名前 | 諸葛瑾(しょかつきん) 字:子瑜 |
生没年 | 174年-241年 |
勢力 | 後漢末期、三国志、三国時代 |
勢力 | 孫権 |
一族 | 父:諸葛珪 叔父:諸葛玄 弟:諸葛亮、諸葛均 |
子:諸葛恪、諸葛喬、諸葛融 | |
年表 | 222年 江陵の戦い |
229年 大将軍となる | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
諸葛瑾は呉の孫権に仕えた人物で、蜀の丞相を務めた諸葛亮の兄でもあります。
諸葛瑾は外交などを担当した文官としてのイメージが強い気がしますが、呉で大将軍にまでなった実績があります。
大将軍は武官の最高位ですが、諸葛瑾には陸遜や周瑜の様な合戦での派手な戦いはありません。
さらに言えば、慎重な性格もあり軍事では目立った様な活躍は出来ませんでした。
ただし、諸葛瑾は撤退戦には優れており、兵を損なうことなく撤退した記録もあります。
この点は日本で言えば、佐久間信盛と重なる部分デモあります。
孫権は諸葛瑾を非常に信頼したわけですが、諸葛瑾には巧みに説得する話術や人柄を兼ね備えていました。
こうした事情もあり、蜀との関係も考え孫権は諸葛瑾を重用したのでしょう。
尚、諸葛瑾は正史三国志では呉書・張顧諸葛歩伝に下記の人物と共に立伝されています。
張昭 | 顧雍 | 諸葛瑾 | 歩隲 |
諸葛瑾の生い立ち
正史三国志の諸葛瑾伝によると、諸葛瑾は徐州琅邪郡陽都県の出身だとあります。
諸葛瑾の先祖は葛氏であり、元は琅邪郡の諸県に住んでおり、陽都県に引っ越してきました。
陽都県にも葛氏がおり、人々は陽都県の葛氏と諸県から引っ越してきた葛氏を分けて呼び、諸葛瑾の先祖の方を諸葛と呼んだと言います。
正史三国志の注釈・呉書によれば諸葛をそのまま氏とした事で諸葛氏が誕生したとの事です。
ただし、風俗通には別の話があり、先祖の葛嬰は秦の末期に陳勝配下の将軍となり、手柄を挙げますが誅殺された人物だと記載されています。
前漢の文帝が葛嬰の生前の功績を評価し、その孫を諸県侯に封じ氏を「諸葛」としたとあります。
どちらが正しいのかは不明ですが、両方とも元の姓は「葛」で統一されており、元は葛氏だった事は間違いなさそうです。
諸葛瑾は若い頃に洛陽に行き「毛詩」「尚書」「左氏春秋」などの学問を学んだとあります。
174年に諸葛瑾は生まれた事が分かっており、10代の頃に洛陽に留学したのではないかと感じました。
「霊帝の政治」「何進と宦官の戦い」「董卓政権と名士層の反発」などを直で見た可能性もあるはずです。
諸葛瑾の母親が死去すると誠意を以って喪に服し、継母にも慎みを以って仕えたとあり、人間的にはよく出来た人だったのでしょう。
孫権に仕える
諸葛瑾は戦乱を避ける為に江東に避難したとあります。
諸葛瑾が江東に避難した事に関しては、曹操の徐州大虐殺なども関係しているのかも知れません。
この時に、弟の諸葛亮や諸葛均は荊州に向かっており、理由は不明ですが、この時点で諸葛瑾と諸葛亮は別行動をする事になったはずです。
正史三国志の記述だと、この頃に孫策が亡くなり孫権が立ったとあり、西暦200年頃に諸葛瑾は江東に移住したという事なのでしょう。
孫権の姉の婿である曲阿の弘咨が諸葛瑾を高く評価し、孫権に推挙しました。
これにより諸葛瑾は魯粛と共に賓客として遇されたとあります。
魯粛は孫権と面会した時に、帝位を口に出しており高く評価されましたが、張昭には叱責された逸話があります。
しかし、諸葛瑾には、その様な逸話も無く素朴な人柄を評価され、孫権の賓客となったのかも知れません。
諸葛瑾は慎重な性格でもあり、大それたことをいう人物ではなかったのでしょう。
諸葛瑾は後に長史となり、中司馬に転じたとあります。
役職で考えれば諸葛瑾は武官の道を歩んだとも言えます。
劉備への使者
