孫策(そんさく)の字は伯符であり、小覇王と呼ばれ呉の礎を築いた人物です。
孫策は短期間で勢力を拡大し、軍隊を指揮する能力であれば、三国志でもトップクラスだと言えます。
正史三国志では一騎打ちは滅多に見られませんが、孫策と太史慈の一騎打ちは正史にも記載があります。
それを考えると、孫策は軍隊指揮能力だけではなく、強靭な肉体を持っていた事も明らかでしょう。
孫策の性格は剛胆で大胆不敵な面も見られますが、最後は性格ゆえに招いたとも言えます。
孫策は26歳という若さで亡くなりますが、小覇王の名に相応しい活躍だった様に思います。
尚、小覇王の名前の由来は劉邦と天下を争った項羽から来ています。
項羽は覇王と呼ばれていましたが、孫策も項羽に匹敵するだけの武勇を以っている事から、小覇王と呼ばれる様になったわけです。
因みに、水滸伝にも小覇王・周通なる人物が登場しますが、指揮能力においては項羽や孫策にかなり劣っている様に見受けられます。
周瑜と出会う
霊帝が亡くなり、董卓が実権を握ると反董卓連合が結成されます。
孫策の父親である孫堅は、反董卓連合に加わりますが、孫策は母親を連れて寿春に移り住む事になります。
当時の孫策は年齢は10代でしたが、多くの名のある人物と交わり評判が極めて高かったわけです。
揚州廬江郡舒県にいた周瑜は、孫策に興味を持ち会いに行きます。
周瑜と孫策は意気投合し、お互いを認め合う事になります。
江表伝によれば、周瑜は孫策に自分の実家がある舒県に住むように勧めています。
周瑜は孫策を認め自分の一族を説得し、舒県に孫策を住まわせる事にしたのでしょう。
孫堅の名が鳴り響いていた事もあり、周瑜の家にとっても孫策を養う意味はあったとも考えられます。
周瑜の家では孫策を好待遇で迎えいれ、大きな屋敷を与えて住まわせた話があります。
孫策と周瑜は固い結束で結ばれ、金属をも断ち切れるほどの強い関係だったと伝わっています。
孫策と周瑜の関係は「断金の交わり」とも呼ばれています。
孫策が青年時代に天才戦略家でもある、周瑜と出会えたのは幸運だと言えるでしょう。
陸康を嫌う
孫策は廬江郡の太守である陸康に挨拶に行きます。
しかし、陸康は孫策に会おうともせず、主簿に対応させただけでした。
これにより孫策は陸康をかなり嫌った話があります。
過去に孫策の父親である孫堅は、陸康の一族を越権行為までして救った事があったわけです。
孫家に対して恩があるはずの、陸康が孫策を冷遇したのは、孫策にとっては許せなかったのでしょう。
陸氏は名士であり、陸康は家格が低い孫策を軽く見たのかも知れません。
しかし、人生とは不思議なものであり、後に孫策の娘は陸康の一族である陸遜に嫁ぐ事になります。
陸遜は呉の大都督となり、西暦222年の夷陵の戦いで劉備を破るなど、孫策が基盤を作った呉の救う英雄となります。
孫堅の死
董卓は洛陽を廃墟とし、献帝を連れて長安に遷都すると反董卓連合は瓦解します。
袁紹には曹操や劉表が味方し、袁術には公孫瓚、陶謙、孫堅が味方しています。
孫策の父親である孫堅は袁術の命令で、荊州の劉表を攻撃します。
孫堅は劉表配下の黄祖を倒すなど圧倒しますが、不慮の死を遂げる事になります。
孫堅は勇猛果敢であり不用意にしていた所を、急襲されて死を迎えたわけです。
孫堅の勢力は孫堅の武名が大きかった部分もあり、孫堅の死により解体に向かいます。
孫堅の勢力は孫堅の兄の子である、孫賁に引き継がれますが、結局は袁術の勢力に吸収されたわけです。
孫策は年齢が10代半ばと若かった事もあり、孫堅の軍勢を引き継ぐ事が出来なかった事情もあるとされています。
因みに、孫堅の遺体は孫堅に恩があった桓階が劉表を説得し引き取っています。
孫堅の遺体は曲阿で供養した話があります。
孫策は父親の持っていた爵位などは全て弟の孫権に譲りました。
孫策が徐州に移る
孫策が徐州にいた頃のお話です。
陶謙に嫌われる
孫堅が亡くなった事で、孫家の影響力は急激に低下しました。
周家の方でも、孫家を養う意味がなくなったのか、孫策は徐州の広陵郡に居を移す事になります。
当時の徐州は陶謙が治めていましたが、何故か陶謙は孫策の事を嫌っていた様です。
陶謙が孫策を嫌う理由は不明ですが、陶謙が嫌っていた人物と孫策が親しくしていたなどの説はあります。
尚、陶謙は後の呉の重臣となる張昭も嫌い、陶謙が張昭を投獄した話もあります。
後に張昭は孫策に迎え入れられて参謀となりますが、お互いに陶謙に嫌われていた事も二人を親密にさせたのかも知れません。
張紘の元を訪ねる
呉暦によると、この頃に孫策は張紘の元を何度も訪ねた話があります。
