
アマル・シンはウル第三王朝の三代目の君主となります。
彼の後世の評価は非常に低く「無能」扱いされていますが、実際に残っている行政文書を見ると、父親のシュルギの政策を継承し無能とする姿は見られません。
アマル・シンの実情としては、政治には精力的だった可能性も残っています。
ただし、シュ・シンとの対立や妻のアビシムティがアマル・シンを支持しなかった事は、マイナスポイントだと言えるでしょう。
アマル・シンの最後はよく分かっていませんが、シュ・シンとの内部抗争に敗北した事だけは間違いありません。
アマル・シンの即位
シュルギが亡くなると、アマル・シンが後継者として即位しました。
アマル・シンという名前は「シン神の若牛」という意味を持ちます。
ここで注目すべき点は、「シン」がウルの都市神ナンナのアッカド語読みであるということです。
一方で、名前の前半部分である「アマル」はシュメール語「若い雄牛」を意味します。
つまり、アマル・シンという王名は、シュメール語(アマル)+アッカド語(シン)という混成構造になっているのです。
このことは、ウル第三王朝期のシュメール人が、日常的にアッカド語を使用していた可能性が高いことを示唆しています。
アマル・シンによる統治
後継者となったアマル・シンは、父シュルギの遺志を継ぎ、その強固な支配体制をさらに盤石なものにしようと考えていました。
しかし、後代の文書ではアマル・シンの評価は極めて低く、「無能で、神々からの庇護すら得られなかった」とする記録が残されています。
実際には、アマル・シン時代の行政文書は数多く残っており、ウルやウルクの主要神官の任命を慎重に行い、形式の整った行政文書を発行していたことが確認できます。
これらの史料からは、アマル・シンが父シュルギの行政制度を忠実に継承し、シュルギの時代からのアムル人問題などは依然としてあったものの、王国の統治を比較的安定して維持していた姿が浮かび上がります。
そのため、後代の記録に見られるような「能力の低い王」という評価は、実像とは大きく異なっていた可能性が高いと考えられます。
ただし、アマル・シンの治世5年目から、アムル人からのグナ貢納が途切れたという記録も残っています。
グナ貢納とは、周辺地域の支配者がウル第三王朝の貢納する年貢のことを指します。
アマル・シンの最後
アマル・シンの治世7年目くらいになると弟(子とする説もある)の、シュ・シンと対立する事になります。
ウル王家の内部争いとなりますが、妻のアビシムティがシュ・シンに味方しました。
アマル・シンとアビシムティの夫婦仲は、冷めきっていたのかも知れません。
こうした混乱の中で、アマル・シンは在位9年目に亡くなります。
その最期がどのようなものであったかは史料からは明らかではありませんが、後世の占い文書には「彼は不運な死を遂げた」と記されています。
また、アマル・シンはウル第三王朝の王の中で唯一、王賛歌(王を称える公式詩)が残されていません。
この点からも、シュ・シンとの政争に敗れ、政治的に失脚した状態で生涯を終えた可能性が高いと考えられています。