名前 | エーゲ文明 |
時代 | 紀元前2000年頃~紀元前1200年頃 |
所属 | ヘラディック文明、キクラデス文明 |
クレタ文明、トロイア文明、ミケーネ文明など | |
コメント | エーゲ海周辺で栄えるも海の民やドーリア人の侵入で滅びる |
エーゲ文明はエーゲ海の周辺にあった文明を指します。
エーゲ文明という文明があったわけではなく、ヘラディック文明、キクラデス文明、クレタ文明、トロイア文明、ミケーネ文明らの総称です。
ただし、エーゲ文明の中ではクレタ文明とミケーネ文明、トロイア文明が重要視されており、ヘラディック文明、キクラデス文明は影が薄い存在でもあります。
エーゲ文明の名前は有名ですが、エーゲ文明を築き上げた民族に関しては、よく分かっていません。
エーゲ海の近郊を考えるとギリシア人を連想するのかも知れませんが、エーゲ文明の初期の頃には、アーリア系のギリシア人はいなかったとも考えられています。
エーゲ文明に関しては伝承だけが伝わっており、19世紀頃まで実在が確認されておらず、伝説上の文明でもありました。
トロイア、ミケーネの遺跡を発掘したシュリーマン、クノッソスの宮殿を発掘し粘土板も発見したイギリスのエヴァンス、線文字Bの解読に成功したイギリスのヴェントリスらの功績は極めて大きいと言えます。
エーゲ文明の属するトロイア文明とミケーネ文明の戦いであるトロイア戦争などは、かなり有名です。
世界四大文明であるメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明にも劣らぬほどの立派な文明がエーゲ海を中心にあった事は間違いないでしょう。
今回はエーゲ文明を簡単で分かりやすく解説します。
エーゲ文明の発掘
シュリーマンは子供の頃からトロイア戦争などに興味を持ち、後に莫大な富を築きますが、会社を売却しトロイアの発掘を開始しました。
シュリーマンの活動により様々なものが出土し、トロイはおとぎ話ではなく実在した事が分かったわけです。
そうなると、クレタ島のクノッソスにラビリンス(迷宮)があったとされていましたが、本当にラビリンスは存在するのではないか?と考えられる様になります。
イギリスのエヴァンスがクノッソスで発掘を始めると、まさに迷宮とも呼べるような複雑な構造をした遺物が姿を現しました。
クレタ文明の特徴として、壮大で複雑な構造になっている宮殿建築などが注目ポイントでしょう。
クノッソスからは牛の紋章まで見つかり、世間を騒がせたわけです。
ラビリンスに閉じ込められたとするミノタウロスは頭が牛で体が人間という化け物であり、エーゲ文明は単なる伝承ではなかったと考えられる様になりました。
尚、エーゲ文明では青銅器の文明だった事が分かっています。
クレタ文明の興隆
エーゲ文明の中で最初に興隆したのが、クレタ島のクレタ文明だと言えます。
クレタ島の面積は8620平方キロメートルであり、日本の四国の半分ほどしかありませんが、ここからエーゲ文明は急速に発展する事になります。
紀元前2000年頃まではエーゲ海の文明は横一線の様な感じでしたが、最初に発展したのが南方に位置するクレタ文明だという事です。
当時の地中海ではセム系のフェニキア人が航路を開拓するなど活発に活動していました。
フェニキア人はメソポタミアとエジプトを合わせたオリエント文化圏に属し、当時では世界の最先端とも呼べる技術を持っていたわけです。
フェニキア人は現在のレバノンの辺りを本拠地としており、地中海を東に進めば必然とエーゲ文明に属するクレタ文明にぶつかります。
クレタ文明は東部の港町から発展し、次第に中部にも港が造られ発展していきました。
クレタ島の人々はフェニキュア人から文字など様々な技術を習得する事になります。
クレタ島でも特産物を輸出し、フェニキア人と交易が始まりました。
トロイア文明などは小アジアにあり、東には鉄の民族と呼ばれたヒッタイトがおり、交易しやすいと思うかも知れません。
しかし、トロイア文明とオリエント文化圏の間では、山脈があり交易には不便だったわけです。
尚、クレタ文明では南のエジプトとも交易を行っており、エジプト中王国やヒクソスと交易を行っていた事は確実視されています。
