名前 | 呂岐 |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
コメント | 短気な人 |
呂岐は正史三国志に登場する人物です。
ただし、呂岐は陳寿が書いた正史三国志の本文には登場せず、あくまで登場するのは袁渙伝の注釈・魏書となります。
魏書によれば呂岐は友人の朱淵と爰津を、それぞれの祭酒に任命しようとしました。
しかし、朱淵と爰津は任命を受けずに家に帰ってしまい、激怒した呂岐は朱淵、爰津を殺害した話があります。
これを見ると、呂岐は短気な人物で処刑されても当然な気もしますが、袁渙により弾劾される事はありませんでした。
三国志で短気な人物と言えば、孫策や張飛を思い起こす人もいるかも知れませんが、呂岐もマイナーな人物ではありますが、かなり短気な人物だと言えます。
今回は正史三国志の注釈・魏書に登場する呂岐を紹介します。
友人を祭酒に任命
魏書の呂岐に関してですが、次の記述が存在します。
※袁渙伝 魏書の記述
呂岐は朱淵や爰津と親しかった。
上記の記述から、呂岐と朱淵、爰津は友人の関係であり、仲が良かったとみる事が出来ます。
呂岐は穀熟県長をしており、朱淵、爰津は留学先にいました。
呂岐は朱淵、爰津の為を思ったのか、留学先に手紙を送り、会見をした話があります。
この会見で呂岐は何らかの手ごたえを感じたのか、朱淵を師友祭酒に任命し、爰津を決疑祭酒に任命しました。
呂岐は朱淵と爰津が任命を無二の返事で、受け手くれると思っていたのかも知れませんが、朱淵と爰津は家に帰ってしまい、そのまま任命を受けなかったわけです。
呂岐が激怒
朱淵と爰津の行動に対し呂岐は激怒し、官吏や民衆を率いて逮捕しました。
この時の呂岐は期待が多すぎたのか、怒りを抑える事が出来ず、朱淵と爰津を逮捕してしまったわけです。
朱淵と爰津を逮捕しても、呂岐の怒りは収まらず枝を持ち殴り殺しています。
これを考えると呂岐はかなりの短気な人物であり、怒ると自制が効かなくなる人でもあったのかも知れません。
現代人の感覚で言えば異常とも取れます。
朱淵と爰津などは表面上は仲良くしていましたが、呂岐のこうした性格を嫌っていた可能性もある様に感じました。
呂岐の行動に対し世間では「やりすぎた」とする声が高まります。
世間の声は当然と言えば、当然の声だとも言えます。
呂岐自身もやってしまった後に、後悔した可能性もあるはずです。
弾劾されず
呂岐は祭酒の任命を断わられただけで、朱淵と爰津を殺害したわけであり、呂岐に避難が集まる事になります。
主簿の孫徽なども春秋左氏伝の孔子の言葉を例に出すなどし、呂岐はやり過ぎの越権行為だと主張しました。
この時点では呂岐は弾劾される可能性があったわけです。
しかし、袁渙が呂岐の罪を問う前に、朱淵、爰津がどの様な理由で任官を拒否したのか?の理由について問いただすのが先だと述べます。
さらに、袁渙は孫徽に対し「呂岐を弾劾しないように」と説きました。
これにより呂岐は弾劾されずに済んだわけです。
袁渙は呂岐を庇った様にも見えますが、実際の袁渙はかなり公正な人物であり、呂岐を庇ったわけではなく、自分の考えている事をそのまま孫徽に伝えたのでしょう。
孫徽の方でも呂岐の弾劾をしなかった事で、呂岐は事なきを得ました。
ここでは処罰されなかった呂岐ですが、この後はどうなったのかは記録がなく分かっていません。
個人的には朱淵、爰津の行為はやり過ぎであり、民衆などの非難もあったはずであり、穀熟の県長の位には居づらい環境にあった様に思います。