孫策は張紘に、父親の孫堅が袁氏と協力して董卓を討ったが、不慮の事故で命を落とした事を述べています。
さらに、父親の仇を討ちたいと願っている事や、朝廷の外の守りに当たりたいと考えているなどを話したわけです。
張紘は最初は乗り気でなく、喪に服している事などを理由に助言を断わります。
しかし、孫策は涙を流し熱意を以って、張紘を説得しました。
張紘は孫策の熱意に打たれ、春秋五覇と呼ばれた斉の桓公や晋の文公を例に出し、覇業を述べたわけです。
さらに、張紘は自分も時が来れば、孫策の配下になるとまで言います。
孫策も張紘と漢王朝を輔弼する志が同じであった事から張紘を信頼し、家族を張紘に預けた話があります。
後に孫策が兵を挙げると、張紘も孫策の元を訪ねて配下となります。
最前線に立ちたがる孫策を度々「総大将たる者が前線に立つべきではない。」と諫めたのが張紘です。
孫堅が前線に立ち討死しているのに対し、孫策が戦場で死ななかったのは、張紘のお陰なのかも知れません。
呂範が拷問を受ける
孫策が徐州に行ったのは、江都にいた母親の呉夫人を連れ出す為だったとする話もあります。
孫策は呂範を連れて、江都に向かいました。
しかし、陶謙は孫策をかなり嫌っており、陶謙は呂範を捕まえると拷問に処した話があります。
名目上は陶謙はスパイ容疑で、呂範に拷問を掛けたわけです。
呂範は何とか陶謙の元を脱出します。
孫策もこれ以上、徐州にいるのは危険すぎると判断し、叔父の呉景を頼る事にしました。
三國志演義だと劉備に国を譲った優しそうなおじいさんのイメージがある陶謙ですが、史実の陶謙はかなりの無法者です。
正史三国志には「陶謙は道義に背く人物」とする評価もあります。
袁術に仕える
孫策は袁術の配下となります。
袁術と孫策は険悪な仲ではなかったとする話もあり、合わせて解説します。
呉景を頼る
孫策は側近の呂範と孫河を連れ、丹陽郡太守である呉景の元に向かいます。
呉景は孫策の母親である呉夫人の弟であり、呉景を頼ったのでしょう。
ここで孫策は数百の兵を集めて袁術に仕える事になります。
孫策としては、袁術に吸収されてしまった旧孫堅軍を返して欲しいと願い、袁術に身を寄せたわけです。
この時の孫策は20歳にも満たない年齢であり、袁術陣営の中でも異質の存在だったとも考えられています。
しかし、孫策の大志は失われていたわけではなく、自分の給仕に蒋欽を任命するなど、有能な人材を集めていたと見れる行動があります。
袁術に嘆願
江表伝によれば、孫策は寿春に行き袁術に面会すると、涙を流し次の様に述べています。
孫策「亡き父である孫堅は董卓討伐に向かい、南陽で袁術様とお会いになられました。
袁術様と父は盟約しましたが、志を得られぬまま亡くなってしまいました。
私は先父にお与えくださった御恩に感じ入り、袁術様の配下として身を寄せたいと考えております。
袁術様には私の真心を理解して下されば嬉しく思います。」
孫策は袁術を頼り旧孫堅軍を返して欲しいと願ったわけです。
しかし、袁術は孫策に兵を返す事はせず、孫策の叔父である孫賁や呉景を頼る様に言います。
孫策は袁術は兵を返す気がないと判断し、孫賁や呉景を頼るしかないと思った事でしょう。
祖郎に大敗北を喫する
この頃に叔父の呉景が宗教指導者の祖郎の軍に圧迫される様になります。
孫策は数百の手勢を率いて、祖郎に戦いを挑む事になります。
孫策は呉景の救援に向かいます。
しかし、孫策は祖郎に急襲された事で、全滅に近い大敗北を喫しました。
後に小覇王と呼ばれる程の戦上手に成長する孫策も、若かりし頃は辛酸を舐めているわけです。
孫策の率いた兵士は数百であり、多勢に無勢であり敗れ去ったのかも知れません。
ここで孫策は戦いの厳しさを学び、どうすればよかったのか?など思案したのではないかと思います。
初陣で祖郎との戦いに敗れた事が、孫策の飛躍のきっかけになったと考えれば、大敗は喫しましたが学びも大きかった様に思います。
孫堅が初めての戦いで海賊たちを逃走させたのとは、対照的だともいえるでしょう。
千人の兵が返還される
祖郎に敗れた孫策が袁術の元に戻ると、袁術は千の兵士を孫策に返還した話があります。
孫策は千の兵士を率いて、祖郎を破った話もあります。
ただし、この辺りは記録によって食い違いがあり、よく分からない部分でもあります。
重要なのは袁術が旧孫堅軍の千の兵士を返還し、その中に程普、黄蓋、韓当、朱治がいた事でしょう。
これらの人材は呉の重鎮となり、呉国を支えて行く人材となります。
孫策の軍は兵の数は少なくても、良将が揃い出してきたわけです。
