その他 三国志

韓胤(かんいん)は袁術と呂布の婚姻を纏めるも許で処刑される

2022年4月16日

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名前韓胤(かんいん)
生没年生年不明ー197年
時代後漢末期、三国志
勢力袁術
画像三国志(コーエーテクモゲームス)

韓胤は仲王朝を開いた袁術の使者となり、呂布の所に赴いた人物です。

韓胤は呂布の前で弁舌を振るったのか、呂布と袁術の縁談を纏めました。

これにより、呂布は娘を袁術に嫁がせる事になったわけです。

しかし、陳珪が呂布を説得した事で、呂布は縁談を取りやめ娘を取り返し、韓胤は曹操の元に送られ処刑されています。

尚、韓胤は正史三国志にも名前が登場しており、実在した人物ではありますが、出身地や字などは不明です。

韓胤は三国志演義にも登場し、袁術の使者となりますが変身した呂布により、最後は史実同様に最後を迎えた事になっていました。

因みに、韓胤が纏めた袁術と呂布の縁談のシーンで、登場する呂布の娘の名前は不明ですが、コーエーテクモゲームスの三国無双シリーズに登場する呂玲綺のモデルだとも考えられています。

袁術の配下には似た様な名前で袁胤もいますが、別人なので注意してください。

袁術と呂布の縁談を取りまとめる

袁術は呂布と縁談を結ぶ為に、韓胤を派遣しました。

袁術としてみれば仲王朝を開き皇帝になったはいいが、孫策に背かれるなど周りが敵だらけだったわけです。

こうした中で外交に活路を求め、袁術は呂布と友好を結びたかったのでしょう。

呂布の陣営でも郝萌が呂布を急襲し、呂布は高順の陣営に逃げ込み、最終的に謀反を起こした郝萌に重臣の陳宮が関わっていた事が判明するなど、ゴタゴタしていました。

呂布としても自陣営に不安があり、袁術も周りとの友好を結びたいなどの思惑があったのでしょう。。

これにより韓胤は呂布に袁術が皇帝を名乗った経緯を説明し、呂布も内部に不安があった事で袁術との縁談を承知した様に思います。

呂布は娘を韓胤に渡し、韓胤は娘を袁術の元まで連れて行けば任務達成となり、恩賞に大きく近づいたはずでした。

韓胤の最後

韓胤は袁術がいる寿春まで帰ればよかったのですが、ここで陳珪の思惑が動きます。

陳珪は韓胤が成立させた袁術と呂布の婚姻が、後漢王朝にとって害になると考えました。

呂布が劉備から奪った徐州と袁術がいる揚州が南北に同盟し、強大な勢力になる事を畏れた為です。

この時に、韓胤は帰途の道中にいましたが、陳珪は呂布に次の様に述べています。

陳珪「曹公(曹操)は天子を奉っており、国政を任され輝かしい威光を放っておられます。

曹公は四海の内を征伐しようと考えておられるのです。

呂布将軍は曹公と行動を共にすべきであり、泰山の様な安定を得るべきでしょう。

袁術は皇帝を僭称しており世間からは不義だと言われています。

袁術と婚姻を結ぶのは、積み重ねた卵の様な危険な事態を招くに違いありません」

呂布は過去に袁術に受け入れて貰えなかった事があり、婚姻に関しても仕方なく了承した部分があり、心の中で袁術を恨んでいました。

陳珪の言葉を聞いた呂布は気が変わり、娘を取り戻そうと韓胤に追手を差し向けます。

韓胤は呂布の気が変わったとも知らず、ゆっくりと行軍していたのか追手に捕らえられてしまいました。

呂布は韓胤を捕えると、曹操の元に護送し、曹操は許の市場で韓胤を処刑しています。

呂布の気まぐれにより、呆気なく韓胤は命を落としたとも言えるでしょう。

因みに、呂布は陳登から「無計画で軽々しく人に味方したり離れたりする」と評されています。

それを考えると、韓胤は婚姻を成立させた時点で、急いで袁術の領内まで帰るべきだったとも言えます。

尚、呂布は下邳の戦いで曹操に追い詰められた時に、自ら娘を袁術に届けようとした話があります。

しかし、失敗しており、それなら韓胤が来た時に、陳珪の言葉に惑わされるべきではなかったとも言えるでしょう。

韓胤の能力値

三国志14統率26武力29知力64政治54魅力50

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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