが強いからでしょう。
荊州では着実に支配地域を広げては行きましたが、温厚に事を進めたイメージも強いです。
さらに、袁紹に味方し曹操に敗れた劉備を受け入れたり、劉備が曹操を攻撃するように進言した時も採用しなかったのも原因と言えます。
後に、劉備の言葉を聞かなかった事を後悔している辺りも、劉表の優柔不断なイメージが定着する原因でしょう。
劉表には、劉琦(りゅうき)と劉琮(りゅうそう)の二人の息子がいましたが、きちんと後継者を決定せずに死んでしまう辺りも、優柔不断な印象を与えています。
荊州は、他の地域が戦乱で荒れていた時期に、劉表が赴任してから10年ほど掛かりましたが、政局が安定し平和だったのも、温和なイメージを加速しているはずです。
ただし、劉表が荊州にいた時に、ある程度の平和が保たれた事から多くの文化人が集まって来た事も事実です。
その中には、諸葛亮もいました。
この様なイメージが劉表には強くあり、性格的にも温和で、優しい老人だと思っている人が多いようです。
しかし、劉表も乱世を生き抜いてきた人なわけで、温和なイメージは劉表の一面でしかありません。
王暢に意見する
劉表は、王暢(おうちょう)という人物に学問を教わりました。
王暢は、後に南陽太守となりますが、過度に倹約を行ったとあります。
これを見た劉表は、王暢に意見しているわけです。
劉表「中庸というのは、上は身分を侵さないような贅沢さ、下は身分に近くならないような倹約。これを中庸と言うはずです。
これ故に、遽白玉(きょはくぎょく)は自分だけが、君子でいる事を恥じたのです。
孔子の教訓を守らずに、伯夷叔斉の根本を忘れた生き方は、世を捨てた事になりませんか。」
これに対して王暢は、「倹約により国を滅ぼした者は稀である。これにより世の風俗を正すのだ」と反論しています。
日本人の感覚から言えば、倹約というのは美徳だとされる事が多いです。
しかし、それが原因でデフレになったり、経済が回らなくなる事もあるので、自分的には「贅沢をし過ぎずに、質素になり過ぎない様に」という劉表の言い分に共感が持てます。
これを見ると分かりますが、劉表は人に対して、ちゃんと自分の意見を持ち直言出来る人でもあると言う事です。
尚、董卓の場合は15歳にもならない、孫娘の董白にまで領地を与えた記録があります。
董卓のやり方は贅沢のし過ぎになるのでしょう。
15年間の逃亡生活を送る!?
劉表の友人に張倹という人物がいました。
秦末期に、陳余と刎頸の交わりを結んだ事で有名な張耳の子孫で、名士とされる人物です。
張倹は、権力のある宦官・侯覧が法を犯していると奏上しました。
奏上は止められましたが、侯覧は張倹に対して恨みを抱き、謀反を企てていると後漢の霊帝に報告したわけです。
霊帝は、宦官を重用していましたので、張倹を逮捕しようとします。
これに気が付いた張倹は、逃亡してしまいます。
張倹の逃亡を助けたのが、劉表となります。
もちろん、劉表も指名手配の身となってしまい逃亡しました。
これが西暦169年の事です。
184年に張角が黄巾の乱を起こすと、霊帝は反宦官派の人達が黄巾賊に協力する事を恐れて、恩赦を出し許しています。
この時に、劉表も張倹も許されたわけです。
これを考えると、劉表は最長で15年間も逃亡生活を送っていた事になります。
劉表は、八俊とも呼ばれていて有名でしたので、霊帝から直々に捕まえるように命令があったようです。
それを考えれば、劉表はかなりの忍耐の人でもあると思いました。
劉表が黄巾の乱で活躍出来ていないのは、逃亡生活が明けたばかりだと言うのが、大きいのでしょう。
荊州の反乱分子を皆殺しにする
霊帝が崩御した後に、劉表は荊州刺史に任命されています。
反董卓連合が結成された時に、長沙太守の孫堅が荊州刺史の王叡を殺害しており、後任の荊州刺史として劉表が任命されたわけです。
荊州と言えば、曹操が攻めて来て、孫権や劉備による荊州争奪戦が起きるまでは、平和だったイメージがあります。
しかし、現実には劉表が刺史となりやってきた当時は、不穏な動きが多く見受けられた事でしょう。
南陽には袁術がいましたし、後に皇帝を名乗るわけであり、侮れない勢力だったはずです。