懐義校尉に任命される
太傅の馬日磾は符節を持ち関東の地を巡っていました。
寿春に着くと丁重な礼で孫策を召し出し、上表して懐義校尉に任命した話があります。
孫策は後漢王朝の懐義校尉に任命されたわけですが、これには袁術の意向が多く含まれていた様です。
馬日磾は袁術に圧力を掛けられて、袁術配下の者に役職を与える様にした話もあります。
袁術のお陰もあり孫策は懐義校尉になったわけです。
ただし、懐義校尉は武官ではありますが、役職自体の位は低いとも考えられています。
孫策と袁術の関係
一般的には孫策と袁術はお互いを信頼していなかったとする説が根強いです。
しかし、孫策と袁術は、それほど険悪な仲ではなかったのではないか?とする話もあります。
正史三国志の孫策伝には、袁術の次の言葉もあります。
袁術「自分に孫策ほどの息子がおれば、思い残すことなく死ねる。」
袁術は常々ため息を尽きながら語っていた話があります。
これを見ると、袁術が孫策の能力を認めていた事は間違いないでしょう。
さらに、袁術配下で後に大将軍となる張勲や橋蕤(きょうずい)も孫策を尊敬していた話が残っています。
他にも、孫策の騎兵が罪を犯して、袁術の陣営に逃げ込んだ事がありました。
孫策は指示を出し、袁術の陣営に入り罪を犯した者を斬り捨てています。
孫策は袁術の陣営に入った事を詫びる為に、袁術に謝罪しました。
袁術は次の様に答えた話があります。
袁術「兵士達は油断すれば、直ぐに軍令違反を侵しおる。
我等は規律を守らない者を憎まねばならぬ立場であり、謝罪する必要はない。」
袁術は孫策の態度が立派だと判断し、畏敬する様になった話があります。
これを見ると袁術と孫策の仲は良好の様にも感じます。
しかし、袁術は孫策を認めながらも危険視していた可能性は十分にあります。
袁術に約束を反故にされる
正史三国志の孫策伝によると、袁術は孫策に九江太守に任じる約束をしていたわけです。
しかし、袁術は約束を反故にし、孫策ではなく配下の陳紀を九江太守に任命しました。
後に袁術は廬江太守の陸康と兵糧の問題で仲違いします。
孫策は過去に陸康に冷遇された事があり、恨んでいました。
袁術は孫策に対し、次の様に述べた話があります。
袁術「九江太守に任命しなかったのは申し訳ないと思っている。
其方(孫策)が廬江太守の陸康を打ち破れば、今度こそ廬江太守に任命しようと思う。」
孫策は陸康を攻めると兵糧攻めを行い、徹底的に陸康の軍を破りました。
孫策は陸見事に任務を達成しています。
しかし、袁術は孫策を廬江太守にはせず、自分の側近である劉勲を廬江太守にしたわけです。
袁術は二度も孫策と約束を破った事になり、孫策は袁術に対し怒りが湧いて来たり、失望した事は間違いないでしょう。
袁術も孫策の能力を認めながらも、信用しきる事が出来なかったと言えます。
劉繇を征伐
孫策は袁術の元を離れて、劉繇討伐に向かいますが、破竹の勢いで敵を破っていきます。
劉繇討伐に向かう
揚州刺史の劉繇と袁術が対立します。
劉繇との最前線にいたのが、孫策の叔父にあたる呉景や孫賁だったのですが、劉繇を相手に苦戦したわけです。
呉景や孫賁は劉繇の圧力に屈し、歴陽にまで退避しています。
この時に劉繇は樊能と于糜を横江津に駐屯させ、張英を当利口に配置し袁術に備えていました。
袁術は恵衢(けいく)を揚州刺史に任じ、呉景と孫賁を最前線で戦わせましたが、何年経っても劉繇を破る事が出来なかったわけです。
ここで孫策が呉景と孫賁に加勢し江東の地を平定したいと、袁術に次の様に願い出た話があります。
孫策「私の家と恩義を結んでいる者が東方におります。
叔父たちに加勢し横江津を討つ事をお認めください。
横江を奪う事が出来れば、私は故郷に帰り3万の兵を得る事が出来るはずです。
その軍勢を使い袁術様が漢朝を建て直そうと考える援助としたいと思います。」
袁術は過去に孫策との約束を破っていた事で、退けようとも考えましたが、孫策に劉繇は倒せないと考えた様です。
さらに、孫策が劉繇を撃破したとしても、王朗が会稽におり、江東の平定は難しいと思案します。
袁術は孫策の要求を認め、呉景と孫賁の応援に行く事を許します。
これが孫策の独立への第一歩となったわけです。
因みに、孫策の袁術への説得の言葉は、配下の朱治が考案したとも言われています。
孫策の元に人が集まる
袁術は孫策を上表し、折衝将軍の官位を授け殄寇将軍も兼任させています。
孫策は歴陽まで来ると周瑜に手紙を送っています。
孫策からの手紙を貰った周瑜は兵士を率いて、孫策の軍の合流する事になったわけです。
