名前 | 成潘(せいはん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国時代、三国志 |
成潘は李厳の配下として、諸葛亮の第四次北伐で兵站の任務を行った人物です。
正史三国志には一度しか名前が挙がって来ない事で、極めて目立たない存在ですが、確実に存在した人物なのでしょう。
成潘は蜀軍ナンバー2の李厳の下で都軍をしていた記録もあり、それなりの将校であった様に思います。
さらに言えば、漢中から300キロ離れた諸葛亮の蜀軍本隊に、兵糧を輸送していたわけであり、成潘は李厳の下で難しい任務をこなしていたと考えられはずです。
李厳は過去には陸遜にも匹敵すると言われており、馬秦や高勝の乱に対しては、寡兵で大軍を打ち破っています。
それを考えると、狐忠や成潘などは李厳の武を支えた人物だった可能性もあるでしょう。
尚、諸葛亮は北伐において木牛流馬を開発した話があり、成潘が木牛流馬を使って、諸葛亮の本隊に兵站を繋げるべく指揮した事も十分に考えられます。
第四次北伐
第四次北伐では、諸葛亮は第一次北伐と同様に祁山方面に進出しています。
魏では司馬懿を総大将にして、配下の張郃などと共に祁山の救援に向かいました。
この時に諸葛亮は李厳に漢中を任せ、蜀軍本隊に兵糧を届ける役目を任せたわけです。
李厳の下で都軍として働いていたのが、成潘となります。
兵糧の輸送係りと言えば、後方にいて地味に思うかも知れません。
しかし、この時の李厳の役職は驃騎将軍であり、驃騎将軍の上には大将軍に役職しかなく、実質的に李厳は蜀軍ナンバー2とも言える存在です。
この時の李厳や成潘は、漢中から300キロ離れた蜀軍に兵糧を届けるのが仕事でした。
馬車での兵糧の輸送は200キロが限界と言われる中で、300キロ離れた軍隊に兵糧を届けるわけですから、李厳や成潘はかなり難しい任務をこなしていたと言えるでしょう。
諸葛亮への使者となる
諸葛亮の本隊は郭淮を破り、司馬懿の軍と戦うと3000の敵兵を討ち取るなどの成果を挙げています。
ただし、諸葛亮の軍は魏軍に対し、決定的な打撃を与える事が出来ず戦いは膠着しました。
李厳や成潘は兵站を繋げるべく任務をこなしていましたが、天候不順で道が悪路になってしまったのか、蜀軍への補給が困難な状態になってしまいます。
李厳も兵站を繋げるのが不可能だと判断したのか、成潘と狐忠を諸葛亮の元へ派遣し、撤退を進言する事にしました。
正史三国志の李厳伝に下記の記述があります。
「夏から秋に長雨があり兵站を繋げる事が出来なくなった。
李平(李厳)は参軍の狐忠と成潘を諸葛亮の元に派遣し、諸葛亮を呼び戻させた」
上記が正史三国志における成潘の唯一の記録ですが、狐忠と共に成潘が諸葛亮への使者となった事が分かります。
元々、漢中から300キロ離れた蜀軍本隊に兵糧を届けるのは難しいと、諸葛亮も考えていたのか撤退する事にしました。
ここで撤退しただけなら問題なかったのですが、李厳が嘘の上表をするなどの問題があり、庶民に落されています。
李厳の嘘に対して、成潘と共に使者となった狐忠は李厳を諫めた話がありますが、成潘にはその様な記録がありません。
李厳失脚後に成潘がどの様な運命を辿ったのかは不明です。
李厳の子に李豊がおり、李豊に成潘が仕えたのもあり得ない話ではないと感じています。