
| 名前 | イシュメ・ダガン1世 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前1741年? |
| 国 | アッシリア |
| 一族 | 父:シャムシ・アダド 弟:ヤスマフ・アダド |
| 子:ムト・アシュクル、アシヌム | |
| コメント | 困難に耐えたアッシリア王 |
イシュメ・ダガン1世はシャムシ・アダドの子で、弟にヤスマフ・アダドがいます。
紀元前18世紀、メソポタミア北部に巨大な「上メソポタミア王国(古アッシリア)」を築き上げた名君シャムシ・アダドが崩御すると、
それまで圧倒的な軍事力で維持されていた王権の統治基盤は一気に瓦解へと向かうことになります。
後を継いだ長男のイシュメ・ダガン1世は、父の存命中から優れた武勇を発揮し、その軍事能力を高く認められていた優秀な武将でした。
しかし、偉大なカリスマを失った王国に巻き起こる周辺勢力の猛烈な反乱と、独立の機を伺っていた諸王国の旧領奪還の攻勢を食い止めることは、彼の武勇をもってしても極めて困難な状況でした。
それでも、イシュメ・ダガン1世は奮戦し、アッシリアの王統を次代に繋げたと考えられています。
尚、イシン第一王朝にもイシュメ・ダガンという君主はいますが、今回のアッシリアのイシュメダガンとは別人なので注意してください。
首都喪失とマリ王国の再興による西方の崩壊
シャムシ・アダドの崩御を契機として、西方の要衝であったマリ王国では、かつての王族の血を引くジムリリムが、隣国ヤムハド王国(現在のシリア地方)の強力な軍事支援を得て旧領奪還のために蜂起しました。
当時、マリの統治を任されていたイシュメ・ダガン1世の弟、ヤスマフ・アダドはこの猛攻を持ちこたえることができず、実質的に失脚して行方不明となります。
この西方の防衛線の決壊により、アッシリアは領土の西半分を一気に喪失することとなりました。
さらに動揺は王国の中枢へも波及し、正統な後継者であるはずのイシュメ・ダガン1世は、独自の王権を維持できず、新首都シュバト・エンリルや伝統的な聖地アッシュルへの進入すら阻まれる事態に陥ります。
彼はやむを得ず、自らが古くから本拠地としていたチグリス川沿いの都市エカラトゥムへと撤退しますが、この時点でアッシリアの支配領域は、父(シャムシ・アダド)の全盛期の半分以下にまで激減していました。
エシュヌンナの猛攻とハンムラビへの亡命外交
アッシリアの弱体化を見逃さなかったのが、東方の勢力であるエシュヌンナ王国の王、イバル・ピ・エル2世でした。
エシュヌンナ軍による苛烈な侵略により、イシュメ・ダガン1世はついに最後の拠点であったエカラトゥムさえも奪われ、完全に国を追われる身となります。
絶体絶命の危機に瀕したイシュメ・ダガン1世が逃げ込んだのは、南メソポタミアのバビロン第一王朝、すなわち頭角を現しつつあったハンムラビの元でした。
かつてシャムシ・アダドの時代には、アッシリアが宗主国としてバビロンに援軍を送るなどの友好関係があったため、イシュメ・ダガン1世はアッシリアの再興に向けた軍事援助を強く期待していました。
しかし、当時のバビロン第一王朝は未だメソポタミアの絶対的な大国とは言えず、自国の安全保障を最優先しなければならない状況でした。
ハンムラビは、東方から迫る強敵エシュヌンナの脅威に対抗するため、アッシリアの宿敵であるマリ王国のジムリリムと同盟を結ぶという二股外交を展開します。
そのため、亡命してきたイシュメ・ダガン1世への積極的な支援は行わず、情勢を静観することに徹したとされています。
エラムの台頭と奇跡的な復帰
列強の利害が複雑に絡み合う中、地政学的なパワーバランスを大きく変える「第三の勢力」が東方から出現します。
それが、メソポタミアの勢力を遥かに凌駕する軍事力を有していたイラン高原の「エラム王国」です。
当時のアムル系諸国の王たちは、互いを対等の存在として「兄弟」と呼び合っていましたが、超大国であるエラムの王に対しては服属の意を込めて「我が父」と仰がざるを得ないほど、エラムの力は突出していました。
このエラムが大規模なメソポタミア侵攻(ハブル三角地帯への侵略)を開始したことにより、アッシリアを圧迫していたエシュヌンナ王国の支配体制は紀元前1765年頃に急激に崩壊します。
この巨大勢力の混迷の覇権争いの隙を突き、イシュメ・ダガン1世は念願であった本拠地エカラトゥムへの復帰を果たすことに成功しました。
その後、イシュメ・ダガン1世はエラムの軍勢に捕らえられて拷問を受け、多額の身代金と引き換えに釈放されるという過酷な試練を経験することになりますが、なんとかエカラトゥムを死守し、アッシリアの王統を次世代へと繋ぐ強靭な生存能力を証明することとなりました。