孫策は周瑜がやってくると、次の様に述べています。
孫策「あなたを見つける事が出来て願いが叶った。」
周瑜は孫策の配下となり、協力する事になります。
さらに、孫策の元には名士である張昭や張紘が合流しました。
他にも、名声は持っていませんが、実力がある人物として周泰、淩操、陳武なども孫策の配下に加わっています。
孫策の元には有名無名を問わず、様々な人材が集まってきたわけです。
袁術の元を出た時は、孫策配下には千程度の兵士しかいませんでしたが、歴陽に到着する頃には、5千を超えた話しもあります。
孫策は呉景の軍と合流すると、作戦会議を行って万全の体制を以って、劉繇軍と戦う事になります。
快進撃の始まり
西暦195年に孫策は侵攻を開始し、于糜と樊能が守る牛渚を落としています。
この時に、劉繇も孫策により大敗したとする話もあります。
牛渚には大量の兵糧と武器があり、孫策は全て奪い取る事に成功します。
当時、彭城の相・薛礼と下邳の相であった笮融は、劉繇を盟主と仰いでいました。
薛礼は秣陵城を本拠地とし孫策に備え、笮融は県の南方で孫策を迎え撃つ事になります。
孫策は笮融を攻撃すると、笮融は迎え撃ちますが、孫策に五百の兵を討たれて退いています。
笮融は籠城し打って出る事が無くなったので、孫策は秣陵城にいる薛礼を攻撃しました。
秣陵城は孫策の軍に包囲されますが、薛礼は包囲を破り逃走しています。
孫策は秣陵城を攻め落としたわけです。
牛渚が奪われる
孫策は戦いを有利に進めますが、態勢を立て直した于糜、樊能により牛渚の城を奪い返されてしまいます。
孫策は兵を返して、牛渚を攻撃し樊能、于糜を打ち破り牛渚を占拠しました。
この戦いは孫策の大勝利だったらしく、男女一万人以上を捕虜にした話があります。
この辺りは、孫策の采配の巧みさなのでしょう。
孫策の計略
牛渚を占拠すると、孫策は笮融をターゲットにし再び攻勢に出ます。
この戦いで孫策は前線で指揮を執った為か、流れ矢に当たり股を負傷しました。
孫策は馬にも乗れない程のけがを負ってしまい、輿に乗り牛渚に引き上げる事になります。
孫策の部下で逃走した者がおり、笮融に「孫郎(孫策)は弓矢に当たって死んだ。」と告げた者がいたわけです。
笮融は喜び、配下の于磁に命じて、孫策の軍に攻撃を仕掛けます。
しかし、これは孫策の策であり、孫策軍は待ち構えていました。
孫策は于茲の軍勢を歩兵と騎兵で迎え撃ち、わざと敗走した所で伏兵が出現し、大いに破る事になります。
この戦いで孫策は敵兵千の首をあげたと伝わっています。
孫策が生きている事を知った笮融は再び、城に籠る事しか出来なくなってしまったわけです。
太史慈との一騎打ち
劉繇配下には太史慈がいました。
太史慈は孔融の為に黄巾賊の包囲を突破し、劉備に援軍要請するなど、天下に聞こえた人物だったわけです。
しかし、劉繇配下の許劭が太史慈を悪く言った事で、劉繇は太史慈を重用しませんでした。
劉繇は太史慈に偵察の役目を与えますが、ここで13騎の兵士か連れていなかった孫策に出くわします。
太史慈は武勇に自信がある人物であり、孫策に戦いを挑みます。
この戦いで孫策は太史慈の馬を突き刺し、太史慈は孫策の兜を戟で飛ばしています。
史実だと一騎打ちは滅多に起きませんが、孫策と太史慈は史実でも一騎打ちを行った記録があります。
孫策と太史慈はデスマッチを繰り広げた様ですが、孫策と劉繇の配下が割って入り、戦いは引き分けに終わりました。
孫策は有能な人物を好んでおり、太史慈も配下に加えたいと願った様に思います。
劉繇の逃亡
孫策は揚州において劉繇の拠点を奪っていき、劉繇はジリ貧となります。
劉繇は曲阿を本拠地にしていましたが、孫策に対抗する力を失い、軍を捨てて豫章郡に逃亡しました。
孫策の叔父である呉景は劉繇に苦戦しましたが、孫策が出て来ると呆気なく劉繇は片付いたわけです。
孫策は曲阿の領主となりますが、劉繇を破ったとあり恐れられていました。
孫策は曲阿では略奪を禁じ善政を行います。
曲阿の住民は孫策を讃える様になり、民衆に好かれた話があります。
さらに、孫策は敵兵の降伏は無条件で許し、従軍を強制しなかったとあります。
劉繇を駆逐し曲阿を手に入れた孫策の影響力は高まり、この頃の孫策は3万ほどの軍勢を動かせる指揮官になっていた様です。
太史慈を配下とする
劉繇は逃亡しますが、思わぬ相手が孫策の前に立ちはだかります。
太史慈が丹陽太守を自称し、孫策に対して抵抗を続けたわけです。
孫策と太史慈は決着を付けるべく戦いますが、この時の孫策軍は勢いがあり太史慈を破っています。