クレタ王は交易王として富を得ました。
クレタ島はエーゲ海の島々の中で最も大きく、地中海交易の要でもあり、エーゲ文明の中ではクレタ文明がいち早く興隆したと言えるでしょう。
エーゲ文明の前半の主役はクレタ文明だったと言えます。
クレタ文明の大発展
1700年頃にクレタ文明に大地震が直撃しました。
1700年頃にクレタ文明では大打撃を受けますが、復興し旧宮殿時代と新宮殿時代に分けられます。
旧宮殿時代の全盛期の王がミノス王であり、クレタ文明は別名としてミノス文明と呼ばれています。
ミノス王はギリシャ神話の主神であるゼウスとヨーロッパの語源となったフェニキアのテュロス王の娘であるエウロペの子だとされています。
ヨーロッパの語源がエウロペだと考えれば、ヨーロッパの人びとはクレタ文明の後継者を名乗っている事にもなるはずです。
ミノス王がゼウスの子などは創作だとも感じますが、ミノス王自身は実在した可能性が高いと考えらえます。
ミノス王の時代にエーゲ文明の中心は間違いなくクレタ文明だったと言えるでしょう。
エーゲ文明では最初の方は絵文字を使っていました。
絵文字は描くのが大変な部分もあり、線文字に変わる事になります。
エーゲ文明のクレタ島を中心に使用された線文字を線文字Aと呼びます。
後にミケーネ文明が興隆すると、線文字Bが使われました。
さらに、線文字Bが後にギリシア文字に変わって行きます。
先にも言いましたが、ミケーネ文明の線文字Bを解読したのは、イギリスのヴェントリスです。
紀元前2200年のイベント
紀元前2200年頃に地球規模の寒冷化により、食料を求めての民族の大移動が起こりました。
オリエントの世界ではアッカド帝国が崩壊し、エジプト古王国も終焉を迎えエジプト第一中間期に突入する事になります。
日本でも寒冷化により、三内丸山遺跡で栗が採れなくなり、縄文時代最大の集落が放棄されました。
エーゲ文明の世界でもアーリア系民族の大移動があり、アカイア人がバルカン半島に入ってくる事になります。
アカイア人にはイオニア人とアイオリス人の二つに分けることができ、最初にイオニア人がアッティカ半島やエウボイア島に入ってきました。
エウボイア島はエーゲ文明ではクレタ島に次ぎ2番目に大きな島であり、現在ではエヴィア島と呼ばれる事が多いです。
さらに、アカイア人に属するアイオリス人もやってきました。
民族移動が起きると元いた民族は滅ぼされてしまう事が多く、エーゲ文明の一角を担っていたヘラディック文明が滅亡しています。
アカイア人が起こした文明の総称をミケーネ文明と呼びます。
尚、1900年頃を境に今までとは全く異質の陶器などが急激に現れる様になり、別の文化に移行した事は明らかでしょう。
クレタ文明
ミノス王とミノタウロス
ギリシアの辺りではヘラディック文明が滅びミケーネ文明に代わり別世界に突入していましたが、クレタ文明ではミノス王の時代となり全盛期を迎えていました。
エーゲ文明ではクレタ文明、ミケーネ文明、トロイア文明の時代に突入します。
ミノス王の子にミノタウロスがいたという話しがギリシア神話にあります。
ミノス王は海の神であるポセイドンの怒りを買いミノス王の妃であるパーシパエーに呪いを掛けました。
パーシパエーは牝牛に発情する様になり、遂には牝牛と禁断の行為に及び子を授かりますが、これがミノタウロスであり、頭が牛で体が人間という怪物だったわけです。
ミノタウロスは成長するに従い凶暴さを増し、ミノス王は巨大な迷宮を建造しミノタウロスを閉じ込めてしまいました。
人間と牛が交尾して子供は遺伝子の観点からも絶対に生まれないはずであり、ミノタウロスの話は作り話ではないかと考えられています。
しかし、ミノタウロスは実在したとする説もあり、ミノタウロスは三口と呼ばれ鼻や口の中が割れて生まれて来る奇形児だったのではないかとする説です。
ミノタウロスは奇形児だったのではないか?とする説もあります。
現在では三口の子供が生まれると手術により治したりしますが、エーゲ文明の世界では、その様な技術はなかったのかも知れません。
無防備なクノッソス宮殿
