三国志 後漢

程普は呉の宿将

2023年8月6日

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宮下悠史

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名前程普(ていふ) 字:徳謀
生没年不明
勢力孫堅孫策孫権
時代後漢末期、三国志
年表184年 黄巾の乱
191年 陽人の戦い
208年 赤壁の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

程普は正史三国志に登場する人物で、呉の宿将として名を馳せた人物です。

程普は孫堅孫策孫権と孫家三代に仕えました。

程普は主に揚州で活用した事から南方の人に思うかも知れませんが、程普の出身地は幽州右北平郡土垠県であり、中華の最北端となります。

黄蓋韓当、祖茂と共に程普は、孫堅四天王に数えられる事もありますが、孫堅時代の活躍は不明な部分が多いです。

それでも、孫堅四天王の中では程普が最も出世したと言えるでしょう。

黄蓋や韓当などは武勇に優れた者というイメージがある人が多いかと思いますが、程普は能力的に知勇兼備だと考える人も多い様に感じています。

程普は周瑜と共に、赤壁の戦いで左右の都督を任せられるなど、呉の重鎮として活躍する事になります。

今回は孫氏三代に仕えた宿将である程普を解説します。

尚、程普は正史三国志では、呉書の程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝に下記の人物と共に収録されています。

程普黄蓋韓当蒋欽
周泰陳武董襲甘寧
淩統徐盛潘璋丁奉

孫堅に仕える

正史三国志によると、程普は立派な容貌を兼ね備えており、将来のビジョンもはっきりとしいて、人とも巧みに接したとあります。

この記述を見るに、程普は世間でいうよく出来た人だったのでしょう。

程普は北方の幽州で役人をしていた様ですが、何故か孫堅に仕える事になります。

程普が孫堅に仕えた詳しい経緯などは分かっていません。

しかし、正史三国志の記録だと黄巾の乱の時には、程普は孫堅配下となっていた様です。

それでも、黄巾の乱から孫堅に仕えている事から、程普は最古参とも呼べる武将だった事は間違いないでしょう。

張角の黄巾の乱では孫堅は朱儁の配下として動いており、孫堅配下の一部隊として程普がいたのでしょう。

朱儁は黄巾の乱では波才彭脱張曼成孫夏らの黄巾賊を打ち破っていますが、程普の活躍もあったはずです。

正史三国志にも程普が宛や鄧の地で黄巾賊を討伐したとする記述があります。

董卓との戦い

黄巾の乱は鎮圧されますが、霊帝が亡くなり何進宦官に暗殺され、少帝を保護した董卓が実権を握りました。

袁紹曹操臧洪らで反董卓連合を結成すると、孫堅袁術の配下として連合に加わる事になります。

董卓配下の胡軫と孫堅の間で陽人の戦いが勃発しますが、この時に程普も孫堅配下として陽人の戦いに参戦しました。

程普の陽人の戦いでの具体的な描写はありませんが、正史三国志の程普伝に「董卓を打ち破った」とする記述があり、何かしらの功績があった様に感じています。

三国志演義では汜水関の戦いが行われ、程普が胡軫を斬るなどの描写がありますが、正史三国志にはない記述です。

史実の胡軫は反董卓連合との戦いでは命を落としてはいません。

正史三国志の陽人の戦いで胡軫が敗れたのは、味方の呂布が偽の情報を胡軫に流したからとなります。

さらに、三国志演義では袁紹配下の顔良文醜と孫堅配下の程普、黄蓋韓当でにらみ合うなどのシーンもありますが、これも史実ではありません。

後に孫堅は劉表を攻めますが、黄祖により命を落とす事になります。

孫策に仕える

孫堅が亡くなると、孫策袁術の配下となります。

旧孫堅軍は袁術の勢力に吸収されました。

この時に、程普も袁術に仕える事になったのでしょう。

しかし、孫策は袁術の下にいる事を善とせず、江東を平定に乗り出す事になります。

孫策の江東平定戦には、最初は呂範や朱治などしかいませんでしたが、周瑜周泰呂蒙の様に武に優れた者や、張昭や張紘などの名士も集まり、この軍の中に程普もいたわけです。

程普は孫策に元に馳せ参じ、仕える事になります。

孫堅の維持である孫策の江東平定戦では、多くの者が集まり程普も胸を躍らせた事でしょう。

江東平定戦

程普は孫策に従い淮南に行き、その指揮下で廬江を陥落させたとあります。

さらに、程普は休むことなく孫策と共に長江を渡り、江東を目指しました。

孫策は横江、当利まで来ると、劉繇を盟主とする張英や于糜を破り秣陵・湖熟・句容・曲阿などを次々と陥落させましたが、程普はこれらの戦いで功績があったと記されています。