太史慈は孫策に捕らえられますが、孫策の度量に惹かれたのか配下となります。
孫策は太史慈の能力を高く評価していた事で、重用した事は言うまでもありません。
孫策の主君の袁術は呂布や劉備と抗争を続け、勢力を拡大出来ずにいたわけですが、孫策は一気に劉繇の勢力を制圧してしまったわけです。
軍事能力に関しては、袁術は孫策の足元にも及ばないと言えるでしょう。
周瑜と呉景の離脱
劉繇討伐が終わると、周瑜と呉景が孫策陣営から離脱する事になります。
周瑜の離脱
ここまでの戦いですが、識者の見識では戦略を周瑜が練り、実戦指揮を孫策が行った事で、短期間で勢力が大きく広がったと考えられています。
戦略最強の周瑜と戦術最強の孫策の組み合わせが、三国志最強だと述べる人もいます。
しかし、ここで周瑜は袁術の元に戻る事になりました。
周瑜は孫策の配下として動いてはいますが、建前上は孫策も周瑜も袁術の配下です。
孫策は劉繇を駆逐すると、呉や会稽の制圧に向かいますが、袁術に疑われると、孫策がやりにくくなると判断した為とも考えられています。
周瑜や呉景、袁術から借りた軍勢は返し、袁術から疑われない為の配慮を見せる事になります。
尚、この後に周瑜は丹陽に戻りますが、袁術は袁胤を丹陽太守とし、周瑜と周尚を寿春に召喚しています。
袁術としては孫策の息が掛かった周瑜を丹陽に配置するよりは、自分の手元に置くべきだと考えたともされています。
孫策の成長
呉景も孫策陣営から離脱し、袁術の元に帰る事になりました。
呉景は帰る前に、孫策に次の様に述べています。
呉景「この辺りでは厳白虎が多くの兵士を持っておる。
まずは厳白虎を撃破し、徐々に江東を支配するべきであろう。」
孫策は呉景に次の様に反論しています。
孫策「それは違います。厳白虎は多くの兵は持っていますが、賊軍でしかありません。
厳白虎の兵は、我らの相手ではないでしょう。
厳白虎は無視して、他から攻撃すべきです。」
孫策の言葉を聞いた呉景は、孫策の成長を感じ取った様で、満足して袁術の元に帰ったとあります。
呉景は過去に初陣で、孫策が祖郎に全滅に近い大敗北を喫したのを知っており、孫策の成長を感じずにはいられなかったのでしょう。
許貢・王朗を撃破
孫策は厳白虎に対し抑えを残し、孫策は朱治に呉郡太守の許貢の攻撃を命じます。
朱治は許貢を無事に撃破しました。
孫策は会稽に勢力を持つ王朗を次のターゲットにします。
王朗は孫策に勢いがある事が分かっており、防御に徹する事になります。
孫策は過去に堅固に守る笮融の城を落とせなかった事があり、王朗と外で決戦を挑みたいと考えます。
孫静が策を出し、孫策は王朗を釣りだす為に、別動隊を動かし別の拠点を攻撃する様に見せかけます。
王朗は軍を出して、孫策の別動隊を阻止しようとします。
孫策は王朗の救援部隊を、直ぐに壊滅させてしまったわけです。
さらに、敵将まで討ち取ってしまいました。
孫策を恐れた王朗は逃亡しますが、孫策の追撃により降伏しています。
孫策は許貢と王朗の軍を破ったわけですが、許貢や王朗は後漢王朝の官軍を率いていました。
孫策軍は賊軍でなくても、十分にやり合えるだけの実力を見せつる事になったわけです。
厳白虎を破る
孫策は厳白虎を破りますが、ここで孫策の苛烈な一面を見る事が出来ます。
厳白虎の使者
孫策の快進撃を知った厳白虎は和睦の使者を送ります。
厳白虎の使者になったのが弟の厳輿(げんよ)です。
和睦の席で孫策は厳輿の前で剣を抜き、穀物を斬り捨てました。
驚いた厳輿を孫策は笑って、次の様に述べています。
孫策「あなたの身のこなしは、素早いと聞いていましたが。」
厳輿は怒り「自分は剣を目の前にすれば、よける事が出来る。」と言います。
ここで孫策は厳輿を試すかの様に、戟を投げつけますが、厳輿は避ける事が出来ずに亡くなっています。
厳白虎は孫策を恐れ、孫策が攻めて来ると簡単に敗れています。
孫策は僮芝・鄒他・銭銅・王晟らも撃破し、江東で着実に勢力を広めました。
孫策は降伏する者は許しましたが、反抗する者に対しては皆殺しにしています。
敵対する者を皆殺しにする辺りは、孫策が項羽になぞられて小覇王と呼ばれる所以なのかも知れません。
王晟一人を許す
孫策は王晟も撃破しています。
しかし、王晟は父親の孫堅の友人でした。
孫策は王晟を処刑しようとしますが、孫策の母親である呉夫人は次の様に述べています。
呉夫人「王晟はあなたの父親である、孫堅の友として付き合った者です。
王晟の一族も殆ど残っておりませぬし、助けてあげてください。」
呉夫人は王晟の助命嘆願を孫策に願います。
