名前 | アビドス王朝 |
時代 | エジプト第二中間期?? |
アビドス王朝はエジプト第二中間期にあったとされる地方王朝です。
アビドスを本拠地とした事で、アビドス王朝と呼ばれる事になったのでしょう。
アビドス王朝の時代はエジプト第15王朝、第16王朝、第17王朝の時代であり、混乱の時代でもありました。
エジプト第二中間期の最大勢力は第15王朝であり、アビドス王朝、第16王朝、第17王朝などは諸侯の一つに過ぎなかったとする見解が強いです。
アビドス王朝を提唱したのは、ドイツのエジプト学者であるデトレフ・フランケであり、その説をレホルトが発展させています。
今回は謎多き王朝であるアビドス王朝を解説します。
尚、アビドス王朝の記事に関しては「古代エジプト全史 河合望」さんの著書を元に書いております。
アビドスの陵墓
リホルトはトリノ王命表の第16王朝に続く16人の王がいると主張しました。
この16人の王がアビドスを本拠地とした上エジプトの王朝であると指摘したわけです。
リホルトは適当な事を言っているわけではなく、トリノ王命表に記述された王の石碑がアビドスで発見された事が裏付けとなっています。
2014年にはジョセフ・ウェグナーが率いるアメリカの調査隊がウセルイブラー・セネブカイ王の墓をアビドスで発見しました。
これによりエジプト第二中間期にアビドスを本拠地としたアビドス王朝があった事が、現実味を帯びて来たとも言えるでしょう。
アビドス王朝という名前から壮大な王朝だった様な感じもしますが、実際には地方の短命な王朝に過ぎなかったのではないか?とする見解もあります。
実際に、アビドス王朝がいたとしても、下エジプトのヒクソス王朝の傘下の諸侯でしかなかったはずです。
第二中間期において力を持っていたのは、ヒクソスのエジプト第15王朝となります。
単にアビドスに王墓を建設しただけ??
ウセルイブラー・セネブカイ王の墓が発見されても、アビドスに王朝があったわけではないと考える専門家もいる状態です。
例を挙げればエジプト第12王朝のファラオであるセンウセレト3世は首都をイチタウイに置きましたが、アドビスに陵墓を建設しています。
センウセレト3世の例をみれば、首都に陵墓を築くとは限らないという事が分かります。
同様にウセルイブラー・セネブカイ王がテーベの王であったとしても、アビドスに陵墓を造る可能性は残っているはずです。
テーベの王が陵墓をアビドスに建設しただけであれば、アビドス王朝が存在しなかった事になります。
どちらの言い分にも利がありそうに見えますが、エジプト第二中間期は資料が乏しく、現時点での正確な部分は分からないとしか言いようがありません。
それでも、アビドス王朝を考えれば浪漫はあると言えるでしょう。