三国志 魏(三国志)

呂岐(りょき)は異常な程に短気だった

2022年6月12日

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宮下悠史

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名前呂岐
生没年不明
時代後漢末期、三国志
コメント短気な人

呂岐は正史三国志に登場する人物です。

ただし、呂岐は陳寿が書いた正史三国志の本文には登場せず、あくまで登場するのは袁渙伝の注釈・魏書となります。

魏書によれば呂岐は友人の朱淵爰津を、それぞれの祭酒に任命しようとしました。

しかし、朱淵と爰津は任命を受けずに家に帰ってしまい、激怒した呂岐は朱淵、爰津を殺害した話があります。

これを見ると、呂岐は短気な人物で処刑されても当然な気もしますが、袁渙により弾劾される事はありませんでした。

三国志で短気な人物と言えば、孫策張飛を思い起こす人もいるかも知れませんが、呂岐もマイナーな人物ではありますが、かなり短気な人物だと言えます。

今回は正史三国志の注釈・魏書に登場する呂岐を紹介します。

友人を祭酒に任命

魏書の呂岐に関してですが、次の記述が存在します。

※袁渙伝 魏書の記述

呂岐は朱淵や爰津と親しかった。

上記の記述から、呂岐と朱淵、爰津は友人の関係であり、仲が良かったとみる事が出来ます。

呂岐は穀熟県長をしており、朱淵、爰津は留学先にいました。

呂岐は朱淵、爰津の為を思ったのか、留学先に手紙を送り、会見をした話があります。

この会見で呂岐は何らかの手ごたえを感じたのか、朱淵を師友祭酒に任命し、爰津を決疑祭酒に任命しました。

呂岐は朱淵と爰津が任命を無二の返事で、受け手くれると思っていたのかも知れませんが、朱淵と爰津は家に帰ってしまい、そのまま任命を受けなかったわけです。

呂岐が激怒

朱淵と爰津の行動に対し呂岐は激怒し、官吏や民衆を率いて逮捕しました。

この時の呂岐は期待が多すぎたのか、怒りを抑える事が出来ず、朱淵と爰津を逮捕してしまったわけです。

朱淵と爰津を逮捕しても、呂岐の怒りは収まらず枝を持ち殴り殺しています。

これを考えると呂岐はかなりの短気な人物であり、怒ると自制が効かなくなる人でもあったのかも知れません。

現代人の感覚で言えば異常とも取れます。

朱淵と爰津などは表面上は仲良くしていましたが、呂岐のこうした性格を嫌っていた可能性もある様に感じました。

呂岐の行動に対し世間では「やりすぎた」とする声が高まります。

世間の声は当然と言えば、当然の声だとも言えます。

呂岐自身もやってしまった後に、後悔した可能性もあるはずです。

弾劾されず

呂岐は祭酒の任命を断わられただけで、朱淵と爰津を殺害したわけであり、呂岐に避難が集まる事になります。

主簿の孫徽なども春秋左氏伝の孔子の言葉を例に出すなどし、呂岐はやり過ぎの越権行為だと主張しました。

この時点では呂岐は弾劾される可能性があったわけです。

しかし、袁渙が呂岐の罪を問う前に、朱淵、爰津がどの様な理由で任官を拒否したのか?の理由について問いただすのが先だと述べます。

さらに、袁渙は孫徽に対し「呂岐を弾劾しないように」と説きました。

これにより呂岐は弾劾されずに済んだわけです。

袁渙は呂岐を庇った様にも見えますが、実際の袁渙はかなり公正な人物であり、呂岐を庇ったわけではなく、自分の考えている事をそのまま孫徽に伝えたのでしょう。

孫徽の方でも呂岐の弾劾をしなかった事で、呂岐は事なきを得ました。

ここでは処罰されなかった呂岐ですが、この後はどうなったのかは記録がなく分かっていません。

個人的には朱淵、爰津の行為はやり過ぎであり、民衆などの非難もあったはずであり、穀熟の県長の位には居づらい環境にあった様に思います。

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