孫策は呉夫人の願いを聞き入れ、王晟の命を許した話があります。
ただし、許したのは王晟一人だけだったとも言われています。
孫策は基本的に逆らう者は容赦なく殺戮し、短期間で江東に大きな勢力を築いたわけです。
しかし、孫策の苛烈なやり方は、多くの人々に恨みを持たれてもいたのでしょう。
許貢を殺害
孫策は粛清を行い、反対勢力を次々に始末していきます。
過去に呉郡太守をやっていた許貢は孫策を恐れ、次の手紙を朝廷に送ろうとします。
「孫策の野心は恐ろしく項羽の生まれ変わりの様です。孫策を中央に呼び寄せ江東から遠ざけるべきです。」
孫策は許貢の手紙を手に入れ、許貢に迫ります。
許貢は「知らない。」と述べますが、孫策は許貢を殺害しました。
孫策は男気の塊の様な部分もあり、言い訳をする許貢が許せなかったのでしょう。
ただし、後の事を考えると、ここで許貢を殺したのは悪手としか言いようがありません。
袁術から独立
西暦197年になると、袁術は自ら皇帝を名乗り仲王朝を建てます。
孫策は袁術が皇帝になるのを諫めた話もあります。
しかし、袁術は周りの諫めも聞かずに皇帝を僭称してしまいます。
孫策の陣営では孫堅の代から、漢王朝を補佐する事を指針としており、袁術に従う事は出来なかったはずです。
孫策は袁術と袂を別ち、主従関係から敵対関係に変わりました。
孫策が袁術陣営から離脱すると、呉景、孫賁、周瑜なども袁術から離れ孫策の元に戻ります。
この時に、周瑜は魯粛を連れて来た話もあります。
尚、孫策は人材集めに関しては余念がなく、この頃には呂蒙や虞翻なども配下に加わっています。
魯粛や周瑜は赤壁の戦いで功労があり、呂蒙や虞翻は関羽討伐で大活躍しています。
孫権時代に国難を救った家臣団は、孫策の時代には既に集結していたわけです。
孫策と曹操
袁術が皇帝を名乗った頃になると、曹操が孫策に誼を通じようとした話があります。
曹操は許昌に献帝を招きましたが、まだまだ弱小勢力だったわけです。
孫策は朝廷の権力を使い孫策を出世させたり、自分の姪を孫策に送ったりし配慮しました。
曹操は北には袁紹がいましたし、東には呂布、南には袁術がおり、遠交近攻策の一つとして孫策と誼を結んだのでしょう。
尚、曹操の参謀の一人である郭嘉は、孫策の短気な性格や恨みを買いやすい事を理由に死を予言しています。
郭嘉の予言は的中し、孫策と曹操が天下を争い、雌雄を決する事は最後までありませんでした。
祖郎にリベンジ
皇帝を僭称した袁術は、孫策と曹操が誼を結ぶのは気に入らなかったわけです。
袁術は丹陽郡の農民を扇動し、孫策に反旗を翻す様に動かします。
ここで祖郎が立ち上がり、孫策と再び決戦を挑む事になります。
孫策は初陣で祖郎に大敗北を喫しており、因縁の相手でもありました。
祖郎は采配が巧みであり孫策を苦戦させています。
孫策は自らが敵に包囲されるなどの危機もありましたが、孫輔、呂範、程普らと協力し、祖郎を生け捕りにしています。
孫策は祖郎の能力を高く評価しており、過去の怨恨を忘れ配下に加えています。
祖郎は孫策の度量の深さに感激し、頭を打ち付けて孫策の謝罪しました。
祖郎との一見は、孫策の度量の深さを現わす逸話とも言えるでしょう。
袁術の死
帝位の昇った袁術の方は、呂布や曹操との戦いに敗れて落ちぶれていきます。
最後は河北の袁紹を頼り、袁紹の長子である袁譚に合流しようとしますが、途中で蜂蜜が欲しいと述べ病死しました。
西暦199年に袁術は亡くなっています。
袁術がもう少し孫策を上手く使えたら、歴史は変わっていたのかも知れません。
尚、袁術の衰退は孫策の離脱で始まったとする声もあります。
袁術の残党を吸収
袁術の残党勢力を廬江太守の劉勲が襲い、人材や物資などを手に入れた話があります。
孫策は劉勲に対し友好を装います。
孫策は劉勲に、共同で豫章郡を攻めようと持ち掛けます。
この時に劉勲の元には劉曄がおり、孫策を信じるべきではないと諭します。
しかし、劉勲は旧袁術軍を吸収し、兵が増えて兵糧が不足していた事で、孫策の言葉を信じ豫章郡に出陣しました。
劉曄の不安が的中する事になります。
劉勲が上繚まで到着した頃に、孫策は劉勲の本拠地である皖城を落とす事に成功しています。
劉勲は廬江太守でしたが、孫策は李術を廬江太守にすべく上表し、孫策と劉勲は全面対決に至る事になったわけです。
孫策の別動隊である孫輔、孫賁が待ち伏せしており、劉勲を彭沢の戦いで破りました。
劉勲は態勢を立て直し劉表や黄祖に援軍要請し、西塞山で孫策と対峙します。
孫策は程普、韓当、陳武、董襲らの兵を率いて劉勲を攻撃し、西塞山の戦いで勝利しました。
