室町時代

石橋和義は栄光と挫折を味わった

2025年1月25日

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宮下悠史

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名前石橋和義
生没年不明
時代南北朝時代
一族父:足利義博 子:棟義、義幸
年表1336年 三石城の戦い
1337年 南都大将に就任
1354年 室町幕府評定衆の筆頭となる
コメント栄光と挫折を味わった人物

石橋和義は足利一門の中でも名門として生まれました。

斯波氏や吉良氏と同様に石橋氏は足利一門の中でも、かなり家柄がよかったと言えるでしょう。

石橋和義は足利尊氏が九州に逃れた時は、備前の三石城に籠城し脇屋義助の軍勢を寄せ付けない戦いを見せています。

その後も幕府の引付頭人になるなど功績を挙げ続け、室町幕府の評定衆の筆頭にも選ばれました。

しかし、足利義詮の時代に斯波高経との対立により若狭守護を解任され、失脚すると幕府中枢から外れる事になります。

この後に石橋和義は息子の石橋棟義がいる奥州に向かう事になります。

石橋和義は名門の出身であり地道に功績を挙げ続け栄光を掴んだと思ったら、政争により一気に失脚してしまったと言えるでしょう。

尚、石橋和義の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

名門の家柄

石橋氏は足利一門の中では斯波氏の兄の系統でもあり、石橋和義は名門の出身という事になります。

足利氏第四代・足利泰氏の子が足利家氏と足利頼氏であり、足利頼氏の系統が宗家の足利尊氏に繋がり、足利家氏の家系が斯波氏と石橋氏に分かれました。

室町時代に活躍する細川氏や仁木氏、一色氏の家格が低かったのに対し、石橋氏は足利一門の中でも家格が高かったと言えます。

石橋和義の生没年は不明ですが、足利尊氏とは同世代だとされています。

三石城籠城戦

1333年に鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、1335年に中先代の乱が勃発し足利尊氏が建武政権から離脱しました。

