名前 | 梅成 |
生没年 | 生年不明-209年 |
年表 | 209年 灊山の戦い |
梅成は正史三国志に名前が登場する人物で在り、揚州廬江の近辺で活動していたと考えられています。
ただし、梅成の実績で分かっている事は、西暦209年に陳蘭と共に灊山に籠り、張遼らと戦った事のみです。
梅成は灊山の戦い以外で分かっている事はありませんが、同じく正史三国志に登場する梅乾と同一人物説があります。
梅成と梅乾が同一人物だとされる理由は、過去に孫策が任命した廬江太守の李術が、揚州刺史の厳象を殺害した時に、陳蘭、梅乾、雷緒らが廬江の近辺で暴れ回りました。
灊山の戦いで共闘する陳蘭と梅乾が一緒に行動している事から、梅成と梅乾が同一人物とも考えられるわけです。
しかし、梅成と梅乾が同一人物だと言う確証はなく、実際には同じ一族であったかも知れませんし、名前が近い別人だという事も考えられます。
今となっては、真意は分からないというしかありません。
尚、先ほど名前が出た雷緒も、似た様な感じで雷薄と同一人物説があります。
反旗を翻す
西暦209年に梅成と陳蘭が曹操に対し、反旗を翻しています。
梅成が乱を起こした理由に関しては、過去に陳蘭は揚州刺史の劉馥に懐柔され帰順しました。
劉馥は恩徳を施した人物であり、信用できる人物だと判断したのでしょう。
しかし、劉馥は208年に亡くなっており、同年に起きた赤壁の戦いでは、孫権に敗れています。
こうした事で梅成らは不安定となり、梅成と陳蘭は六県の氐の居住地で、曹操に対し反旗を翻したと考えられます。
梅成は陳蘭と共に反旗を翻しますが、曹操は張遼、于禁、張郃、牛蓋(朱蓋)、臧覇らを討伐に差し向けました。
于禁と対峙
梅成と陳蘭は別々で陣を布いた様であり、梅成が于禁、臧覇と対峙し、陳蘭が張遼、張郃、牛蓋と対峙しています。
梅成は于禁・臧覇と戦う事になりますが、梅成の軍は兵が三千しかいなかった事もあり、于禁に降伏しました。
梅成が于禁に降伏した理由ですが、于禁は官渡の戦いや昌豨討伐で活躍しており、曹操軍の中でも屈指の名将として名が通った存在だったわけです。
梅成は于禁と正面から普通に戦っても勝ち目はないと判断し、降伏したのかも知れません。
しかし、梅成は本気で魏に臣従するつもりはなく、陳蘭と合流し灊山に籠城しました。
灊山は過去に陳蘭が雷薄と共に籠っていた場所であり、危機に陥った袁術が助けを求めますが、受け入れを拒否した場所でもあります。
梅成の相棒とも言える陳蘭が、灊山の周辺に関しては、地理的に詳しかった事は確実であり、灊山へ入る事にしたのでしょう。
さらに、梅成と陳蘭は呉の孫権に援軍要請し、孫権は韓当を派遣しますが、臧覇に敗れ呉の援軍は頓挫しました。
この戦いでは臧覇の采配が光り、後続として出て来た孫権の軍にも多くの損害を与えた記録が残っています。
梅成の最後
灊山に入った梅成ですが、灊山のさらに奥にある天柱山を本陣とし迎え撃つ事にしました。
天柱山は天然の要塞であり、砦に辿り着くには、狭く長い道を通る必要があったわけです。
攻撃する側の張遼が「ここの道は狭く1対1の戦いとなる。勇気がある方が勝利する」と述べた事から、隘路での戦いだったのでしょう。
灊山や天柱山は道が険しく狭いわけであり、張遼の軍が大軍であったとしても、一気に兵を繰り出す事が出来ず、梅成らにとっては地形効果を最大限に生かした場所だったとも言えます。
しかし、張遼が率いる兵士は強く、大軍を一気に繰り出せなくても、天柱山の麓まで辿り着き、一気に梅成や陳蘭を討ち取ってしまいました。
正史三国志の記録だと簡略ですが、実際には激戦が繰り広げられたのでしょう。
西暦209年の灊山の戦いで梅成は命を落とし、この世を去りました。