建安20年(215年)に孫権は諸葛瑾を使者として蜀に派遣し、誼を通じさせたとあります。
この頃は劉備が劉璋から益州を奪っており、孫権は貸していた荊州の土地の返還を求めて諸葛瑾を使者にしたと考えられています。
弟の諸葛亮は既に劉備に仕えており、公式の席で諸葛瑾と顔を合わせました。
諸葛瑾と諸葛亮が顔を合わせたのは久しぶりだったはずですが、公の場を退いた後も私的に面会する事はなかったと言います。
諸葛瑾と諸葛亮は兄弟であり、内通を疑われる事を恐れ私的に会う様な事はしなかったのでしょう。
尚、諸葛瑾の交渉は不発だった様であり、劉備は「涼州を取ったら荊州を返還する」と述べました。
これに怒った孫権が呂蒙に荊州の諸郡を取らせ、劉備も公安まで出向き、一瞬触発となりますが、魯粛と関羽の単刀赴会により事なきを得ています。
諸葛瑾の会話術
正史三国志に諸葛瑾の会話術に関しても述べられています。
諸葛瑾伝によると諸葛瑾は、孫権と会見を行ったり諫めたりする場合は、決して強い言葉を用いなかったと言います。
思った事を諸葛瑾は僅かに態度に出し、大体の主張を述べるだけだったとあるわけです。
諸葛瑾は孫権の様子を見て難色を示す様であれば、別の話をしてから、他の話と兼ね合わせて意見を述べ同意を求めたと言います。
孫権配下の張昭が剛直な性格であり、思った事を口にするのに対し、諸葛瑾は空気をよく読んで孫権に意見を述べたという事になるでしょう。
張昭が「剛」の会話をするのであれば、諸葛瑾は「柔」の会話術を行ったとも言えます。
諸葛瑾の会話を聞くと孫権は何度も考えを変えたとあり、巧みな会話術を持っていた事が分かるはずです。
諸葛瑾は張昭とタイプは違えど、孫権を諫める為の武器を持っていました。
朱治を救う
ある時、孫権は朱治に対し強い不満を持ったと言います。
しかし、朱治は孫権の父親である孫堅時代からの臣下であり、孫権も普段は敬っていた事で何も言えずストレスを溜めました。
諸葛瑾は孫権の朱治に対する気持ちを察しましたが、正面から議論を持ち出す事はしなかったと伝わっています。
諸葛瑾は自問自答してみたいと述べ、孫権の前で手紙を書くと広い視野で道理により朱治を責め、その後で自分が朱治の立場となり理由を推察して弁明の手紙を書きました。
これらの手紙を書き終わると、諸葛瑾は孫権に手紙を献上しています。
孫権は諸葛瑾の手紙を見ると笑って喜び、次の様に述べました。
※正史三国志 諸葛瑾伝より
孫権「私は貴方の手紙を読んで納得する事が出来た。
顔回の徳は人々の間に親密な関係を構築させたと聞いているが、貴方が行った様な行為を言うのではなかろうか」
顔回は孔子の一番弟子であり特に優れた者として伝わっています。
諸葛瑾により孫権と朱治は救われたと言えるでしょう。
尚、諸葛瑾伝の記述を見ると殷模も諸葛瑾により救われた事になっています。
劉備への手紙
関羽との戦いにおいて具体的な功績は不明ですが、綏南将軍に任命され、宣城侯に封じられたとあります。
諸葛瑾は関羽征伐において、何かしらの功績があったという事なのでしょう。
呂蒙が亡くなると諸葛瑾は南郡太守になり、公安に家を置きました。
関羽を討った事で呉と蜀の関係に亀裂が走り、孫権は魏の曹丕に臣従し、劉備は東征を行う事になります。
孫権は劉備との講和を望み、劉備の軍が白帝まで到達すると、諸葛瑾は劉備に次の様な手紙を送る事になります。
※正史三国志 諸葛瑾伝より
最近の噂では軍を白帝まで到達させたとの事。
呉王が荊州を討ち関羽を破り恨みと損害により、貴国の群臣らが講和に応じるべきではないと考えているのでしょう。
しかし、講和に反対する意見は小さな事しか見えておらず、大局が見えておりませぬ。
私が陛下の為に事を論じようと考えましたのでお聞きください。
陛下が仮に怒りを解き、私の発言に耳を傾けてくれるならば、将来の見通しは直ぐにでも立ちます。
陛下と関羽との関係が先帝様よりも親しき関係なのでしょうか。
