衛旌は広陵の出身であり、臨淮郡淮陰出身の歩隲と若い頃に仲良くなった話があります。
若い頃の衛旌は歩隲と共に瓜を売り、生計を立てていた話があります。
後に衛旌と歩隲は孫権に仕える事になりました。
衛旌は武陵太守をしていた時に、潘濬を疑い孫権に上表を行いますが、逆に衛旌が免官となる事態になっています。
しかし、衛旌は後に復職に成功したのか、尚書にまで昇った話があります。
尚、衛旌は歩隲は若い頃は行動を共にし仲が良かったわけですが、良好な関係が生涯に渡って続いたのかは不明です。
刎頸の交わりを結んだ廉頗と藺相如の様に続いたのか、張耳や陳余の様に壊れてしまったのか、蕭何と曹参の様に不仲になりつつも信頼しあっていたのかは記録がなく分かっていません。
歩隲と瓜を売りながら勉学に励む
衛旌は正史三国志の歩隲伝によれば、乱を避け江東に移住して来た歩隲と、友人になった話があります。
衛旌と歩隲は仲良くなると、二人は瓜を植えて生活費を稼ぎました。
徐州から荊州に移住して来た諸葛亮などは、名士であり晴耕雨読の生活をしていながらも、悠々自適な生活を送っていた印象ですが、衛旌や歩隲は生活に困り、瓜を売り生計を立てていたのでしょう。
衛旌や歩隲は昼間は肉体労働を行い、夜は経書などの勉強に励んだ話があります。
衛旌と歩隲は将来は国に仕えて出世するつもりで勉学を行っていたのでしょう。
この時の衛旌や歩隲が国の要となる人材になるとは思ってもみなかったのか、希望に燃えていたのかは定かではありません。
衛旌と歩隲の性格の違い
衛旌と歩隲は会稽郡で生計を立てようと考えます。
当時の会稽では豪族の焦矯がのさばっており、焦矯の食客達もわがもの顔で歩いていたわけです。
焦矯と歩隲は焦矯を恐れ、焦矯に瓜を献じて誼を通じようと考えました。
衛旌と歩隲は焦矯に商売の邪魔をされたくない事から、下手に出たのでしょう。
この時に焦矯は衛旌らに直ぐに会おうとはせず、会った時は無礼な態度を取ります。
衛旌は焦矯の扱いにひどく腹を立てますが、歩隲が衛旌を宥めた話があります。
焦矯の件を見ると、衛旌の方が歩隲に比べるとプライドが高く、歩隲は時機に応じて適切な対処が出来る様にも見て取る事が出来ます。
別の言い方をすれば、衛旌の方が単純だとも言えるでしょう。
尚、後に衛旌と歩隲は共に呉の孫権に仕える事となります。
因みに、歩隲が呉の太子・孫登に仕事が出来る人材を問われた時に、衛旌の名前も挙げています。
歩隲が孫登に推薦した11名
衛旌が免官となる
219年に呉の孫権は呂蒙や陸遜の策を採用し、関羽討伐を実行しました。
孫権は関羽を処刑する事に成功し、荊州南部は呉の領地となったわけです。
この時に劉備の配下にいた潘濬が、呉の臣下となります。
潘濬は荊州の名士であり、同じく荊州出身の蔣琬は諸葛亮の死後に、政治の中心となり蜀の大将軍になっていたわけです。
荊州繋がりのせいか潘濬の妻は、蔣琬の妹でした。
この時に、武陵郡の太守をしていた衛旌に対し、潘濬との仲を割こうとした者がいた話があります。
衛旌と潘濬の仲を割こうとした者は、衛旌に次の様に述べました。
「潘濬は密かに蔣琬の元に使者を派遣し、連絡を取り合っております。
潘濬は呉を裏切り蜀に身を寄せる為の下準備をしているのです」
衛旌は孫権にこの言葉を上表すると、次の様に述べました。
孫権「承明(潘濬)殿が、その様な事をするはずがない」
孫権は衛旌の言葉を全く信じなかったわけです。
孫権は酒乱のイメージもありますが、夷陵の戦いの前に諸葛瑾が讒言された時も、讒言に取り合わなかった事があり、この手の言葉には耐性があったのでしょう。
孫権は潘濬を信頼しており、衛旌の上表文に封をしたまま潘濬の元に送り、そのまま読ませています。
孫権は衛旌を都に呼び寄せると免官としました。
衛旌がどの様な気持ちで、孫権に手紙を送ったのかは不明ですが、結果として裏目に出たと言えるでしょう。
ただし、歩隲伝の注釈・呉書に衛旌が尚書になった話があります。
それを考えると衛旌は一度は免官となりますが、再び官位を授けられ最終的に尚書まで昇った事が分かります。
潘濬は国や民の為であれば個人的な恨みは気にしないと思える部分が多々あり、国にとって役立つと思えば衛旌を復帰出来る様に取り計らった様に思いました。
他にも、友人で驃騎将軍にまでなった歩隲の助けもあったのかも知れません。