名前 | 赤松則祐(あかまつそくゆう・のりすけ) |
生没年 | 1318年?ー1378年?(異説あり) |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
一族 | 父:赤松円心 配偶者:佐々木道誉の娘 |
兄弟:範資、貞範、則祐、氏範、氏康 | |
子:義則、時則、満則、持則、義房、有馬義祐 | |
祐秀、細川頼元の正室 養子:直頼・範実 | |
年表 | 1355年 神内山合戦 |
コメント | 幕閣としての立場を築いた |
赤松則祐は赤松円心の子で、赤松氏の惣領になった人物でもあります。
護良親王の側近として、鎌倉幕府滅亡の戦いでも活躍しました。
赤松氏の惣領になれた理由ですが、足利尊氏が兄の範資や貞範を好かず、赤松則祐を惣領にしたとも伝わっています。
観応の擾乱では興良親王を擁立し突如として、南朝に鞍替えしますが、直ぐに幕府に帰順しました。
神内山合戦でも活躍し、足利義詮の信任を得る事になります。
細川清氏が京都に侵攻して来た時に、幼子の足利義満が赤松氏の本城である白旗城に入り、正月に「松ばやし」を楽しんだ話があります。
赤松則祐は佐々木道誉の娘婿でもあり、幕閣としての立場を固めた人だとも言えるでしょう。
尚、赤松則祐の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
比叡山に入る
赤松則祐は赤松円心の三男であり比叡山に入る事になります。
赤松則祐には兄の赤松範資もおり、後継者候補にもなっておらず比叡山に入る事になったのでしょう。
しかし、比叡山での赤松則祐は孫子や呉氏を好み三略、六韜を学んだと言います。
太刀打ちの修業をするなど出家する者とは思えない様な活動を見せたわけです。
これらは後に来る大戦で役立つ事になります。
赤松則祐と護良親王
赤松則祐は比叡山に入り律師妙善と名乗っていました。
比叡山には後醍醐天皇の皇子である護良親王が天台座主を務めており、ここで赤松則祐と護良親王は知り合ったと考えられています。
赤松則祐は護良親王の側近となり、活動を行う事になります。
護良親王を比叡山では武芸を行っていた事が分かっており、赤松則祐に目をつけていたのでしょう。
後醍醐天皇は倒幕を目指しており、護良親王と相談するなどしています。
後醍醐天皇は吉野に入る予定でしたが、予定を変更し笠置山で挙兵するも幕府軍の捕虜となりました。
護良親王は般若寺にいましたが、熊野を目指す事になります。
太平記を見ると、この時に護良親王に付き従った者の中に赤松律師則祐の名が見えます。
赤松則祐の忠義
護良親王は熊野を目指しますが、芋瀬の庄司を味方に付けようとしました。
芋瀬の庄司は護良親王を通す事も可能だが、鎌倉幕府への言い訳も必要であり、共の者を一人か二人引き渡すか、護良親王の紋章入りの旗を貰い受け合戦した証拠にしたいと告げたわけです。
この二つのどちらかを選択しなければ合戦するしかなくなると述べました。
護良親王は迷いますが、赤松則祐が前に進み出ると、漢の紀信が劉邦の身代わりとなり命を落とした話や、魏豹が城に留まり討死した話をしています。
赤松則祐は護良親王が通過できるのであれば「自分がここに留まるのはたやすい事」と述べました。
赤松則祐は護良親王の身代わりになる覚悟を示したわけです。
ここで平賀三郎が進み出て「錦の御旗」を芋瀬の庄司に渡す様に進言しました。
護良親王は赤松則祐を引き渡さず、錦の御旗を芋瀬の庄司に渡し通過させて貰っています。
尚、ここで引き渡した「錦の御旗」は直ぐに村上義光が取り返しました。
太平記には護良親王が赤松則祐を孟施舎と同じ忠義を持っていると褒め称えるシーンもあります。
さらに、護良親王は平賀三郎の知恵は陳平に匹敵すると述べ、村上義光の武勇も褒め称えました。