他にも、長沙には蘇代(蘇秦の弟とは別人)、華容には貝羽が勢力拡大のために、隙を伺っている状態でした。
この不穏な空気が流れる中で、劉表は荊州をまとめ挙げねばならなくなります。
そんな中、劉表は自分の治めるべき任地に行かずに、まずは荊州北部にある宜城に入っています。
宜城に入った劉表は、蔡瑁、蒯越、蒯良の3人の有力名士を集めて対策を練ったわけです。
蒯良は、「仁義の道を行えば人々は身を寄せて来ましょう」と進言します。
しかし、蒯越が「平和な時は仁愛と道義を第一にする。混乱の時代は策謀を第一とする」と意見します。
さらに、蒯越は「自分は、反乱分子の連中と顔なじみだから呼び寄せる事が出来る」と言ったわけです。
蒯越の策を採用した、劉表は荊州の危険分子たちを一斉に集めて、皆殺しにしてしまいました。
降伏する者に対しては、寛容に扱ったともされていますが、逆らう者は容赦なく殺戮したようです。
そして、皆殺しにされた軍団の兵士は自分が吸収し、勢力を大きくしています。
これにより劉表は、あっという間に荊州の実力者となったわけです。
劉表は監察官でしかない荊州刺史から、軍事権も認められた荊州牧となります。
正史三国志には、劉表は策謀を好み・・という言葉がありますが、乱世で生き延びるための術をちゃんと持っていた事が分かります。
孫堅の死
董卓が長安遷都を行い洛陽を開けると、関東の地では汝南袁氏の袁紹派と袁術派に分かれて戦いました。
劉表は袁紹に与し曹操なども袁紹派として戦っています。
袁術派には孫堅、陶謙、公孫瓚などがいました。
こうした状況の中で名将として名高い孫堅が劉表に対し攻撃を仕掛けています。
これが191年に行われた襄陽の戦いです。
襄陽の戦いでは孫堅に押されまくるも黄祖や呂公の活躍により、孫堅を討ち取り孫堅軍を撤退に追い込んでいます。
袁術派の大将の袁術も匡亭の戦いで曹操に大敗しました。
これにより劉表は危機を脱し荊州の安定に努める事になります。
劉表は皇帝になるつもりだったのか?
劉表ですが、皇帝になろうとか、そうした野望を持っていた可能性があります。
劉表も荊州に来て一段落した直後は、政務に励んでしました。
しかし、献帝が李傕と郭汜がいる長安を脱し、曹操が献帝を奉戴して許昌に入れると態度が変わってきます。
劉表も朝廷から荊州刺史に任命されたにも関わらず、中央政府に職貢と呼ばれる税金を収めなくなったわけです。
この時に鄧義が劉表を諫めますが、聞き入れる事はありませんでした。
さらに、劉表は天子(皇帝)のみが許される天地を祀る儀式を行ったと記録があります。
この時に、韓嵩が諫めるわけですが、劉表は韓嵩に対して反感を持ったと言われています。
他にも、劉表は下記のように孔融から批判をされています。
劉表は横暴な性格で、自分の好き勝手に列侯を誅殺し、勅命を握りつぶす行為を行っています。
中央に収めるべき、職貢は自分の物とし、悪辣な輩を味方にして守りを固めています。
逆賊どのも巣窟の主となっているようです。
孔融がこの様な事を帝に上表した事は、劉表も知っていたようですが、態度は変えなかったようです。
さらに、曹操の軍師ともいえる荀彧は、次のように言っています。
河北を完全に征服して、洛陽を修復したら、長江の中流域を攻略し平定します。
そのうえで、劉表が職貢を収めない事を責めるべきです。
これらの事を考えれば、劉表にも天下統一する野望が全くなかったわけでは無いのでしょう。
むしろ、荊州に赴任した当時は、天下統一の野心があったのかも知れません。
しかし、曹操が袁紹を破り、着実に勢力を広げる中で、天下統一への脱落感もあり、心境の変化があった可能性もあります。
年齢と共に、野心が薄くなってしまったの人なのかも知れません。
ただし、劉表に関して言えば、献帝が李傕らがいる長安から洛陽に移る時に、趙岐を派遣されると劉表は洛陽の修繕を助けた話があります。
それを考えると、劉表は後漢王朝の皇室に対し、全く敬意を示さなかったわけでもないのでしょう。
尚、趙岐が劉表の元に派遣された時に二人で上表し、孫崇を青州刺史に推挙しました。
韓嵩を獄に入れる
