エジプト第二中間期 古代エジプト 未分類

ヒクソスはエジプトに王朝を樹立した異民族

2023年7月31日

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宮下悠史

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名前ヒクソス
ヒクソス王朝エジプト第15王朝エジプト第16王朝??
コメントエジプト初の異民族支配を成した

ヒクソスはエジプトで初の異民族王朝を開く事になります。

ヒクソスは主にエジプト第15王朝(大ヒクソス)エジプト第16王朝(小ヒクソス)を指す言葉としても使われています。

ただし、エジプト第17王朝も43人のヒクソスの王と43人のテーベの王がいたとする記述もあり、ヒクソスとの関係は深いとも考えられます。

ヒクソスの時代はエジプト第二中間期となっており、混乱と不安定な時代区分になっている状態です。

第15王朝のファラオが統治したのはナイルデルタの下エジプトのみですが、上エジプトのエジプト第17王朝からは貢物などを納めさせた話しがあります。

小ヒクソスこと第16王朝に関しては謎が多く、異民族であるヒクソスの王朝とする説と上エジプトの第17王朝の前身だったのではないか?とする説があり、はっきりとしない部分が多いです。

今回はエジプトで初の異民族王朝であるヒクソスを解説します。

ヒクソスの意味

ヒクソスという名前は古代エジプト語で「異国の支配者たち」を意味する「ヘカウ・カスウト」がギリシア語で訛り「ヒクソス」と呼ばれる様になったとされています。

ヒクソスという名前はエジプト人が呼んだわけではありません。

古代エジプト人はエジプト第15王朝の都があった東デルタのアヴァリスの人々を「アアムウ(西アジア人の意味)」と呼んでいた事が分かっています。

エジプト史で有名なマネトはヒクソスの事を「牧人の王」の名で呼びました。

ヒクソスのエジプト侵入

武力征服説(マネトの記述)

エジプト史を著したマネトによれば、西アジアからヒクソスなる民族がエジプトに侵入した事になっています。

マネトはヒクソスを「神の一撃」とも表記しました。

ヒッタイトミタンニなどのアナトリアやシリア北部にいた印欧語族に押し出されたセム系の民族が、エジプトに侵略を行ったとしています。

エジプトに侵入した民族集団を「ヒクソス」と呼び街を焼き払い神殿を破壊するなどの蛮行を行い、下エジプトのナイルデルタを制圧した説です。

当時のエジプトでは歩兵しかおらず、戦車と複合弓で武装したヒクソスがエジプトのファラオの軍を破り、ナイルデルタにヒクソス王朝を樹立した事がマネトの記述から読み取れます。

マネトはヒクソスは侵略者であり、武力でエジプト王朝を征服したとしているわけです。

しかし、近年の考古学的な発掘などもあり、マネトの説は否定されており、後にエジプト第17王朝や第18王朝が自分達を正当化する為に、ヒクソスを悪者に仕立て、それをマネトが記録したと考えられる様になりました。

エジプトへの移民

エジプト中王国時代の第12王朝で官僚組織が整備されますが、末期には社会混乱があり衰退しました。

第13王朝と第14王朝ではファラオがかなり入れ替わった記録があり、混乱の時代だったと見る事が出来ます。

エジプトは封鎖地形とも呼ばれ東はリビア砂漠、南は森林、西は紅海、北は地中海に守られた地形です。

古代の科学技術であれば、スエズ地峡(支配者の壁)さえ守っていれば、エジプトは外部からの侵略を防ぐ事が出来ました。

しかし、第13王朝の頃になるとスエズ地峡の防備が手薄となり、パレスチナやレヴァントの人々がナイルデルタ東部に存在していた事が分かります。

スエズ地峡の防衛が疎かになると同時に、西アジアから人が入って来て、ナイルデルタに集落を形成し、これがヒクソスになったのではないか?とも考えられる事が出来るはずです。

現在では多くの書籍で、スエズ地峡の防衛が政治的な混乱が原因で疎かになり、結果としてヒクソスがデルタ東部に住み着いたとするのが主流となっています。

当時は疫病が脅威であり、エジプトで疫病が発生しスエズ地峡の防備が緩くなった所で、ヒクソスの移民が始まった可能性もあると考えられます。

尚、エジプト第12王朝の最後のファラオであるセベクネフェル王女の執事長のヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフがヒクソスだったのではないか?とする説もあります。

ヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフがヒクソスだとする理由は名前に「アジア人の息子」を意味する「アアムサ」が入っているからです。

ヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフはファラオの位を簒奪したとも考えられており、これが正しければ最初のヒクソスは第15王朝を待たずして誕生した事になります。

他にも、ベニ・ハサンにクヌムホテプ2世という貴族の墓の壁画にガゼルらしき巨大な角を持つ生き物が描かれており、エジプト第12王朝期では既にヒクソスの原形となる人々がエジプトに入って来ていたとも考えられています。

ファラオが治めるエジプト領内のヒクソスの数が増えて行き、結果としてエジプトの中にヒクソスという別の国が出来てしまった状態だったのかも知れません。

西ローマ帝国とゲルマン人と似たような関係となり、エジプト王朝が崩壊した可能性もあるはずです。

他にも、エジプト人は「シヌヘの物語」を好む宦官がいないなど、お人よしが多くシリア、パレスチナ、メソポタミアなどの開封地形で戦ってきた西アジア人に敵わなかったのではないか?とする説もあります。

現在では移民となったヒクソスの中で力を持つ者が出来た結果として、ヒクソス王朝に繋がったのではないかとする説が極めて有力となっています。

ヒクソスの国体

政治

ヒクソスの支配体制に関しては謎が多く分かっていません。

しかし、よく言われる所では中王国時代に整備された官僚組織を使いエジプト人官僚が運営していたのではないか?とも考えられています。

さらには、大ヒクソスと呼ばれたエジプト第15王朝でも支配地域はエジプトのナイルデルタに留まっており、上エジプトの諸侯に対しては封建制を布いたとされています。

ヒクソスの支配はあくまでも下エジプトのみであり、上エジプトなどは貢納により宗主権を行使したに過ぎません。

尚、大ヒクソス・エジプト第15王朝からしてみれば、テーベの第17王朝第16王朝などは単なる有力諸侯でしかなかったとする見解もあります。

ヒクソスがエジプトに大して優れていたのは軍事技術のみであり、エジプトの文化と同化しようとしていました。

エジプト国内の遺跡からは大量のシリア・パレスチナ製品が出土していますが、ヒクソスの王の遺物には東方の文化的要素が殆ど見られません。

これらの事からヒクソスの王たちはエジプト文化を尊重し、伝統的なエジプト王として振る舞おうとしたと見る事が出来ます。

多くの異民族王朝と同様に、文化に関しては高い文化圏に呑み込まれたと言えるでしょう。

それと同時にヒクソスの王がキアンやアピペなどのセム系の名前を使用しており、西アジアの民族的なアイデンティティを棄てたわけでもありません。

宗教

ヒクソスは西アジアで自分たちが祀っていた嵐の神バアルをエジプトのセト神と習合させ祀った話があります。

ヒクソスがバアル神とセト神を同一神だと宣言し、厚く祀った事でエジプト人とヒクソスで宗教的な軋轢を起こさない様にしたのでしょう。

当時はまだ一神教が世の中で普及しておらず、神の習合という方法は画期的だったとも言えます。

ただし、セトはエジプトではオシリスを殺害した神でもあり、エジプト人はセトを余り好まなかったともされています。

因みに、バアルは聖書にも登場しており、ハエの王・ベルゼバブと同一視され、悪魔にされてしまいました。

ユダヤ教やキリスト教は一神教であり、多神教の神を「神」とする事が出来ず、悪魔にされてしまったのでしょう。

尚、エジプト第19王朝のラメセス二世がセト神のデルタ定着400年を記念し、建立した「400年祭碑」が見つかっています。

この400年という数字を信じるのであれば、紀元前1730年頃のエジプト第13王朝の頃には、バアルを信仰する西アジアの人々が下エジプトのデルタ地帯東部に住み着いた事になるはずです。

