
| 名前 | アッシュル・ウバリト1世 |
| 生没年 | 紀元前1366年頃ー紀元前1318年頃 |
| 国 | アッシリア |
| 一族 | |
アッシュル・ウバリト1世は中アッシリア時代のアッシリア王となります。
シャムシ・アダドがアッシリアを興隆させますが、彼が亡くなると一気に弱体化しました。
アッシリアはミタンニ王国に服属するなどしますが、アッシュル・ウバリト1世になると再び興隆する事になります。
アッシュル・ウバリト1世はエジプト新王国とも交渉を行ったり、カッシート王国にも影響力を発揮しました。
彼の時代のアッシリアは勢力を拡大し、中アッシリアの興隆を促した君主だと言えるでしょう。
アッシリアの台頭とバビロニア文化
アッシュル・ウバリト1世によって独立を達成したアッシリアは、古代オリエントの新たな国際列強としての地位を確立すべく、積極的な外交戦略を展開していきました。
しかし、その急激な台頭は、既存の大国たちとの間に深刻な覇権争い(外交摩擦)を引き起こすこととなります。
贈与経済における黄金争議とアマルナ往復書簡の真実
アッシュル・ウバリト1世がエジプトのファラオ(アクエンアテン)へ送った手紙の中には、エジプト側から贈られた「黄金の量」に対して激しい不満を表明している記録が遺されています。
当時の古代オリエントにおける国際外交は、対等な大王同士が互いに莫大な贈り物を交換し合うことで自国の国際的地位を誇示し、主権を認め合う「王の利害関係(贈与経済)」によって成り立っていました。
したがって、アッシュル・ウバリト1世が「黄金が少ない」とエジプト側に抗議した文面は、単なる財欲や個人的なプライドの揺らぎによるものではありません。
エジプトがアッシリアに贈る黄金の量を制限することは、アッシリアを他の大国(ミタンニやヒッタイト)よりも格下の存在、すなわち「新興の二流国家」として低く見積もっていることの意思表示に他ならなかったためです。
彼はアッシリアが「国際列強(国際法上の大国)」であることを認めさせるため、戦略的に激しい抗議の書簡を送ったと考えられています。
カッシート王国の外交妨害と政略結婚
このアッシリアの覇権拡大(エジプトへの急接近)に対して、強烈な危機感を抱いたのが南メソポタミアを支配していたカッシート王国(バビロニア)のブルナ・ブリアシュ2世でした。
バビロニアとエジプトの伝統的な外交インフラを維持したいブルナ・ブリアシュ2世は、エジプトのファラオへ向けて「アッシリアは我が国の臣下にすぎない」という虚偽の主張を記した書簡を送信します。
さらにエジプトに対し、アッシリアの外交使節団を追い返すよう直接的に要請(妨害工作)を行いました。
エジプトとアッシリアが軍事同盟を結べば、カッシート王国が南北から挟み撃ち・壊滅に直面するため、何としてもこの接近を阻む必要があったのです。
しかし、実際のアッシリアはカッシート王国の属国でも臣下でもなく、圧倒的な軍事力を有する独立国家でした。
最終的にはカッシート王国もアッシリアの実力を認めざるを得なくなり、アッシュル・ウバリト1世の娘であるムバリタト・シェルアが、
ブルナ・ブリアシュ2世の元へと嫁ぐ国家的な政略結婚が成立することとなります。
カッシートの王位簒奪とアッシリアの傀儡統治
アッシュル・ウバリト1世の娘であるムバリタト・シェルアがカッシート王国(バビロニア)へ嫁いだことで、両国間には一時的な姻戚関係が構築されていました。
しかし、彼女の産んだカラ・ハルダシュがカッシート王に即位すると、国内の排他的な保守派豪族たちが激しい反発を起こし、王を暗殺するという最悪の国家クーデターへと発展します。
さらに、反乱勢力は素性不明のナジ・ブガシュを新たな王として擁立し、アッシリアの血を引く王統の完全な排除を画策しました。
孫の復讐にみる傀儡王立法の安全保障
この自らの血脈に対する裏切りと王位簒奪の暴挙にアッシュル・ウバリト1世は激怒し、カッシート王国への大規模な武力介入(軍事侵攻)を決断します。
アッシリアの精鋭常備軍は、圧倒的な機動力をもってバビロニアへと進撃し、簒奪者であるナジ・ブガシュの軍勢を完全に撃破してこれを処刑しました。
これは孫の仇を討つという大義名分(宗教的イデオロギー)を掲げながらも、その実態は「隣国の統治システムを力づくで自国のコントロール下に置く」という、高度な安全保障体制の構築でした。
アッシュル・ウバリト1世は、反乱軍を鎮圧した後に、カッシートの名君であったブルナ・ブリアシュ2世の息子、クリガルズ2世を新たなカッシート王としてバビロンの王位へ就かせました。
このクリガルズ2世がアッシュル・ウバリト1世の直接の息子(あるいは近親)であったのかどうかについては学術的な議論があり、正確な史料は不足しています。
しかし、アッシュル・ウバリト1世にとって最優先すべきは、血統の純粋さよりも「アッシリアの絶大な軍事援助(負債)によって王位に就いた、制御しやすい君主」をバビロニアの中枢に配置することでした。
これこそが、アッシリアにとって最も望ましい傀儡統治だったのです。
ただし、軍事面でバビロニアを圧倒したアッシリアですが、文化面ではカッシート王国が優勢であり、長きに渡り悩まされる事になります。
尚、アッシュル・ウバリト1世は紀元前1318年頃に亡くなったと考えられています。
アッシュル・ウバリト1世が構築した両国間の平和は、代替わりとともに急速に決壊を迎えることとなります。
アッシリアでは紀元前1307年、名君の血を引くアダド・ニラリ1世が王位を継承し、ここからアッシリアは再び急激に領土を拡張させる事になります。