官渡の戦いの前に、劉表は袁紹に味方する事を伝えますが、袁紹の為に軍を送る事も無く、曹操の為に援軍を派遣するわけでもなく中立の立場を取っています。
この時に、韓嵩や劉先は曹操に味方するべきだ!と進言しました。
過去に曹操と親交があった王儁も、曹操と結ぶ様に進言しています。
しかし、劉表は決断する事が出来ずに、韓嵩を都に偵察に行くように命じました。
韓嵩は出発する時に、劉表に「自分が都に行き、献帝から官位を賜ってしまえば、劉表様の家臣ではいられなくなってしまう」と言い残しています。
これを劉表は、納得して韓嵩を都に送り出します。
韓嵩は、都に到着すると侍中職をもらい零陵太守に任命されています。
そして、劉表の元に戻って来たわけです。
この時に、周りが讒言をしたのか、劉表の気が変わったのか、劉表の子に仕官を進めたのが、気に障ったのか激怒したわけです。
元々、韓嵩は天子の儀式を劉表が行う事に反対した経緯があり、最初から理由を付けて処罰する気だったのかも知れません。
劉表は、韓嵩を斬ると言い出しますが、蒯良が止めています。
しかし、劉表は気が収まらずに、韓嵩を獄に入れてしまいました。
最初に、劉表に断っておいて、納得した上で都に向かったはずなのに、帰ってきたら裏切り者扱いされてしまう韓嵩も可哀そうな人なのかも知れません。
ただし、韓嵩は劉表から禄を貰っていたはずであり、朝廷からの侍中職を断らなかったのも問題だったのでしょう。
しかし、韓嵩にとってみれば「やるせない気持ち」になった事は確かだと思われます。
尚、韓嵩は獄に繋がれてしまいますが、劉表死後に曹操が南下してくると、曹操によって獄から救出される事になります。
張羨の乱
劉表の優柔不断の象徴とも言える官渡の戦いの時に動かなかったのは、長沙太守の張羨が乱を起こしたからだと考える人もいます。
張羨は桓階に進言により、劉表に反旗を翻しますが、数年経っても張羨を降す事が出来ず、長沙を平定出来たのは張羨が病死した後に、張懌が軍を指揮する様になってからです。
官渡の戦いの時に劉表は袁紹に味方する決定をしましたが、張羨は曹操を支持し曹操を喜ばせました。
それを考えれば、必ずしも劉表が優柔不断であったとは言えない部分もあるのでしょう。
長沙での張羨の乱が終結すると荊州は平和となり学問が盛んになった話があります。
劉表は宋忠や綦毋闓に五経章句を編集させるなどの行いもやっています。
この間に曹操は河北にいる袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚の攻略に掛かります。
曹操は袁紹の子らよりも、先に劉表を制圧する案もありましたが、予想よりも早く袁譚と袁尚が対立した為に、曹操は南下を諦め北方に侵攻しています。
袁譚と袁尚の対立が荊州を平和にしたとも言えるでしょう。
荊州に平和が訪れる
劉表は乱世の中で荊州に平和をもたらす事に成功しましたが、ここから先は文化人になってしまった様な所があります。
蒯良の言葉にあった、平和な時は、仁愛と道義を大事にするに、従っている様にも思えてくるわけです。
ただし、北では曹操が袁氏の制圧に着手し、東の方では孫策が領土を広げたり、孫権が江夏の黄祖を攻撃するなど不穏な動きも多くあったわけです。
それを考えると、完全に平和になっていないのに、仁義の道を始めてしまった所もあるのかも知れません・・。
因みに、北方では袁紹の遺児である袁譚と袁尚が争いますが、劉表は両者を調停する為に袁譚に手紙を出し「袁家の混乱を引き起こした郭図と辛評を斬るべし」とする手紙も送っています。
しかし、袁譚は郭図と辛評を罰する事が出来ず、袁尚との戦いを継続しました。
尚、赤壁の戦い後に劉備軍と戦う事になる荊南四英傑と呼ばれる劉度・趙範・金旋・韓玄らは荊州を支配した劉表が任命したと考える人もいます。
さらに、劉表は配下の頼恭を交州刺史、呉巨を蒼梧太守に任命するなど、荊州だけでではなく南方の交州にまで影響を及ぼそうとした話もあります。
因みに、劉備も劉表を頼っており、劉表は劉備を新野に駐屯させ、博望坡の戦いでは劉備が夏侯惇、于禁、李典などの攻撃を防ぎました。
こうした時期に劉備は司馬徽の元で学んだ徐庶や諸葛亮などを配下に加えています。
劉表の死は予言されていた!?