尚、エジプト第15王朝の6人の王の名に全て「ラー」が着く事から、自らを太陽神ラーの化身と考えていた事も分かるはずです。

クレタ文明との交流

クレタ島は古代ギリシアの最南端に位置し、ヒクソスと貿易を行っていたと考えられています。

クレタ島はエーゲ文明の中でも最南端にある島であり、エジプトのヒクソスとは交易がしやすい位置にあったわけです。

クレタ島のクノッソスで発見されたアラバスター製の水差し蓋には「完全なる神・セウセルエンラー・ラーの息子・キアン」と記されていました。

キアンはエジプト第15王朝のファラオである事から、ヒクソスの時代にエジプト文明とクレタ文明の間で交流があった事は確かなのでしょう。

逆にヒクソスの都であるアヴァリスからは、クレタ文明の「牛跳び図」と呼ばれるフレスコ画が出土しています。

因みに、牛跳び図はアヴァリスでもクノッソスでも発見されました。

クレタ島のフレスコ画はシリアのウガリト、マリ、アラハハ、カトナやイスラエルのガリラヤ湖近辺のカブリで発見されており、クレタ文明とオリエント圏の交流があった事は間違いないでしょう。

尚、ヒクソスのキアン王の遺物がアナトリアやバクダートからも発見されており、エジプトの外の国とも交流があった事は確実です。

下エジプトのナイルデルタも国際都市に変わっていく事になります。

軍事改革

エジプトの古王国時代は軍隊の中心になっていたのが、徴用された成人男性であり、これが数万にも達っしました。

さらに、エジプト軍に南のヌビア出身の用兵が加わった軍隊で形成しており、エジプトは外部の敵により危険にさらされる事は無かったわけです。

ただし、南のヌビアの諸部族を牽制する為に、何度も遠征をした記録があります。

エジプト中王国時代は100人に1人の割合で成人男性が徴用され、ファラオが自ら命じた職業軍人に指揮を委ねられました。

セム語系のヒクソスがエジプトに腰を据えた事で、馬、戦車、青銅製の偃月刀、小札鎧、複合弓がエジプトでも使われる様になります。

これまでのエジプトの弓は射程距離が100メートル程しかありませんでしたが、複合弓を使う事で飛距離は200メートルにまで到達しています。

これを見ると複合弓の威力が分かりますが、複合弓の方が使うのに力がいる事で、ボーガンの様な訳には行きません。

エジプトにとってはヒクソスの戦車技術も非常に価値があり、大事な局面でも機動力を出す事に役だちました。

後にはファラオが自ら戦車に乗り軍隊を指揮する事も出て来る様になります。

因みに、ヒクソスは最初は傭兵としてファラオやエジプト諸侯に雇われ、実力で王位を獲得しエジプト第15王朝を勃興させたと考える専門家もいる様です。

尚、エジプトに本格的な職業軍人が現れるのは、エジプト新王国時代からとなります。

ヒクソスの滅亡

エジプト第15王朝の第五代ファラオ・アペピ1世が「カバの鳴き声が煩くて、夜も眠れない」などの挑発的な手紙を第17王朝のセケンエンラー・タア2世に送った話があります。

この頃から、エジプト第15王朝と第17王朝は全面戦争に突入しました。

セケンエンラー・タア2世の次のファラオであるカーメスの碑文によれば、アシュートの北であるクサエまで解放し、その南にはヒクソスがいなくなったとあります。

実際にテーベの下流域50キロのデル・エル・バラスから計画的に配置された都市が見つかっており、これがセケンエンラー・タア2世がヒクソスと対峙する為の前線基地にしたのではないか?とする見解もあります。

これを見ると、劣勢と思われた第17王朝が有利に戦いを進めた様に感じるかも知れませんが、セケンエンラー・タア2世の遺骸には複数の傷跡が見られ、ヒクソスとの戦いで戦死したのではないか?とも考えられています。

ヒクソスは南のクシュ王国と同盟し、第17王朝を挟撃しようともしますが、結局は17王朝の軍により首都であるアヴァリスを包囲されました。

第17王朝の勇敢王カーメスがアヴァリスまで迫りますが、幸運にも体調を崩し亡くなっています。

しかし、カーメスの弟であるイアフメスがヒクソスをエジプトから駆逐し、エジプトをエジプト人の手に取り戻しました。

イアフメスはエジプト第18王朝の始祖となり、ここからエジプト新王国時代が始まる事になります。

ヒクソスはエジプトを放棄しますが、シナイ半島北部やパレスチナ南部などは領有していました。

しかし、ヒクソスの最後の拠点であるパレスチナのシャルヘンが陥落し、ヒクソスは歴史から姿を消す事になります。

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