エーゲ文明を代表する宮殿とも言えるクノッソス宮殿がクレタ島で発見されました。
ギリシアの伝説ではクノッソス王ミノスの宮殿は、迷宮の様になっており、迷い込んだら出られないなどの話もあったわけです。
実際にエヴァンスが発見した遺跡の建物には、小さいながらも100以上の部屋があり、様々な構造となっており迷宮と呼ぶに相応しい構造でした。
クノッソス宮殿は宗教的な権威を背景とし、巨大な権力を持った王がいたのではないか?とも考えられています。
ユーラシアの世界では宮殿が発見されると、周囲に城壁があるのではないか?と考えらるのが普通です。
しかし、現在に至るまで城壁が発見されておらず、無防備な状態でした。
一つの説としてクノッソス宮殿の周囲に城壁が無いのは、当時のクレタ島は争いがなく国内が安定しており城壁を必要としなかった説です。
他にも、クレタ島は海で四方を囲まれており、海軍力さえしっかりとしていれば、外国から攻撃を受ける事もないと考えられます。
クレタ島は封鎖地形であり、外国の勢力が攻めて来ても古代では兵站を繋ぐのも大変な事から、クレタ文明は平和だったともされているわけです。
クノッソス宮殿の壁画からはイルカやタコなどを描いた絵画も発見されており、見るからに平和な文明だった事が分かるはずです。
海の生き物を描いたものが多く海洋的だと言えるでしょう。
逆を言えば、クレタの壁画には神、礼拝、戦いの場面などはなく、王や王族、武将なども描かれてはいません。
クレタ島の壁画はエジプトやメソポタミア地方と比べると明らかに異質な文化を醸成しました。
クノッソスの近郊の人々も合わせれば人口が10万程いたのではないかとエヴァンズは算出しています。
クノッソスに本当に人口が10万いたとすれば、当時の世界で最大の都市はクノッソスという事になります。
クレタ文明では線文字Aが使われていましたが、線文字Aは未だに未解読です。
線文字Bはイギリスのヴェントリスが解読しました。
ミケーネ文明
戦闘民族
アカイア人は、ミケーネ、ピュロス、ティリンスなどに巨大な石で出来た城壁と共に国を建てました。
これらがミケーネ文明の核となります。
クレタ文明には城壁はありませんが、ミケーネ文明では城壁が存在しています。
城壁が存在する辺りは、戦いを連想させてくれるのではないでしょうか。
エーゲ文明のクレタ文明が戦争への意識が低かったのに対し、ミケーネ文明は戦いへの意識が極めて強いと言えます。
ミケーネ文明で描かれるものを見ても、戦争に関わるものが多く、どこか殺伐としているわけです。
貢納王政
ミケーネ文明では、イギリスのヴェントリスが線文字Bを解読した事で、貢納王政という手法で統治していた事が分かりました。
貢納王政は権力を持った王様が役人を使って、人々から貢納を行わさせ、王宮で働く人々を養うという方法です。
後述しますが、ミケーネ文明はドーリア人の侵攻により滅びたともされていますが、貢納王政が上手く機能しなくなり滅んだとする説も存在します。
もちろん、貢納王政による統治の低下や海の民、ドーリア人の侵入と複数の事が重なり滅びた可能性もあります。
ミケーネ文明の貿易
ミケーネ文明の貿易ですが、クレタ文明から学んだとも考えらえています。
しかし、同じエーゲ文明であってもミケーネ文明の方が遥かに攻撃的だったともされているわけです。
ミケーネ文明の諸国では果樹栽培を行い商品を輸出したりしましたが、同時に海賊の様な事もしていたとされています。
ミケーネ文明の交易範囲は縮小に向かいますが、ミケーネ文明の交易の縮小は好戦的なミケーネの人々の強引な取引によるとも考えられています。
この辺りもミケーネ文明が好戦的だと考えられている理由となります。
ミケーネ文明がクレタ文明を滅ぼす
エーゲ文明の南に浮かぶ島であるクレタ文明が平和的でお人好しが多かったと考えられています。
しかし、エーゲ文明の西に位置するアカイア人たちのミケーネ文明は、先にも述べた様に好戦的だったとされています。
紀元前1400年位になるとミケーネ文明の勢力がクレタ文明の勢力に侵攻し滅ぼしてしまいました。
ミケーネがクレタ文明の勢力を滅ぼしたとするのにも、諸説がありはっきりとしません。
