その他 三国志

馬秦は大規模な反乱を起こした盗賊

2022年4月11日

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名前馬秦(ばしん)
時代後漢末期、三国志
勢力盗賊
年表218年 益州で乱を起こす
コメント軍勢は数万に膨れ上がるも短期間で鎮圧される

馬秦は正史三国志に名前が登場する人物であり、益州で大規模な反乱を起こした人物です。

正史三国志には馬秦が高勝と共に、秭帰で反乱を起こした事が記録されています。

馬秦と高勝が反乱を起こした理由は、記録がなくよく分かっていません。

馬秦が引き起こした反乱は数万に膨れ上がった話もあり、大規模な反乱となります。

ただし、馬秦や高勝が指揮する反乱軍は烏合の衆だったのか、李厳が出陣してくると呆気なく鎮圧されました。

今回は218年に蜀に対して反旗を翻した馬秦を解説します。

 

盗賊の反乱

正史三国志の李厳伝に下記の記述が存在します。

「建安23年(西暦218年)、盗賊の馬秦、高勝らが秭帰で反乱を起こし、人々を駆り集め数万の部隊を糾合して資中県に到達した」

これを見ると馬秦は盗賊だと記述があり、数万の人物を駆り集める事が出来るのは、かなり大規模な盗賊の頭だったのでしょう。

現代の感覚でいえば盗賊は少人数だと思うかも知れませんが、三国志の時代だと張燕や韓暹など万単位の軍を動かせる様な盗賊の頭もいたわけです。

益州では188年に郤倹の政治が悪く、黄巾党を名乗った馬相と趙祇が反旗を翻した事がありました。

この時も馬相と趙祇に加担した者が数万に達したとあり、馬相の乱に匹敵するほどの大規模な反乱を馬秦らが引き起こしたとも言えます。

馬秦と馬相は「馬姓」であり同姓ですが、関係性は分かってはいません。

さらに言えば、黄巾賊には馬元義もいますが、馬相、馬秦、馬元義の関係は不明だと言えます。

馬秦が乱を起こした218年当時ですが、劉備らは法正や黄忠を引き連れて漢中を奪うべく北上していた時代です。

蜀軍の正規軍は漢中方面におり、馬秦らはその隙をついて反乱を引き起こしたとも言えます。

劉備の北上を狙っての反乱であれば、馬秦は戦略家だったとも考えられます。

ただし、馬秦が魏の漢中を守る夏侯淵と連携していた記録はなく、魏と誼を結んだ上で劉備政権に反旗を翻したのかは不明です。

夏侯淵が魏の印綬を蜀の領内でばら撒いていた話しもありません。

 

李厳に鎮圧される

蜀の正規軍が北にいて、不意を衝かれる形になった馬秦の乱に対応したのが李厳です。

李厳は新たに兵を徴兵する事も無く、手持ちの五千の兵で馬秦と高勝の乱の鎮圧に向かいます。

馬秦の軍は数万に膨れ上がっていた話しもあり、数の上では反乱軍が勝っていたはずです。

しかし、李厳は「陸遜にも匹敵する」とも言われた武将であり、馬秦の軍を蹴散らし、反乱を平定する事になります。

馬秦と高勝は用兵が上手くなかったのか、李厳に敗れ反乱は成功しませんでした。

李厳に敗れた馬秦と高勝は斬られ、反乱は完全に平定されたわけです。

漢中を攻め取ろうとした劉備も定軍山の戦いで夏侯淵を破り、漢中を手中に収めました。

これを考えると、218年の馬秦、高勝の乱の時に、李厳はかなり良い仕事をしたとも言えるでしょう。

李厳は後に劉備が夷陵の戦いに敗れ、白帝城で崩御する時に、諸葛亮と共に蜀漢や劉禅、劉永などを託されています。

劉備が李厳を尚書に任命し、諸葛亮と共に後事を託したのは、李厳の馬秦や高勝の乱を鎮圧した手際の良さもあったからでしょう。

ただし、李厳は後に諸葛亮の北伐では、兵站を繋げる事が出来ず、嘘を付いた事で庶民に落されています。

 

 

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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