荊州の大きさと中華全土の大きさが同じなのでしょうか。
例え仇討をするにしても魏と呉のどちらを先にすべきかは、道理を考えればすぐに分かる事です。
諸葛瑾は劉備に本当の敵は呉ではなく魏だと述べた事になります。
諸葛瑾としては蜀の高官として弟の諸葛亮がおり、自分の意見なら聞く可能性があると考え劉備に手紙を送ったのでしょう。
しかし、劉備の軍は白帝にまで到達しており、呉を攻める事になります。
尚、裴松之は諸葛瑾の手紙に対し、呉が蜀の攻撃を受けるのは当然であり、諸葛瑾の意味のない様な手紙を正史三国志の本分に載せるのは紙面の無駄だと述べています。
孫権からの信頼
正史三国志の記述
諸葛瑾は諸葛亮との関係を利用して、蜀に対し劉備を説得する為の手紙を個別で送っていました。
中には諸葛瑾と親しき者を劉備の元に派遣したりもしていたわけです。
諸葛瑾を讒言する者がおり「劉備と内通している」と孫権に伝えました。
しかし、孫権は次の様に述べています。
※正史三国志 諸葛瑾伝より
孫権「私と子瑜殿(諸葛瑾)は生死を共にすると約束をしたのである。
子瑜殿が決して私を裏切らないのは、私が子瑜殿を裏切らないのと同じである。
孫権は諸葛瑾は裏切ることがないと太鼓判を押したわけです。
孫権の凄い部分は、自分に対して「裏切らない」と言った人物の大半は裏切ってはいない事です。
この点、諸葛瑾は主君に恵まれたと言えるでしょう。
江表伝の記述
江表伝にも正史三国志と同様に諸葛瑾が讒言された話があります。
諸葛瑾が讒言された話が外部に漏れ、陸遜の知る所となります。
陸遜は孫権に上表し、諸葛瑾には、その様な事実はないと保証し、孫権の方から諸葛瑾を安心させる為の言葉を述べてくれる様にと依頼しました。
孫権は陸遜の上表を受けると、次の様に述べました。
※江表伝より
子瑜(諸葛瑾)は私に長く仕えてくれ、二人の関係は肉親の様なものであり、互いに深く理解しているのである。
諸葛瑾は道理に通じ義の心を持った人物である。
昔、玄徳(劉備)が孔明(諸葛亮)を使者として呉に遣わした時に、私は子瑜に次の様に述べた。
孫権「貴方と孔明は同じ両親から生まれたのであり、弟(諸葛亮)が兄に従うのは当然の事ではないか。
なぜあなたは孔明を呉に仕えさせようとはしないのか。
仮に孔明がここに留まらないというのであれば、儂が玄徳に手紙を書いて了承を求めようと思う。」
しかし、子瑜は私に次の様に述べた。
諸葛瑾「弟の諸葛亮は、その身を人に預けて、礼式の通りに君臣の道を固めたのでございます。
それを考えれば、二心を抱くのは道理に反します。
弟が呉に残らないのは、私が蜀に行かぬのと同じ事なのです」
諸葛瑾のこの言葉は天地神明に誓った言葉であり、讒言などが入る余地はない。
事実無縁の文章を受け取っても、直ぐに封をし諸葛瑾に見せ、私の手紙も添えて子瑜に送り、返信が来れば主君と君主の関係を論じあったのである。
私と子瑜は心で結びついた関係であり、他人の言葉が入る隙は無い。
貴方は私の気持を考え、献上された上表文をそのまま封をして、子瑜に示して貰いたい。
孫権は讒言を受けても「諸葛瑾は絶対に自分を裏切らない」とする自信があったわけです。
江表伝の記述からも諸葛瑾と孫権が高い信頼関係を持っていた事が分かります。
尚、陸遜は諸葛瑾と共に襄陽を攻撃した記録もあり、戦友だったとも考えられ、諸葛瑾を庇いたい気持ちもあったように感じています。
江陵の戦い
劉備が呉を攻撃した夷陵の戦いは、陸遜の火計により呉が勝利しました。
劉備は白帝城まで退きますが、魏の曹丕は三方面から呉へ進撃したわけです。
三方面作戦では魏の曹真や夏侯尚、張郃、徐晃らが荊州の南郡にいる朱然の江陵城を狙いました。
孫権は孫盛を朱然の援軍としますが、曹真の派遣した軍により敗れ江陵城は魏の大軍に包囲される事になります。
こうした中で孫権は諸葛瑾に江陵の救援命令を出し、諸葛瑾は大軍を率いて江陵城に向かいました。