劉表の最後ですが、曹操が荊州に入る直前に死亡しています。
捜神記(そうじんき)によれば、「8、9年すると衰えが始まり、13年になると一人も残らない」という詩が流行ったと言われています。
詩の意味ですが、劉表が荊州を治める様になり、戦果から逃れることが出来るが、健安の8、9年になると劉表の妻が死に、衰えが始まり、13年になると劉表も含めて皆、亡くなってしまうと予言している詩だったとされています。
建安13年は、西暦に治すと208年となります。
この年に華容のある夫人が、突然大声で「荊州で大事件が起きる」と予言したわけです。
この言葉はすぐに噂になってしまい、民衆を惑わす妖言だとして、役人は夫人を捕らえてしまいます。
1カ月ほど、獄に入れておくと、夫人は「劉表様がお亡くなりになった!」と慟哭を発します。
華容と劉表がいる襄陽はかなり距離があったのですが、役人が早馬を使い襄陽を調べさせると、劉表は死んでいたそうです。
夫人の言動は妖言ではなく、真実だと分かった事で釈放されています。
さらに、夫人は「李立が貴人になる」と予言したそうです。
劉表の後は、劉琮が継ぎますが、曹操に降伏しています。
劉琮が降伏すると、曹操は荊州刺史に李立を任命し、予言はまたもや当たってしまったわけです。
ただし、李立は荊州刺史になった事は確かなようですが、その後、史書からは姿を消していて、行動は分かりません。
尚、208年は劉表が死んだだけではなく、赤壁の戦いがあった年でもあります。
それを考えると、13年になると一人も残らないと言うのは、赤壁の戦いの事を指すのかも知れません。
尚、劉表の長男である劉琦が亡くなったのは、209年のため、厳密に言えば208年に生き残っている人物はいます。
さらに、正史では劉琮も死んでいないので生き残っている人物は確実にいるわけです。
尚、最初の詩で8,9年で衰えるとありますが、劉琦の母親が死んだ年なのかも知れません。
劉表は蔡夫人の子である劉琮か、腹違いの兄である劉琦に跡継ぎにしようか悩んだ結果として、衰えるとなったのではないかと感じています。
これについては、勝手な想像なので、何とも言えない所です・・。
尚、予言者の夫人がこの後、どうなったのかは記録が無くて分かっていません。
劉表の最後
劉表は208年に亡くなっています。
劉表が亡くなる少し前に、江夏太守の黄祖が夏口の戦いで、孫権軍に敗れて死亡しています。
黄祖は甘寧を用いなかったり、禰衡を殺害するなど評判を下げていますが、「江夏に黄祖あり!」とも呼ばれていて劉表は頼りにしていたのでしょう。
黄祖が死んでしまったのは、劉表はかなり、こたえたはずです。
黄祖抜きで江東を拠点とする孫権と、戦わなければならない状態となります。
さらに、北では曹操が大軍を率いて南下してくれる情報が入って来た事でしょう。
これがかなりストレスとなり、劉表は倒れてしまったのかも知れません。
尚、劉表が倒れてしまうと、黄祖の後任として江夏の守備をしていた、劉琦が襄陽に帰ってきて、面会を求めますが、蔡瑁などによって断られています。
蔡瑁などは、劉琦と劉表が会ってしまい、死の直前の劉表が親心から、劉琦に跡目を譲るとか言ってしまうと、劉琮が跡を継げなくなってしまうからでしょう。
劉琦は、劉表に会えない事で涙を流したとされています。
劉表は重体となりますが、曹操は南下してくるわけです。
この時に、劉表は助からないと見て、劉琮、蔡瑁、蒯良、蒯越らの間で議論が行われていて、降伏が決まっていたのでしょう。
劉表は、曹操が正式に南下に動き出した、直後に亡くなってしまったようです。
最後の言葉などについては、分かっていません。
尚、劉表のお墓は、西晋時代の太康年間(280年~289年)に、墓を暴かれてしまったとあります。
この時に、屍となった劉表が出て来たわけですが「生きているかの如くだった」と記録されています。
さらに、一緒に埋葬された香料の匂いが、数十里まで漂ったと書かれていました。
策を好むが優柔不断
今回のお話しで、劉表が温厚な人だというのは、一面に過ぎない事が分かってくれればありがたいなと感じています。
尚、劉表は曹操と袁術が争った時は、曹操に味方しています。
やはり、劉表であっても後に自分で皇帝を名乗ってしまうような、袁術には嫌悪感があったのではないかと考えています。
ちなみに、正史三国志の著者である陳寿は、劉表と袁紹について次のように述べています。
「袁紹と劉表は、威厳に満ちた立派な風貌を持っていて、評判の高い人物であった。しかし、内面は猜疑心が強い」
「策謀を好んだが、優柔不断で決断力がなく、優秀な人材を用いることが出来なかった」
さらに、袁紹の袁譚と袁尚の後継者問題と、劉表の劉琦と劉琮の後継者問題を挙げて、二人が似ていると言ったわけです。
他にも、張繍の配下だった頃に、賈詡(かく)が劉表に会った事があり、次のように評しています。
劉表は、平和な世の中であれば三公になれるような才能を持っている。
戦乱の時代では、変化に対応する事が出来ずに、疑ってばかりで決断を下すことが出来ない。
これでは、何事も成し遂げることは出来ない
賈詡の劉表の評価もかなり的を得ている様な気がします。
尚、当時の荊州には諸葛亮もいましたし、龐統、馬良、徐庶、伊籍、黄忠などの後年には、蜀を支える事になった名臣も多くいたはずです。
それらの人材を劉表は用いる事が出来なかったとの見方も出来ますし、それが残念に感じました。