護良親王は赤松則祐、平賀三郎、村上義光の三名がいて、天下を治められないはずがないと豪語しています。
赤松氏が倒幕に舵を切る
赤松則祐は吉野・戸津川での困難を潜り抜け、父親である赤松円心の元に護良親王の令旨を届けました。
赤松円心は倒幕に舵を切り挙兵する事になります。
楠木正成や護良親王の奮戦もあり、後醍醐天皇も幽閉先の隠岐を脱出しています。
六波羅探題は赤松円心を討つべく摂津国摩耶城へ兵を進めました。
この時の赤松軍の中には則祐もおり、兄の赤松範資らと共に奮戦する事になります。
赤松勢の京都侵攻
赤松勢は六波羅探題の軍勢を摩耶城の付近で打ち破り、城に引き上げようとしますが、ここで赤松則祐が京都に進軍する様に進言しました。
赤松則祐は勝ちに乗じて都に進軍すれば、一戦で六波羅を落せると述べたわけです。
太公望の兵法や張良の名前も出し進言すると、皆の賛同を得て赤松軍は京都に向かって進軍する事になります。
六波羅探題の軍勢と矢合戦となりますが、赤松則祐は敵陣に突撃を仕掛けようとし、父親の赤松円心に止められたりもしています。
しかし、赤松則祐は太公望のすばやく味方の有利に乗じ敵の不意を撃て」の言葉を引用し、馬に鞭を入れて突撃を敢行しました。
さらに、味方が続くと敵の2万の兵がたじろぎ、赤松範資や赤松貞範らも攻撃に加わり、六波羅軍を敗走させる事になります。
ここで赤松則祐と貞範は追撃を過度に行い気が付けば六騎ほどしかいない状況でした。
赤松則祐と貞範は幕府軍の潜り込むなどし、何とか脱出しています。
赤松氏は初戦では勝利しましたが、結局は六波羅の大軍を相手に歯が立たず敗れました。
しかし、流れは倒幕に傾いており足利尊氏が後醍醐天皇の味方となり、千種忠顕らと共に六波羅探題を滅ぼしています。
新田義貞も鎌倉を陥落させ鎌倉幕府は滅亡しました。
護良親王の最後
倒幕の大功労者である護良親王は、後醍醐天皇により征夷大将軍となりましたが、足利尊氏との対立もあり鎌倉に幽閉されました。
北条時行による中先代の乱で鎌倉の陥落が確実となった時に、足利直義は護良親王を殺害した上で鎌倉を明渡しています。
こうした事情からは赤松則祐は、足利直義を恨んでいたのではないかとも考えられています。
ただし、赤松則祐は父親の赤松円心と共に足利尊氏を支持し続けている現状もあります。
播磨守護と赤松氏惣領
1350年に父親の赤松円心が没しました。
既に赤松範資は摂津守護となっていましたが、赤松円心の死により播磨守護も兼ねる事になります。
しかし、赤松範資も翌年に亡くなっており、摂津守護は子の赤松光範が継ぎますが、播磨守護に赤松則祐が補任されました。
さらに、赤松氏の惣領を赤松則祐としたわけです。
赤松則祐には兄の赤松貞範もいましたが、室町幕府との折り合いが悪く赤松則祐が播磨守護及び惣領になったとも言われています。
ただし、赤松則祐の妻は佐々木道誉の娘でもあり、赤松則祐の播磨守護及び惣領就任に大きく関係したともされています。
観応の擾乱
尊氏派として行動
足利直義と高師直の対立から観応の擾乱が勃発し、足利直義が失脚しました。
足利尊氏と高師直は九州の足利直冬討伐に向かいますが、足利直義が大和で挙兵し桃井直常の助けなどもあり、京都を掌握しています。
播磨では直義派の石塔頼房が滝野城におり、足利尊氏が攻撃しますが、戦いは膠着状態となります。
これが光明寺合戦ですが、赤松則祐も尊氏派として参戦しました。
ここで赤松則祐は白旗城に戻る事になります。
足利直義の軍勢が摂津に進むとする情報が入り、最終的に打出浜の戦いとなります。
打出浜の戦いは足利直義の圧勝であり、和議は結ばれましたが高師直、高師泰の兄弟が世を去りました。
南朝に鞍替え
足利直義は南朝の北畠親房と交渉に入りますが、不調に終わっています。