この時に諸葛瑾は計画をしっかりと練った上で行動しており、臨機応変に対処しなかった事で、中々戦果を挙げる事が出来なかったと言います。
孫権は安全策ばかりとり、戦果を挙げる事が出来ない諸葛瑾に対し不満を持ったと記録されています。
しかし、江陵城での活躍は魏、呉ともに疫病が発生したり、潘璋の活躍もあり魏軍は撤退に移りました。
諸葛瑾伝の記述によると、諸葛瑾が浮き橋に攻撃を仕掛け曹長が退いたとあり、諸葛瑾も全く活躍が無かったわけではないのでしょう。
江陵城での戦いで諸葛瑾は華々しい武功は挙げる事が出来ませんでしたが、兵士を損なわずに呉を守り切った事で手柄とされています。
虞翻を庇う
虞翻は関羽討伐戦では、蜀の傅士仁を降伏させるなど活躍しましたが、気が強く孫権ともよく対立していたわけです。
孫権も虞翻に対しては我慢の限界があり、遂には配流となってしまいました。
虞翻が配流が決まった時に、諸葛瑾だけは虞翻の為に何度も取りなしたとあります。
虞翻も諸葛瑾が自分の為に取りなしを行った事を知っており、親しい者には手紙で次の様に述べています。
※正史三国志 諸葛瑾伝より
虞翻「諸葛瑾殿は仁に厚く天の法則を理解し万物を大切にしておられる。
この度は、諸葛瑾殿が庇ってくれた事で、この命を繋げる事が出来た。
私は悪事を重ねては罪は重く不興を買っており、祁氏の老人と同じだけの援助をしてくれた諸葛瑾の助けがあっても、自分には羊舌肸と同じだけの徳がありません。
赦免を望むのは難しい事です」
虞翻は自分と諸葛瑾の関係を羊舌肸と祁奚の関係に結び付けました。
羊舌肸は叔向の名前の方が有名であり、春秋時代に晋の平公に仕えた人物です。
叔向が罪に落ちた時に救ったのが、引退していた祁奚であり、諸葛瑾が祁奚の様な人物だと述べた事になります。
尚、祁奚は仇敵を国家の為に推挙した人物であり、諸葛瑾の人柄も私怨に捉われない人物だと考えたのかも知れません。
孫権と陸遜の見解の違い
正史三国志によると、諸葛瑾の風貌は堂々としていたとあります。
今までの諸葛瑾を見ていると、気遣いの出来る人であり、堂々という言葉は当てはまらない様にも感じますが、正史三国志には「堂々としていた」とはっきりと書かれています。
諸葛瑾は曲がった部分がなく度量も深かった事で、多くの者に敬服され孫権も尊重していたとあります。
孫権も重要案件に関しては、諸葛瑾の意見を聞く事も多かったわけです。
ある時、陸遜の上表があり、孫権は密かに諸葛瑾に意見を述べました。
※正史三国志 諸葛瑾伝より
孫権「近頃、伯言(陸遜)より上表があり、曹丕が亡くなり混乱に苦しんでいる魏の民が、我が軍の軍旗を望見すれば、瓦解するかと思っていたが全く見当違いだった。
聞く所によると、魏では全てにおいて適材適所で官吏が選ばれ刑罰を緩め恩恵を広め税金を安くしたとか。
伯言は曹操の頃よりも今の方が不安が大きいと言っておる。
しかし、私はそうは思わないし、曹操の殺戮は過ちであり、曹操の統率の腕を見るに、曹丕は遥かに劣っていると思う。
曹叡はちっぽけな恩恵を与える事に励んでおり、曹叡は曹丕よりもさらに劣っている様に見える。
これが魏国興隆の兆しだとはとても思えない。
陳羣や曹真を任用してはいるが、そうした人物は文人や学者や皇族や外戚である。
彼らが勇猛な武将を纏め上げるのも難しいだろうし、天下を制するなど夢のまた夢だ。
張耳と陳余は仲が悪かったわけではないが、権力を持つと互いを憎みあった。
陳羣の様な人がまともな道を来れたのは曹操が頭を抑えつけ、曹丕が同じ方法を取り恩を感じさせることが出来たからである。
しかし、今の曹叡は若輩であり人のいいなりになる。
こうなると陳羣らは派閥を形成し、それぞれが自分達の利益を計る様になるだろう。
皆が利益を求めて争い、年若い君主は制御する事が出来ない。
強者は弱者から奪い、弱者は別の所に応援要請するはずだ。