孫策は程普の功績を認め兵二千と騎馬五十匹を任せました。

程普は孫策に従い烏程・石木・波門・陵伝・余杭を打ち破りますが、この時も程普の功績が大きかったと伝わっています。

孫策は会稽郡に手中に収めると、程普を呉郡の都尉としました。

呉郡は孫家の拠点になる地でもあり、孫策が程普を呉郡都尉とするのは、信頼の証とも言えるでしょう。

程普は銭唐に役所を設置し、統治に当たる事になります。

後に程普は丹陽の都尉に転任し石城に住みました。

さらに、程普は軍を率いて宣城・涇・安呉・陵陽・春穀などの孫策に従わない勢力を討伐し、全てを打ち破る事になります。

具体的な戦いでの描写は不明ですが、程普は多くの戦いに参加し全て手柄を挙げ出世に繋げたことだけは間違いないでしょう。

孫策を救う活躍

197年に袁術が皇帝を名乗ると、孫策とは対立関係となります。

袁術は祖郎に印綬を渡し、孫策と祖郎の戦いとなりました。

祖郎は過去に孫策を完膚なきまでに破った相手であり、非常に手ごわかったわけです。

小覇王と呼ばれた孫策も祖郎とは相性が悪かったのか、敵兵に囲まれてしまいました。

窮地の孫策を程普が駆け付け、もう一人の騎兵と共に、孫策を庇う動きを見せます。

さらに、程普は馬を掛け大声で叫び矛を持つと、敵陣に突撃を仕掛けました。

程普の気迫に敵は道を譲ってしまい、孫策は程普の後を追った事で窮地を脱出する事になります。

孫策は宿敵の祖郎に勝利し、後に程普を盪寇中郎将、零陵太守としました。

程普の活躍が無ければ、祖郎との戦いで孫策は命を落としていたのかも知れません。

袁術が病死すると旧袁術軍の袁胤らは劉勲の元に身を寄せています。

孫策は策を立て劉勲を北方に駆逐し、さらには江夏太守の黄祖と沙羨で戦闘になります。

沙羨の戦いが終わると程普は石城に駐屯したとあります。

これを見ると分かる様に、程普は孫策時代のほぼ全ての戦闘に参加したと言ってもよい位です。

しかし、孫策は西暦200年に許貢の食客により、この世を去りました。

各地を転戦

孫策は亡くなりますが、程普は引き続き孫権に仕えました。

孫策は一代のカリスマであり、孫策が突然亡くなってしまうと呉は崩壊に向かうかに思われましたが、周瑜張昭、程普が率先して孫権を立てた事で安定を取り戻す事になります。

程普は孫権を盛り立て会稽、呉、丹陽などの反乱分子を鎮圧し、各地を平定したとあります。

さらに、孫権の黄祖討伐にも参加しました。

黄祖討伐から帰還する途上の豫章郡で、程普は別行動を取り、楽安を討伐しています。

楽安討伐が終わると程普は、海昏に行き太史慈の代わりに指揮を執ったと言います。

楽安県の長は韓当が就任しました。

海昏は劉表配下で武勇が優れたと言われる劉磐が太史慈と対峙した話があり、程普は太史慈に代わり劉磐と対峙する事になったのでしょう。

尚、劉表は劉磐の下に黄忠を配置し長沙の攸県を守らせた話もあり、程普は後に劉備の元で大活躍する黄忠と対峙する事になった可能性もあるはずです。

孫権の時代になっても程普は戦い続け変わらずに、重用されたと言えるでしょう。

赤壁の戦い

曹操との赤壁の戦いでは、程普は周瑜と共に左右の都督となりました。

程普や周瑜は黄蓋の活躍もあり、烏林で勝利しています。

曹操は曹仁に江陵を任せて北方に撤退しますが、程普らは江陵を包囲しました。

江陵の戦いでは曹仁の堅守もあり、1年を超える戦いをしましたが程普、周瑜、呂蒙甘寧らの活躍もあり、呉軍が勝利しています。

程普は赤壁の戦い及び、江陵城の戦いの功績が認められ江夏太守及び、裨将軍の官を授かる事になります。

程普は江夏太守となるや沙羨に役所を設置しました。