室町幕府内では足利義詮が直義を嫌い、直義は引退を申し出るも足利尊氏が引き留めるなどしました。
こうした中で播磨の赤松則祐は近江の佐々木道誉と共に、南朝に鞍替えしています。
この時に赤松則祐は南朝の護良親王の遺児である興良親王を擁立し、南朝に寝返ったわけです。
佐々木道誉の娘婿が赤松則祐であり、佐々木道誉と赤松則祐は繋がっていたのでしょう。
赤松則祐と佐々木道誉が播磨と近江で反旗を翻した事で、足利尊氏が近江に出奔し、足利義詮が播磨に出陣しました。
軍忠状などから赤松則祐が、摂津や播磨で交戦状態にあった事も分かっています。
気が付いてみれば尊氏派の諸将は京都を出て東西に出陣していたわけです。
足利直義は尊氏と義詮の出陣は京都にいる自分を討つ為ではないかと疑い、越前に出奔しました。
赤松則祐が南朝に鞍替えした理由
赤松則祐が室町幕府に反旗を翻した理由ですが、太平記では赤松則祐が興良親王を擁立するのを、足利尊氏が容認していた様な記録があり、陰謀があったのではないかとも考えられていました。
しかし、渡邊大門氏は書籍・赤松氏五代の中で越前にいる直義の元に播磨の武士である広峯、英保、佐谷、志方らが直義の味方をした事に目を付けています。
赤松則祐の弟に赤松氏範がおり、赤松円心が亡くなると南朝に与する事になります。
赤松氏範が南朝に味方したのは、赤松則祐との確執があったからだとも言われていますが、兄と弟であり南朝とのパイプがあったのではないかともされています。
つまり、足利直義が支持力を失う中で足利尊氏や義詮に支持が集まり、尊氏派と直義派が拮抗し、幕府内で再び対立が起こると考え、赤松家臣団に動揺が走り多くの者の突き上げにより、赤松則祐は南朝に与したのではないかとも考えられるわけです。
赤松則祐は尊氏を支持したかったが、家臣団に押されて興良親王を擁立した可能性もあります。
足利尊氏と和睦
足利直義が北陸に移ると、足利尊氏は法勝寺の恵鎮上人を吉野に派遣するなど、交渉を行わせています。
園太暦によると交渉は不調に終わった様ですが、足利尊氏は二階堂行綱を赤松則祐の元に派遣しました。
ここで赤松則祐と足利尊氏が和睦したと考えられています。
赤松則祐はこの後に上洛し、足利尊氏の南朝との交渉を助けたとも考えられています。
正平一統
赤松則祐の貢献もあり、足利尊氏は南朝との和睦に成功しました。
南朝の後村上天皇は足利尊氏に足利直義追討の綸旨を発行しています。
これが正平一統であり、室町幕府が南朝に降伏した事で北朝が消滅し、南北の朝廷が一つになったわけです。
ただし、赤松則祐は興良親王を擁立してはいましたが、その心は足利尊氏にあった様です。
足利尊氏は東征を行い関東にいる足利直義を降伏させました。
しかし、正平一統は呆気なく破棄され、南朝の軍が京都に侵攻し、足利義詮は光厳上皇らを置き去りにして近江に逃亡しています。
関東では足利尊氏が武蔵野合戦で勝利すると、足利義詮も京都奪還に動き、これに協力したのが赤松則祐です。
この時点で赤松則祐は室町幕府の武将となり、興良親王とは決別しました。
南朝の軍は八幡合戦で破れ賀名生に撤退しています。
この後も赤松則祐は播磨や摂津で赤松光範や赤松貞範らと、共に南朝の軍と戦っていた事が分かっています。
義詮への救援
文和二年(1353年)6月に南朝の山名時氏、石塔頼房、楠木正儀らが京都を攻撃し、足利義詮は後光厳上皇を連れ京都から撤退しました。
この時に赤松則祐が義詮を助けるために、備前国守護の松田盛朝と共に救援に向かいますが、間に合わなかった話があります。
足利義詮が京都を放棄していた事もあり、赤松則祐は播磨に撤退しました。
しかし、赤松則祐は石橋和義と共に摂津入りし、再び京都奪還を目指す事になります。
