応貞の字は吉甫であり、正史三国志の本文・王粲伝に僅かながらですが、名前が登場します。
しかし、正史三国志の本文には応貞に関する記述は、極めて薄いと言わざるを得ません。
王粲伝の注釈・文章叙録にも名前が挙がっていますが、こちらは正史三国志と比べると少し充実した内容となっています。
応貞の父親は応璩であり、応璩は順調に出世した話もあり、応貞も同じ様に順調に出世した話があります。
尚、応貞は三国志末期の人物でもあり、応貞が亡くなったのは、蜀が滅亡し魏が西晋に変わった西暦269年だと伝わっています。
因みに、応貞の弟に応純、応秀がいた事も分かっている状態です。
正史三国志本文の応貞
正史三国志の王粲伝に下記の記述が存在します。
応瑒の弟の応璩、応璩の子・応貞は共に文章により名があがった。
上記の記述から、応貞が父親の応璩や伯父の応瑒と同じように文章を書くのが巧みだった事が分かります。
正史三国志に「応貞は咸熙年間に参相国軍事になった」と記録されています。
咸熙は魏の最後の元号であり、曹奐が皇帝の時代であった264年から265年に使用されました。
それを考えれば、応貞が参相国軍事になったのは魏の最末期だと言えるでしょう。
正史三国志の本文には、応貞に関する記述は、上記の記述だけとなります。
夏侯玄に気に入られる
正史三国志の記述だと簡略過ぎて、応貞の実績は分からない為、正史三国志の注釈・文章叙録で補います。
文章叙録によると、応貞は若くして才能を認められ、談論が得意だったとあります。
魏の曹芳の時代の前半期である正始年間に、夏侯玄は非常に強い権勢を持っており、応貞は夏侯玄の座中で五言詩を作ったとあります。
応貞が作った五言詩は非常に出来が良かった様で、夏侯玄は愛玩しました。
権力者の夏侯玄に気に入られた事もあり、応貞は上席で推挙され高官を歴任したとあります。
これを考えると、応貞は中々の世渡り上手だったのかも知れません。
尚、夏侯玄は曹爽と共に蜀遠征で失敗し、曹爽が司馬懿に誅殺されると不遇な日々を過ごす事となり、最後は李豊の謀反に連座して処刑されています。
応貞は夏侯玄と運命を共にする事はありませんでした。
司馬炎の時代
司馬炎が撫軍大将軍となると、応貞を軍事参与とした話があり、応貞が司馬炎に近しい人物だった事が分かります。
後に司馬炎は魏の曹奐からの、禅譲により西暦265年に皇帝に即位しました。
この頃になると、既に蜀の劉禅は魏に降伏し、蜀は滅亡しています。
西晋が建国されると、応貞は太子中庶子、散騎常侍に昇進します。
さらに、応貞は儒学の教養を買われ、荀顗と共に新しい儀礼を制定したとあります。
しかし、応貞と荀顗が制定した儀礼は、施行されずに終わってしまった様です。
尚、文章叙録によれば、応貞は泰始5年に亡くなったとあり、西暦に換算すると269年に亡くなった事になります。
西晋が建国され数年で亡くなってしまった事になります。
応貞が亡くなった事で、新しい儀礼は制定されなかった可能性もある様に思います。