因みに、魏の江夏太守は文聘であり手強い相手でもあります。

功績が認められ、四県の食邑が程普に与えられる事になります。

尚、赤壁の戦いで同じく都督となった周瑜と程普は最初は仲がよくありませんでした。

しかし、程普は周瑜への蟠りを解き「周公瑾といると芳醇な美酒を飲んでいるようだ」と述べ、周瑜の能力を認めた話しがあります。

周瑜に対する態度を見ても、程普は豪快な性格をしていたのでしょう。

程公と呼ばれる

程普は孫堅の時代から孫家に仕えており、武将たちの中でも最年長だったとあります。

程普は気前がよい性格であり、他人に援助する事を惜しまず、士人たちとの交わりを好んだとあります。

こうした事もあり、程普は「程公」と呼ばれました。

皆が親しみを込めて最古参の臣下である程普を「程公」と呼んだのでしょう。

周瑜が亡くなると、周瑜は魯粛を後任に推挙しました。

しかし、孫権は周瑜が務めた南郡太守を魯粛ではなく程普としています。

程普は南郡太守となりますが、魯粛の戦略もあり孫権は劉備に荊州を貸し与えました。

そうした事から程普は再び江夏太守に戻る事になります。

程普は盪寇将軍に任じられました。

程普の最後

正史三国志には「程普は盪寇将軍に昇進した後に死去した」とあります。

しかし、正史三国志の注釈の呉書には、幾分か詳しく程普に最後が書かれています。

呉書によると、程普は叛逆者を数百人処刑する時に、自ら火の中に身を投げさせたとあります。

呉書の記述が本当であれば、程普の倫理観が崩壊している様にも見れるわけです。

一種の残虐とも言える事件を程普が起こした、その日に程普は「らい病」の症状が現れたと言います。

らい病は現在でいう所のハンセン病であり、日本で言えば大谷吉継などが掛かった事でも有名です。

呉書によれば程普は病気になってから100日位で最後を迎えたとあります。

ある意味祟られたような記述を呉書では書かれているわけです。

呉書に書かれている記述が本当であれば、残念な亡くなり方をしたとも言えるでしょう。

尚、正史三国志の孫静伝に程普に代わり孫皎が夏口の総指揮になったとする記述があります。

孫皎が夏口を任された後に、孫瑜が亡くなった(西暦215年)の記述がある事から、程普の死はそれよりも前ではないか?とも考えられています。

程普と孫皎が夏口の守備を交代したのは、程普は最年長であり体力的にもきつく激務に耐えられるかの不安もあり、孫権は孫皎に変えたのかも知れません。

孫権は229年に皇帝となりますが、程昱の生前の功績を評価し、子の程咨を亭候に封じました。

程普の評価

陳寿は程普の伝が収録された程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝の最後に「この伝に収録した者は江南の武勇の優れし者たちだ」と評価しました。

他にも、歩隲が孫権の皇太子である孫登に送った手紙の中で、荊州の優れた人材として諸葛瑾陸遜、朱然、裴玄らと共に、程普の名前を挙げています。

これらを見ても当時の呉で代表する優れた能力の持ち主が、程普だと認識されていた事が分かります。

程普の最後がイマイチに感じるかも知れませんが、戦いというのは決して綺麗ごとではなく、時には見せしめも必要であり、程普の最後の行動に及んだ様にも感じています。

呉の群臣から最長老で程公と呼ばれた程普を見ていると、暗さは見えない様な気がしました。

余談ですが、歩隲が孫登に立派な人物として推挙したのは下記の11名となります。

諸葛瑾陸遜朱然程普潘濬裴玄
夏侯承衛旌李粛周条石幹 

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