
シュ・シンはウル第三王朝の四代目の君主です。
父親はシュルギで兄はアマル・シンだと考えられています。
シュ・シンはアマル・シンと対立しますが、最終的に勝利しました。
しかし、流入が続くアムル人問題があり、シュ・シンは対策に追われる事になります。
それでも、シュ・シンの時代まではウル第三王朝は強大だったとする見解もある状態です。
シュ・シンの子のイビ・シンの時代に、ウル第三王朝は滅亡しました。
内部抗争
シュ・シンという名前には「シン神の者」という意味があります。
シュ・シンは「アマル・シンではなく、自分こそがウル第三王朝の王にふさわしい」と主張し、王位奪取を狙っていたとされています。
このシュ・シンについては、アマル・シンの弟であるとする説や子であるとする説があり、系譜関係は明確ではありません。
アマル・シンとシュ・シンの対立は、治世7年目頃から表面化したと考えられています。
さらに、アマル・シンの王妃アビシムティがシュ・シンを支持していたとされ、宮廷内部の権力構造は複雑化していきました。
こうした中でアマル・シンは在位9年で亡くなりました。
結局、シュ・シンは王位に就くことはできたものの、正当な王位継承者としては見なされなかったと考えられています。
シュ・シンの治世
シュ・シンの治世には、アムル人など外部勢力との緊張が高まり、その脅威に対抗するために「マルトゥの城壁」が建設されました。
これはメソポタミアの西方から侵入する遊牧民を防ぐ目的で築かれたものです。
しかし、この城壁は必ずしも十分な効果を発揮したとは言えません。
アムル人がどの方向から侵入してくるのか予測が難しく、城壁を迂回して侵入することも可能だったためです。
本来、平和な時代であればメソポタミアではジッグラトの建設など宗教的・文化的事業が進められる傾向にあります。
しかし、シュ・シンの時代に城壁建設が優先されたことは、外部の脅威が非常に強かったことを示していると言えるでしょう。
シュ・シンに関しては、シマシュ征服の碑文を残したという記録があり、また、軍事・行政の組織再編を強化したという話も存在します。
シュ・シンは仕組みを時代に合ったものに改革し、ウル第三王朝を運営しようとしていたのかもしれません。
シュ・シンの妃はクバティムという人物であったとされ、二人の間には相聞歌が多く残されています。
これらの詩歌は、単なる私的な恋愛表現ではなく、王と女神の結合を象徴する「聖婚」の儀式を反映したものと考えられることが多いです。
シュ・シンの最後
シュ・シンが亡くなった治世9年目には、王妃クバティムも同じ年に亡くなっています。
この同時期の死は偶然ではなく、ウル第三王朝における殉死の慣習と関係していると考えられています。
ウル第三王朝では、王が死去した際にその妻が殉死するという慣習が一般的であったとされ、そのため王妃クバティムの死も、この伝統に従った結果である可能性が高いと見られています。
ちなみに、先代アマル・シンの王妃アビシムティもシュ・シンの死に際して殉死しています。
アビシムティは一大遅れの殉死だったと言えるでしょう。