一気に滅ぼしたのではなく、ミケーネの人がクレタ島の王となるなどもあったと考えられています。
エーゲ文明の世界ではクレタ文明が崩壊した事で、ミケーネ文明とトロイア文明だけが残ったわけです。
トロイア戦争
戦争の発端
ミケーネ文明の勢力とトロイア文明の勢力の戦いとなりますが、軍事力ならミケーネ文明、経済力ならトロイア文明という状態でした。
エーゲ文明では大量に穀物が採れるわけではなく、どちらかと言えば貧しい地域だと言えます。
トロイア文明の北には黒海があり、ここから穀物などを仕入れてミケーネ文明と商売を行う事で、トロイア文明は発展したわけです。
ミケーネ文明の勢力から見れば高値で取引をするトロイア文明の勢力が邪魔でもあったのでしょう。
ミケーネ文明の勢力はトロイア文明の勢力に攻撃を仕掛け、これがトロイア戦争となります。
トロイア文明の滅亡
トロイア文明側ではミケーネ文明が攻めて来ると籠城戦を採用しました。
武力ではミケーネ側に敵わないトロイア側は籠城戦を選択し、相手の兵站が尽きるのを待ったのでしょう。
しかし、トロイの木馬により、城内にミケーネの勢力を入れてしまい結局は滅亡しました。
トロイア戦争で活躍したオデュッセウス、アキレス、アガメムノン王などは有名です。
トロイア戦争でミケーネ川が勝利した事で、エーゲ文明の世界はミケーネ文明の勢力が統一したわけです。
これが1200年頃だとされています。
ミケーネ文明の勢力はエーゲ海周辺だけに留まらず、シリアにまで植民地を持っていたと考えられています。
エーゲ文明の滅亡
ミケーネ文明がエーゲ海周辺を統一し、ミケーネ文明の全盛期が来たと思うかも知れません。
しかし、ミケーネ文明がエーゲ文明を統一した紀元前1200年頃に再び世界は混乱の時代に突入しました。
北方からドーリア人がバルカン半島に向かって侵略を始めたわけです。
エーゲ文明の西部は大混乱となります。
エーゲ文明は青銅器の文明でしたが、ドーリア人は鉄器を持っており、エーゲ文明の西部を荒しまわりました。
アカイア人たちは、ドーリア人により駆逐され、エーゲ文明東部地域であるアナトリア半島西部に移り住む事になります。
アイオリス人がエーゲ海東部のアナトリアに移り住んだ場所が、アイオリス地方と呼ばれる様になります。
アッティカ半島にいたイオニア人達がアナトリアに移り住んだ場所が、イオニア地方と呼ばれる様になりました。
北方からやってきたドーリア人はペロポネス半島まで進撃し、クレタ島も通過し、アナトリア半島の南西にまで到達しました。
ドーリア人がアナトリア半島で移り住んだ場所が、ドリス地方と呼ばれる事になります。
ドーリア人の侵入により少数民族なども含めて大混乱となり、難民となったりしてエジプト新王国やヒッタイト帝国などに侵入しました。
これが海の民です。
エジプト新王国では全盛期は過ぎていましたが、ラムセス三世の奮戦により海の民を撃退しますが、ヒッタイト帝国は既に弱体化しており滅亡しました。
これが紀元前1200年のカタストロフと呼ばれる事件となります。
メソポタミアのカッシート王国も滅亡し、新時代へと突入しました。
紀元前1200年のカタストロフにより、世界規模の混乱があったと言えるでしょう。
暗黒時代に突入
エーゲ文明が破壊された紀元前1200年から750年頃までを暗黒時代と呼び、別名が初期鉄器時代です。
暗黒時代の名前の由来はエーゲ文明の中で最後に残ったミケーネ文明が崩壊し、資料が極端に少なる事に由来しています。
暗黒時代では線文字Bも見られなくなっていきます。
ただし、暗黒時代の年月に関しては諸説があり、紀元前1200年から100年ほどだとする意見もあります。
紀元前1200年からの100年を暗黒時代とするのは、余りにも混乱が酷かったのか文献が全く見つからないからです。
エーゲ文明が崩壊する紀元前1200年からの100年間は全くと言ってよい程に分かっている事がありません。
それでも、紀元前1200年からの100年間の間に、エーゲ文明の時代からギリシア文明の時代へと移行したと言えるでしょう。
時代はギリシアのアテナやスパルタを代表するポリスの時代へと移行しました。