これにより劉勲は勢力を維持する事が出来ず、北方の曹操を頼り揚州を後にします。
孫策は旧袁術軍を完全に吸収し、揚州で最大の勢力となったわけです。
尚、江夏太守の黄祖は黄射を劉勲の救援に派遣しますが、間に合わなかった話があります。
大喬を得る
劉勲を倒した時に、孫策は大喬を手に入れた話があります。
大喬は喬公の娘であり美人として有名だったわけです。
孫策は大喬を自分の妻とし、大喬の妹である小橋は周瑜の妻となります。
大喬、小橋を妻とした孫策と周瑜ですが、孫策はお戯れで周瑜に次の話をしたそうです。
孫策「喬公の娘が美人だと言われているが、我々を夫に出来たのだから満足しているであろう。」
孫策の自信がみなぎってくる様な言葉だと感じます。
孫策は実力もありますし、自分に対してかなりの自信を持っていたのでしょう。
ただし、最終的には、孫策の自信が過信となり、命取りとなります。
余談ですが、大喬が孫策の正妻だと思っている人もいるようですが、実際には孫策の妾だった様です。
黄祖を破る
孫策は劉勲から手に入れた軍船や水軍を用いて西へと進軍しました。
孫策は夏口まで進むと黄祖と戦う事になったわけです。
ここにおいて沙羨の戦いが勃発する事となります。
孫策の父親である孫堅は襄陽の戦いで、黄祖と戦っている最中に亡くなっており、孫策にとってみれば「親の仇」にあたります。
劉表は劉虎、韓晞らを黄祖への援軍として派遣していますが、周瑜、程普、黄蓋、呂範らの活躍により瞬殺されています。
沙羨の戦いで孫策は2万人を斬首した記録もあり、孫策軍は対勝利を得る事になります。
黄祖は孫策軍の強さに驚き、城に籠り戦おうとはしませんでした。
孫策は黄祖が籠城すると、守りが固いと判断し撤退しています。
この時の孫策の活躍には、曹操も「孫策は負けを知らないのか。」と驚いた話があります。
因みに、黄祖は孫策の死後に、黄祖配下の甘寧が孫権に鞍替えし、西暦208年の夏口の戦いで、孫権陣営が黄祖を討つ事に成功しています。
華歆を降伏させる
劉繇が彭沢を本拠地とした頃に、華歆(かきん)が豫章太守になっていました。
孫策は虞翻を使者として、華歆に送り降伏させています。
この時に華歆は隠士が被る帽子を被り、孫策に降伏した話があります。
孫策の快進撃は天下に鳴り響いており、華歆は孫策と対峙するのは得策ではないと判断したのでしょう。
幻の許都襲撃作戦
西暦200年になると、北方で公孫瓚を破り強大な袁紹と、献帝を擁する曹操が対立します。
天下は袁紹と曹操の対決である、官渡の戦いに向かって行くわけです。
この時に孫策は献帝がいる許昌を襲い献帝を手に入れようと考えていた話があります。
北方に釘付けとなった曹操を孫策が背後を衝く作戦です。
しかし、実際には孫呉の基盤は不安定であり、孫策が許都に進撃するのは現実離れしているとする指摘もあります。
実際に江表伝の記述によれば、孫策は広陵太守の陳登の討伐に出陣した時に、許貢の刺客に襲われ命を落した事になっています。
陳登と孫策の勢力の間では、匡奇城の戦いが起きており、孫策は許都への襲撃ではなく、北方に勢力を張る陳登を討ちに行ったのではないか?とも考えられています。
尚、陳矯伝の記述によると、匡奇城を攻撃したのが孫権となっており、この辺りははっきりとしません。
それでも、孫策の許都襲撃計画は幻に終わった事だけは間違いないでしょう。
孫策の最後
西暦200年に孫策は最後を迎えます。
孫策の死因は矢傷による暗殺です。
許貢の食客
江表伝によると、陳登は陳瑀の仇を討とうと考え、厳白虎の残党に印綬を撒くなど、呉の後方攪乱を行ったとあります。
孫策としては陳登が目障りであり、陳登を討つために北上しました。
この時に孫策は丹徒で軍を停止し、後方から来る兵糧を待つ事にします。
孫策は狩りを好んでおり、この時も歩兵や騎兵を連れて狩猟に出る事にしました。
孫策は武勇に優れていたせいか、獲物を追いかけ、不用意に一人になってしまったわけです。
孫策は3人の兵士と出会うと、次の様なやり取りがあった話があります。
孫策「君たちは誰の部下なのか?」
3人組「韓当様の配下でございます。」
孫策「君の様な者が韓当の配下にいたのかな。」
孫策は3人組が刺客だと気づき、いきなり弓矢を放ち刺客の一人を射殺しました。
しかし、刺客も反撃し、孫策を弓で射ると、孫策のほっぺたを貫きます。
孫策の部下達が駆けつけて、刺客を全て倒しますが、孫策は重傷だったわけです。
孫策に深手を負わせた3人組は、過去に孫策が処刑した許貢の食客でした。
食客達は許貢の恩に報いる為に、孫策の命を狙ったのでしょう。