足利義詮は反撃に移り、山名氏らを京都から駆逐しています。
後光厳天皇の要請もあり、足利尊氏は関東から近畿に戻り、幕府勢力に勢いが付き南朝は不利な立場となって行きました。
石塔頼房との戦い
足利直冬は直義の養子ではありましたが、九州での戦いに敗れて南朝に降伏しました。
大内弘世や山名時氏の支援により、京都に侵攻し文和東寺合戦が勃発する事になります。
この時に但馬の石塔頼房が播磨に侵攻してきました。
義詮も播磨国弘山に出陣しています。
大屋荘で戦いとなり、石塔氏の勢力を破った話があります。
この戦いで安積盛兼の活躍もあり、石塔頼房を破りました。
神内山合戦
足利直冬の軍勢は山名時氏と共に、京都を占拠しました。
足利尊氏は京都を明渡し東に移る事になります。
こうした中で足利義詮や赤松則祐が西から京都に侵入し、足利尊氏が東から攻撃を仕掛けました。
室町幕府の軍と南朝の軍は、京都や周辺地域で戦う事になります。
神内山合戦が勃発し、太平記では赤松則祐が足利義詮を救う活躍を見せ、山名氏や楠木氏の軍に大打撃を与えました。
足利尊氏も文和東寺合戦で勝利し、京都奪還に成功しています。
尚、足利尊氏は延文三年(1358年)に亡くなっており、足利義詮が後継者となりました。
赤松則祐は引き続き義詮に仕える事になります。
松ばやし
1361年までに仁木義長や細川清氏が室町幕府内で居場所を無くし、南朝に走りました。
南朝に所属した細川清氏や楠木正儀らは京都に侵攻し、足利義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れています。
この時に足利義満はまだ四歳であり、建仁寺大龍庵の蘭州良芳の手引きで、赤松則祐の白旗城に匿われています。
この時に赤松氏の家臣団は義満の為に、赤松円心の命日である正月十三日に「松ばやし」を演じました。
松ばやしは笛や太鼓をならし踊る芸能です。
足利義満は松ばやしを多いに気に入り、正月の慣例行事として京都の赤松邸で催される事になります。
義満を「則祐の養君」とした記録もあり、足利義満と赤松則祐は近しい関係になったのでしょう。
禅律方引付頭人に就任
足利義詮が亡くなると、若年の足利義満に代わり、細川頼之が政務を行う時代になりました。
花営三代記によると、応安三年(1370年)9月に禅律方引付頭人に就任したとあります。
禅律方引付頭人は禅宗、律宗寺院や僧侶関係の訴訟を扱う機関となります。
ただし、禅律方引付頭人は不明な点も多いのが現状です。
禅律方引付頭人は足利直義が政務を行っていた時代に誕生しており、藤原有範が務めた役職でもあります。
しかし、足利直義の失脚と共に形骸化されたとも言われています。
赤松則祐が禅律方引付頭人に任命されたのは禅宗に関する造詣の深さと、今までの功績により就任したとされています。
赤松則祐は夢窓疎石を師事した義堂周信とも交流があり、禅宗とは深い結びつきがあったのでしょう。
赤松則祐の最後
赤松則祐は赤松氏の幕閣における地位を揺るぎないものとしました。
赤松円心の様な派手さはないのかも知れませんが、赤松氏の礎を作った様な人物だと言えるでしょう。
臨終の際には臨済宗の太清宗渭に末期の説法を依頼し「大恵書」の講義を受け、問答を終えた後に世を去ったと言います。
近衛道嗣は愚管記の中で、次の様に述べています。
※南北朝武将列伝北朝編(戎光祥出版)より
立派で優れた大名であり、武家に対する忠功は特別の者だ。惜しいことだ。
近衛道嗣が如何に赤松則祐の死を惜しんだのかが分かるはずです。
尚、赤松則祐が亡くなった年に関しては、諸説がありはっきりとしない部分があります。
赤松則祐の動画
赤松則祐のゆっくり解説動画です
この記事及び動画は赤松氏五代(ミネルヴァ書房)及び南北朝武将列伝北朝編(戎光祥出版)をベースに作成しました。