足利尊氏は新田義貞の軍を箱根竹ノ下の戦いで破ると、京都に進撃しますが北畠顕家らの軍に敗れています。

足利尊氏は赤松円心の進言もあり播磨国室津から九州を目指しますが、一門の石橋和義を備前の責任者とし後方を任せました。

石橋和義は児島で足利尊氏の戦勝祈願を行ったりし、三石城に入る事になります。

石橋和義は軍勢催促を行ったり安養寺に土地を寄進するなどしました。

足利尊氏への追撃軍として新田義貞や弟の脇屋義助が派遣されますが、石橋和義は赤松円心と共に敵を食い止める事になります。

石橋和義は三石城を脇屋義助に包囲されますが、限りある兵糧の中で耐え凌いでいます。

足利尊氏は九州の多々良浜の戦いで勝利しており、石橋和義は足利尊氏の上洛を促しました。

足利軍は四国の細川和氏や細川顕氏の軍とも合流し大軍となり、三石城に迫ると新田軍は撤退しています。

足利尊氏が九州で復活するだけの時間稼ぎをした石橋和義や赤松円心は見事な活躍をしたと言ってもよいでしょう。

安養寺の奇跡

石橋和義は足利尊氏が九州で態勢を立て直すまでの、時間稼ぎに成功する大功を挙げますが、戦いに前に備前安養寺に祈祷依頼をした話があります。

安養寺の者達が山王宝前で祈ったところ、7日目結願の日、社頭が鳴動し強風が吹き荒れ三流の白旗が虚空に現れる奇跡が起きたと言います。

この奇跡は後の石橋和義の三石城籠城戦の勝利と、足利尊氏の九州再起の成功を予言した話にもなっています。

尚、足利尊氏が九州に落ち延びる時に、播磨国の石清水八幡宮から一流の白旗が飛んできた話しにも繋がっています。

因みに、白旗の話から赤松城は白旗城と呼ばれる事にも繋がりました。

南都大将と伯耆・備後守護

後醍醐天皇は足利尊氏により幽閉されますが、吉野で南朝を開く事になります。

これにより南北朝時代が始まりました。

南北朝時代が始まると石橋和義は室町幕府の配下の武将として南都大将となり、伯耆守護にも任命されています。

南都大将となった石橋和義は奈良の警護や吉野や河内にも出兵しました。

越前国で南朝の新田義貞と幕府の斯波高経が争うと、石橋和義は隣国の若狭に出兵しています。

ただし、石橋和義が若狭に遠征している時に、新田義貞は不慮の事故で世を去りました。

1339年までには備後守護にも任命された事が分かっています。

1341年頃から石橋和義は幕府の引付頭人となり所務沙汰を扱う役職にも就任しました。

他にも、幕府の官途奉行にもなっており、足利直義の下で働いています。

尚、石橋和義が足利直義の元で仕事を行うのは、足利直義と近い立場にあったからでしょう。

また、1344年頃に足利尊氏、直義、斯波高経、吉良満義、吉良貞家ら足利一門が勝尾寺の行事に参加しており、この中には石橋和義もいました。

1345年の天龍寺落慶供養の行事にも参加しています。

後醍醐天皇が崩御し南朝の驚異が激減した事で、石橋和義は幕府の中枢で職務を行う様になっていったのでしょう。

観応の擾乱

室町幕府では足利尊氏高師直の対立があり、両派に分かれて対立しました。

太平記の記述を見る限りでは、石橋和義は足利直義を支持していた様です。

しかし、執事職を解任された高師直が激怒し御所巻を行った事で足利直義が出家し、高師直が政務に復帰しました。

こうした中で九州では足利直冬の勢力が拡大し一色道猷も追い詰められ、足利尊氏は高師直と共に九州征伐に出かける事になります。

足利尊氏や高師直が京都から離れると、足利直義は大和で挙兵し、さらに南朝にも降伏し一大勢力を成しました。

足利尊氏は九州遠征を取りやめ備前、備中、備後に軍勢の一部を配置しています。

この時に、足利尊氏は備前を石橋和義に任せました。

石橋和義は過去に備前の三石城の戦いで脇屋義助の軍を撤退に追い込んでおり、地元の有力者との繋がりも考慮し、備前を石橋和義に任せたのでしょう。

石橋和義は太平記の記述で最初は直義と近しい立場でしたが、この頃には足利尊氏に従っている事が分かるはずです。

石橋和義の出家

打出浜の戦いが終わると高師直は世を去りますが、足利尊氏と直義の間で和睦が成立しました。

和睦が成立すると石橋和義は京都に戻り再び引付頭人となります。

石橋和義はこれまでの功績が認められ四位となりますが、幕府内では足利義詮足利直義の対立が勃発しました。

こうした状況の中で石橋和義は突如として出家し「心勝」と名乗りました。

石橋和義が出家した正確な理由は不明ですが、足利尊氏と足利直義の両方に親しかった事で、心に迷いがあったのでしょう。

こうした中で足利直義が北陸に移動し関東に入りますが、石橋和義は足利尊氏及び義詮の支持を明確に打ち出しました。

山名氏との戦い

観応の擾乱は足利直義足利尊氏に敗れて亡くなった事で終幕となりました。

足利尊氏が関東に入った事で、東国を足利尊氏、西国を足利義詮が見る体制となります。

石橋和義は京都におり再び引付頭人としての活動が見られる様になります。

ここで山名氏が備前国の鳥取荘に侵攻した情報が入ってきました。

備前は石橋和義と縁が深い地域であり、石橋和義は山名氏と戦う為に京都から出撃しました。

備前国迫山で三備の軍勢と共に、敵と合戦し辛くも相手を没落させる事に成功しています。

1353年に山名氏が京都に向かって侵攻しますが、松田信重や赤松則祐と協力し敵を破りました。

石橋和義の絶頂期

足利尊氏は関東を足利基氏畠山国清に任せ京都に帰還しました。

この時に石橋和義は、これまでの功績を評価され室町幕府評定衆の筆頭に就任しています。

石橋和義は執事の仁木頼章や幕府重鎮の佐々木道誉、土岐頼康らを差し置いて、幕府評定衆の筆頭になったわけです。

足利尊氏や義詮は石橋和義の家柄の良さや、引付頭人としての職務態度や軍功などを考慮し最高位の位に就けたのでしょう。

1358年に足利尊氏が亡くなり足利義詮が後継者となります。

この時に義詮の代理人として足利一門を代表し石橋和義が北朝の朝廷に参上しました。

石橋和義は後光厳天皇に謁見する事になります。

洞院公賢は「将軍の一族として参内し天皇と対面するというのは、通常ならありえず、名誉な事である」と記録しています。

石橋和義が幕府内で如何に名声が高かったのか分かる話でもあります。

石橋和義の没落

1358年に足利尊氏が亡くなった時に、執事の仁木頼章が出家し細川清氏が同職を継承しました。

しかし、細川清氏は政争に敗れて失脚しています。

細川清氏は若狭守護でしたが、これを機に石橋和義が若狭守護となります。

新たなる管領には13歳の斯波義将がなり、後見人として斯波高経が実権を握りました。

過去に新田義貞との戦いでも斯波高経と石橋和義は共闘しており、関係は問題ないかに思われました。

しかし、石橋和義は佐々木道誉と共に斯波高経と対立する事になります。

斯波高経との間で政争が勃発しますが、勝利したのは斯波高経であり石橋和義は若狭守護の位を解任されました。

新たに若狭守護となったのは斯波高経です。

これにより石橋和義は幕府の中枢から外れる事になります。

順調に功績を挙げ続けて来た石橋和義は挫折を味わったとも言えるでしょう。

石橋和義の最後

幕府内で干されてしまった石橋和義は奥州に向かいました。

石橋和義の子の石橋棟義は足利義詮から奥州総大将に任命されており、石橋棟義を助けるために奥州に向かったのでしょう。

室町幕府の奥州支配は石塔義房に始まり斯波直持、吉良満家の奥州探題二人制があり、吉良満家が亡くなると吉良氏が分裂し争うなどしました。

苛烈な奥州戦線に石橋和義も加わる事になります。

その後の石橋氏は陸奥国塩松に土着したグループと帰京し吉良氏、渋川氏と共に足利御三家となるグループに分かれました。

石橋和義は足利義満の時代である1381年頃まで活動が見られており、高齢になっても戦い続けたと考えられています。

石橋和義の生没年は不明ですが、80歳を超えても戦い続けたともされているわけです。

歌人・石橋和義

石橋和義は足利一門であり数多くの功績を挙げました。

一時は室町幕府の評定衆の筆頭になるなど栄光を掴みましたが、斯波高経との対立により一気に失脚してしまったわけです。

栄光と挫折を味わったとも言えるでしょう。

積み上げた栄光が達磨落としの様に一気に崩れてしまったわけです。

石橋和義が自らの人生を歌にした様なものが新後拾遺和歌集に残されています。

※南北朝武将列伝北朝編より

聞くだにもあやふき淵の薄氷臨むに似たる世を渡る哉

(聞くだけでさえ危険な淵の薄氷に臨むようなものに似ている。

そんな世の中を渡っているのだなあ)

谷口雄太氏は石橋和義の人生は、この言葉に凝縮されている様に感じずにはいられないと述べています。

石橋和義の動画

石橋和義のゆっくり解説動画です。

この記事及び動画は南北朝武将列伝北朝編をベースに作成してあります。

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