孫権を後継者に指名
孫策は自分が助からないと判断すると、孫権と張昭を呼びます。
孫権に後事を託し、張昭を後見人に指名したわけです。
孫策は亡くなる時に、孫権に次の様に述べた話があります。
「兵士を率いて天下を争うのであれば、お前(孫権)は、私に及ばない。
しかし、江東を守り適材適所で人材を使うのであれば、お前は私よりも勝っている。」
孫策には孫紹なる子がいましたが、子供だった事もあり、弟の孫権を後継者に指名したわけです。
孫策は孫権を後継者とし、この世を去りました。
孫策は西暦200年に26歳の若さで亡くなり、死因は暗殺による負傷です。
尚、三国志演義では重症の孫策を華佗が治療を行い治った事になっています。
しかし、孫策は道士の于吉を殺害し、呪い殺される最後となっています。
孫策と于吉の話は捜神記にもありますが、あくまで捜神記は短編小説であり真実ではないと考えられています。
因みに、孫策の死後に反乱が多発し、孫権は対応に追われる事になります。
それにより、外部への軍事行動を起こすのが難しくなり、勢力の膨張が止まってしまったわけです。
それを考えると、孫策というカリスマを失ってしまった事は余りにも大きかったのでしょう。
鏡を見て死んだ孫策
呉歴によれば、孫策の怪我は致命傷ではないと、医師に診断された話があります。
ただし、医師は孫策に100日間は動いてはならないと言います。
孫策は鏡で自分の顔を見ると、側近たちに次の様に述べます。
孫策「顔がこんな事になってしまい、功を成し遂げる事が出来ようか。」
孫策は激昂し、傷口が開き、その夜のうちに死去したとあります。
孫策は美周郎と呼ばれた周瑜に引けを取らない程のイケメンだった話もあり、顔が傷ついてしまったのは許せなかったとする説なのでしょう。
しかし、この話が真実だった様にも思えません。
孫策と孫権の不仲説
真実は分かりませんが、孫策と孫権の不仲説があります。
孫権は帝位に就いた時に、父親の孫堅の諡号を武烈皇帝としました。
孫権は父親である孫堅を自分と同列の皇帝に添えたわけです。
それに対し、孫権は孫策の諡号を長沙桓王としました。
孫権は自分の兄である孫策を皇帝よりも一段下である「王」にした事が分かります。
さらに、皇帝になった時に孫策の子である孫紹を呉侯にはしましたが、王にはしませんでした。
これらの孫権を見るに、孫策と孫権は不仲だったのではないか?とする説もあるわけです。
陳寿も孫権が孫紹を「侯」にしかしなかったのは、道義に欠けると非難しています。
しかし、個人的には孫策が長生きしていれば、孫家の当主は孫権ではなく、孫策の子である孫紹だったと考えられます。
孫策を皇帝の扱いにしてしまったら、呉国の正統が孫権ではなく、孫紹となってしまう可能性も出てきます。
さらに、孫権が孫紹を「王」にしてしまったら、内乱の原因になると考えたのかも知れません。
国を纏める為には、孫権は孫策は長沙桓王とし、孫紹を呉侯にしておいた方が都合が良かったのでしょう。
孫策の評価
孫策の評価ですが、陳寿は次の様に述べています。
「孫策は優れた気概と行動力を持ち合わせており、勇敢で鋭敏である事は、世に並び立つ者がおらず非凡な人物であった。
孫策が抱いた夢は中華全土を席捲する程のものであった。
しかし、孫堅と同様に軽佻で性急な性格により身を滅ぼした。」
陳寿は孫策の不用意な部分を指摘したわけです。
孫策は性格は短気で苛烈な面もありましたが、度量が深く兵を指揮するのも卓越しており、英雄の器だと言えます。
しかし、陳寿が指摘する様に、脇が甘い部分が多々あったように思います。
父親の孫堅も勝ち戦の中で亡くなっていますが、孫策は孫堅を教訓にする事が出来なかったとも言えるでしょう。
孫策の子孫
孫策の弟には孫権、孫翊、孫匡の3人がいます。
孫権は229年に皇帝になった事で有名でしょう。
孫策の妹には、孫尚香がおり、劉備に嫁いでいます。
孫尚香は孫策と性格が似ていたのか、苛烈な性格だった様です。
孫尚香は劉禅を誘拐しようとして、趙雲と張飛に阻止されています。
孫策の子では孫紹がおり、孫権が帝位に就くと呉侯となった話があります。
孫策の娘は呉の重鎮となる陸遜に嫁いでいます。
孫紹の子に孫奉がおり、孫策の孫となります。
孫奉は呉の孫晧の時代に、孫奉が帝位に就くとする噂が流れ、孫晧に処刑されています。
孫奉は西暦270年に処刑されており、孫策の男系の子孫は孫奉の代で絶えています。
参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志/光栄 爆笑三国志など