これこそが滅亡への道へと繋がるのだと思う。
子瑜殿にはよく聴いておいて欲しい。
伯言は物事の判断に優れているが、おそらくこの事に関しては判断を誤ったのである」
魏では曹操、曹丕、曹叡と君主の座をバトンタッチしていきましたが、陸遜は曹叡の時代になって、さらに手ごわくなったとしているのに、曹操は魏は滅亡に向かっていると言ったわけです。
ここでの孫権は魏の崩壊まで予想していますが、実際には曹叡はよく国を治めたと言えるでしょう。
裴松之も孫権の言葉には何の実証もなく、陳寿が諸葛瑾伝にわざわざ入れたのは、主君が幼いと国内が疑心暗鬼に陥り、混乱と滅亡がやって来る事があると感じていたからだとしました。
裴松之は孫権の言葉は曹叡には当てはまらなかったが、斉王(曹芳)には当てはまったとしています。
実際に曹芳の時代に曹爽と司馬懿の派閥対立により、曹氏は権力を司馬氏に奪われました。
尚、個人的には陸遜が曹叡は「さらに手ごわい」と言ったのは、本心ではなく「敵を舐めて掛からない様に」とする気持ちも表れではないかと感じています。
上記の話は諸葛瑾伝に記載があるわけですが、諸葛瑾が孫権の発言に対し、どの様な返しをしたのかは書かれておらず不明です。
大将軍
孫権が229年に皇帝となるや諸葛瑾は、大将軍及び左都護に任じられ豫州牧になったと記録されています。
豫州は呉の領域ではない事から任地に行く事は出来ませんが、諸葛瑾は大将軍になっており、呉の将軍の中でも最高位になったと言えるでしょう。
既に弟の諸葛亮は蜀の丞相をしており、魏では諸葛誕が高位に昇っており、諸葛瑾の大将軍と合わせて諸葛氏が天下で最も出世した時代に突入しました。
ただし、諸葛瑾は大将軍になったと言っても、決して華々しい軍功があったからだとは言えません。
諸葛瑾が大将軍になってのは呉の名士の代表格であり、軍人経験者だったからこそ大将軍になれた部分はある様に感じました。
呂壱事件
孫権は最終的に呂壱を誅殺しますが、この時の孫権は詔を出し、諸葛瑾には遠慮なく自分を諫める様に述べています。
諸葛瑾は孫権の詔が下されると、直ぐに具体的な事例を挙げて孫権を諫めたとあります。
この時の諸葛瑾は道理が通った発言だったと記録されています。
諸葛瑾の最後
諸葛瑾は赤烏四年(241年)に最後を迎えたとあります。
この時に諸葛瑾は68歳だったと伝わっています。
既に弟の諸葛亮は死去しており、諸葛亮の養子に出した次男の諸葛喬も死去していました。
諸葛瑾は遺言で白木の棺に普段着のままで埋葬する様に命じ、葬儀も簡略にするようにと命じています。
尚、諸葛瑾が亡くなった241年には、孫権の長男である孫登も亡くなっており、孫呉にとっては損害が大きな年だったと言えるでしょう。
諸葛瑾が生きていれば、上手く孫権を諫め二宮の変も起きなかったのではないか?と考える人もいます。
諸葛瑾は亡くなりますが、呉では諸葛恪が侯となっていた事で、諸葛融が父の爵位を継ぎ公安に駐屯したとあります。
諸葛瑾の子孫
諸葛瑾の長子である諸葛恪は頭の回転が速く、名声もあり呉では名の通った存在でした。
孫権も諸葛恪の非凡な才能を高く買っていましたが、諸葛瑾は諸葛恪を嫌っていたとあります。
諸葛瑾の様な気の遣える人間からしてみれば、頭の回転だけが速い諸葛恪は諸葛氏を断絶させるとさえ考えていたのでしょう。
諸葛瑾は呉の人々が諸葛恪を高く評価する中で「家を保っていけない不祥の息子」と評していた話しが残っています。
諸葛瑾の予想は的中し、孫権は諸葛恪に孫亮を支えて行く様に遺言しますが、諸葛恪は第五次合肥の戦いで張特に敗れるなどもあり、信望を失い最終的には孫峻に暗殺されています。
諸葛恪が亡くなると、諸葛融も兵士に囲まれ毒薬を飲み三人の息子と共に誅殺されました。
これで諸葛瑾の直系が絶えてしまったかの様に思うかも知れませんが、蜀の諸葛亮の養子に行った次男の諸葛喬の家系が諸葛攀、諸葛顕と続く事になります。