名前 | 蛾析(がせき) |
生没年 | 不明 |
時代 | 春秋時代 |
主君 | 晋の恵公 |
コメント | 同僚想い |
蛾析は晋の恵公に仕えた人物です。
晋の恵公は慶鄭の諫めを聞かず、秦に対し何度も背信行為を行いました。
秦と晋は紀元前645年に韓原の戦いで刃を交えますが、慶鄭が晋の恵公を助けなかった事もあり、晋軍は敗れ去ります。
晋の恵公は帰国しますが、蛾析は慶鄭に逃亡を進めました。
しかし、慶鄭は蛾析の言葉に従わず、晋の恵公に処刑を言い渡されています。
ここでも蛾析は慶鄭を救おうとしており、蛾析は同僚想いの人物だと言えます。
慶鄭と蛾析は友人の関係だったのかも知れません。
今回は春秋時代・晋の大臣である蛾析を解説します。
慶鄭に逃亡を勧める
韓原の戦いで慶鄭は秦軍に攻め込まれ、窮地に陥っている晋の恵公を救いませんでした。
さらに、秦の穆公を捕える寸前だった韓簡、梁由靡、虢射には、晋の恵公を助けに行くように述べています。
これにより晋の恵公は秦軍の捕虜となり、晋軍の韓簡、梁由靡、虢射も秦の穆公を捕える事が出来ませんでした。
晋の恵公は秦の穆公夫人の願いもあり、晋に帰される事が決定します。
この時に、蛾析は慶鄭に向かって、次の様に述べました。
蛾析「主君である晋の恵公が捕虜になったのは、貴方の責任です。
主君が帰国するのに、なぜ逃亡しないのですか」
蛾析は晋の恵公が帰国すれば、慶鄭が必ず罰せられるから外国に亡命した方がいいと勧めたわけです。
慶鄭は亡命を勧める蛾析に対し、次の様に返しました。
慶鄭「私は軍が敗れた時は軍の為に死に、将が捕虜になれば将の為に死ぬと聞いております。
しかし、私は韓原の戦いでは、どちらも出来ませんでした。
それだけでなく国君を助けようとした者を妨害してしまい、それにより国君は敵に捕らえられてしまった。
三つも大きな罪を犯したのに、何処に逃げ場があるのでしょうか。
私は主君を負け戦に引き込み、敗れたのに死のうともせず、刑罰も受けてはいない。
これでは臣下だとは言えないし、私を受け入れてくれる者などいるはずもない。
私は晋の恵公が帰国するのであれば、あえて刑罰を受け主君を満足させたいと思う。
晋の恵公が帰国出来ないのであれば、私は一人でも兵を率いて秦を討つ。
それでも、国君を得る事が出来ないなら死ぬまでだ。
これが私が亡命しない理由である。
私が他国に逃亡し晋の恵公の意に背くのは反逆だと考える。
国君が道を外れれば国を失う罰を受ける。
臣下であれば刑を受けて当然である」
慶鄭は道義を重んじる人物であり、蛾析の言葉を聞いても他国に逃げる様な事はしませんでした。
慶鄭は逃亡を拒否したわけです。
多分ですが、蛾析は堂々と言い放つ慶鄭を「殺すのには惜しい人物」だと感じたのでしょう。
ただし、蛾析が慶鄭を説得し亡命させる事は不可能だと悟った部分もある様に思いました。
しかし、蛾析はまだ慶鄭を救うのを諦めてはいなかったわけです。
慶鄭を庇う
晋の恵公が帰国すると、慶鄭は処刑を言い渡され、慶鄭も「自刃するつもりだった」と述べます。
しかし、ここで慶鄭に助け舟を出したのが蛾析です。
蛾析「慶鄭は自ら罪を認め刑を受けようとしております。
ここは慶鄭を許して仇討に使ってはどうでしょうか。
主君(晋の恵公)は慶鄭を許し、秦への報復の一手とするべきです」
蛾析は理由を付けて慶鄭を救おうとしたわけです。
蛾析としてみれば、慶鄭を説得出来ない以上は、晋の恵公に慶鄭を許させるしかないと思ったのでしょう。
蛾析の行動を見るに、同僚想いの人物だったと言えます。
しかし、梁由靡が反対した事で、結局は慶鄭は処刑される事になります。
梁由靡が蛾析の言葉に反対したのは、韓原の戦いで慶鄭が「余計な事をしなければ戦いに勝っていた」とする自負があったからなのかも知れません。
尚、蛾析に関しては、慶鄭の話でしか登場せず、この後にどうなったのかは不明です。