春秋戦国時代

虢射(かくせき)は感情を交えず冷徹な判断を下す

2022年8月16日

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名前虢射(かくせき)
生没年不明
時代春秋時代
君主晋の献公→晋の恵公
年表645年 韓原の戦い

虢射は史記や春秋左氏伝、資治通鑑に登場する晋の大臣です。

同じく晋の大臣である梁由靡と一緒に登場する事が多いと言えます。

虢射を見ると物事に対し、感情を交えずに冷徹に判断を下し、進言する人物に見受けられます。

虢射は車右を務めていた話しもあり、武勇に関しても自信があったのでしょう。

今回は晋の大臣である虢射を解説します。

尚、虢射は晋の恵公の舅だとも伝わっています。

采桑の戦い

晋の献公の命令で里克は、翟を攻撃しました。

これが采桑の戦いの戦いとなります。

当時の晋は驪姫により、有力な公族が国外に退去しており、重耳は母親の実家である翟にいたわけです。

晋の献公は驪姫の子である奚斉を晋君にしたいと考えており、重耳を始末する為に重臣の里克に翟を攻撃させたのでしょう。

里克の軍では梁由靡が戦車を御し、里克の戦車の車右になったのが虢射です。

里克の軍は翟の軍を見事に撃破しました。

翟は敗走しますが、この時に梁由靡は追撃を主張しますが、里克は退けています。

ここで、虢射が次の様に述べました。

虢射「ここで追撃をせねば、一年後には翟が晋を攻撃する事になるでしょう。

今の状態で翟を追撃しないのは、我等の弱さを見せる事になるのです」

虢射も梁由靡の意見に賛成であり、翟を追撃する様に進言しました。

しかし、里克は重耳に対して同情的に見ており、虢射の意見を却下したわけです。

この一年後に翟が報復の為に晋を攻撃し、虢射の述べた事は現実となりました。

采桑の戦いでの戦いは、重耳への感情が混ざった里克と、感情を交えず任務をこなす事を優先する虢射の差が出ている様に感じます。

秦への食料援助

春秋左氏伝の記述

晋の献公が亡くなると里克と丕鄭は驪姫奚斉、卓子を討ち取り、晋の恵公を即位させています。

この時に、晋の恵公はに土地を割譲する約束をし、後ろ盾を得た上で晋に入りました。

しかし、晋の恵公は背信行為を行い秦の土地を割譲しなかったわけです。

それにも関わらず秦の穆公は晋が飢饉になると、百里奚に食料を届けさせるなど、晋への援助を惜しみませんでした。

こうした中で、今度は秦に飢饉が起こり、晋に食糧援助を求める事になります。

しかし、晋の恵公は恩知らずにも援助を拒否しました。

晋の恵公が秦の依頼を拒否すると慶鄭は諫めますが、虢射は次の様に述べています。

虢射「皮がないのに毛だけがあっても役には立たないでしょう」

虢射の言った事は難しく感じるかも知れませんが、ここでいう「皮」は秦への土地の割譲の約束であり「毛」が秦への食料援助となります。

つまり、虢射は「領地の割譲の約束を破っておきながら、秦に食料だけ援助しても意味がない」と述べた事になります。

虢射は「人間に毛だけあっても皮が無くては意味がない」とする例えとして使ったわけです。

慶鄭は虢射の意見に反論し、信義を違えるべきではないと述べますが、虢射は次の様に答えました。

虢射「食料を与えても秦への恨みを消す事は出来ない。それどころか援助をしたら相手を力づける事になってしまう」

慶鄭は「仇となるからやめるべき」と再び反論しますが、晋の恵公は虢射の意見を採用しています。

これにより、晋は秦を攻撃する事となり、韓原の戦いに突入する事になります。

史記の記録

史記だと虢射の言葉は少し変わっており、秦が飢饉となり援助を求めた時に、次の様に述べています。

虢射「前年は我らが飢饉となりました。これは天が秦に晋を与えたようなものだったのです。

しかし、秦はそんな事も知らずに、我等に食料を援助しました。

現在の状況を見るに、天は秦を晋に与えようとしているのです。

天に逆らってはならず、秦を討つべきでしょう」

虢射は史記でははっきりと、秦を討つ様に進言しています。

因みに、秦本紀では虢射は「飢饉で困っている敵を攻撃すれば大きな功績を挙げる事が出来ます」と述べただけになっています。

ただし、全てに共通しているのは、虢射の進言もあり晋の恵公は秦を攻撃したと言う事です。

韓原の戦い

西暦645年に秦の穆公と晋の恵公の間で、韓原の戦いが勃発します。

この戦いで虢射は晋の大臣である韓簡の車右となります。

韓簡の御者になったのが梁由靡です。

梁由靡の御者と虢射の車右のコンビは定評があったのでしょう。

韓原の戦いが始まると韓簡、虢射、梁由靡の戦車は奮戦し、秦の穆公を捕える寸前まで行きました。

しかし、ここで慶鄭が現れ晋の恵公を助けに行くように述べます。

韓簡らは秦の穆公の追撃を諦め晋の恵公を助けに行きますが、秦の穆公配下の野人の活躍もあり、晋の恵公は捕らえられてしまっていたわけです。

韓簡や虢射、梁由靡らが秦の穆公の追撃を継続していれば、秦の穆公も捕らえられた可能性もあり、秦と晋の両方の君主が捕らえられるという不思議な展開になった可能性もあります。

尚、これが虢射の最後の記述であり、この後はどうなったのかは不明です。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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