于禁 | 于禁(うきん) 字:文則 |
生没年 | 生年不明ー221年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
主君 | 鮑信→曹操→曹丕 |
年表 | 184年 黄巾の乱 |
198年 下邳の戦い | |
200年 官渡の戦い | |
219年 樊城の戦い | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
于禁は正史三国志に登場し、魏の五大将の一人にも数えられる人物です。
于禁の場合は関羽に敗れた最後ばかりがクローズアップされがちであり、名将というイメージを持っていない人も多いと感じています。
しかし、于禁の戦歴や曹操への貢献度を考えれば、終わりを全うできなかっただけであり、明らかに名将だと言えるでしょう。
曹操も于禁の能力を認めていたからこそ、樊城の戦いでの重要局面で曹仁への援軍として于禁を派遣したわけです。
正史三国志の著者である陳寿も于禁の最後が問題だっただけで、優れた指揮能力を持っていたと考え、魏の五大将のナンバー3としたのでしょう。
今回は最後を全うできなかった名将である于禁を解説します。
尚、于禁は正史三国志・魏書・張楽于張徐伝に于禁伝があり、下記の人物と共に収録されています。
鮑信に仕える
正史三国志によると于禁の出身地は泰山郡鉅平県だとあり、兗州の出身という事になります。
この時に鮑信の募兵に応じてやってきたのが、于禁だったわけです。
鮑信は曹操の能力を高く評価し、惚れ込んでいた様な人物であり、于禁が鮑信の配下となったのは運命じみたものを感じています。
鮑信は後に反董卓連合にも参加し、曹操と共に董卓配下の徐栄と戦い大敗を喫しました。
この時に鮑信は重傷を負いましたが、徐栄との戦いで于禁が参戦していたのかは不明です。
それでも、192年に鮑信は亡くなっており、それまでには鮑信の元は離れた事でしょう。
曹操に仕える
正史三国志によると、曹操が兗州を治める様になると、仲間と共に出向き都伯になり王朗の配下となりました。
ここでいう王朗は会稽の王朗とは同姓同名の別人です。
王朗は于禁を高く評価し「于禁の能力は大将軍を任せられるほどだ」と曹操に推挙しました。
曹操は王朗の言葉を聞くと、于禁を呼び語り合うと能力を認め軍司馬に任命しています。
曹操は于禁を徐州に行かせ広威を攻めさせました。
于禁は広威を陥落させた功績により、曹操から陥陣都尉に任命されています。
ここから于禁の曹操陣営でのキャリアが始まったと言えます。
兗州の乱
曹操配下の陳宮が呂布を担ぎ兗州の主に据えようと画策しました。
この時に、多くの諸将が呂布に靡き、曹操は陶謙への軍事侵攻を行っていた最中でしたが、窮地に陥る事になります。
194年の濮陽での戦いに于禁も曹操の配下として参戦しました。
正史三国志によると于禁は別動隊を率いて、城の南にある呂布の二陣営を打ち破ったとあります。
さらに、于禁は別動隊を率いて須昌の髙雅の軍を破り、寿張、定陶、離狐を攻撃し雍丘の包囲にも参加しました。
雍丘の包囲戦では張邈の弟である張超が籠城していましたが、于禁も勝利に大きく貢献しています。
正史三国志には「全てそれらを陥落させた」と書かれており、于禁は抜群の指揮能力を発揮したのでしょう。
兗州の乱では曹操陣営に夏侯惇、荀彧、程昱らは残りましたが、大半は呂布に靡いており、不利な戦いの中で挽回出来たのは于禁の功績も大きかったはずです。
正史三国志には簡略な記述しかなくても、実際の于禁は曹操の大きな助けとなった事でしょう。
黄邵を斬る
196年に于禁は黄巾賊の残党である黄邵と劉辟討伐をする事になります。
于禁伝には黄巾賊の残党として黄邵と劉辟の名前しかありませんが、実際には何曼や何儀らの討伐も行っています。
曹操の軍は版梁に駐屯しますが、この時に黄邵が曹操の陣に夜襲を仕掛けてきました。
黄邵の夜襲に対応したのが于禁であり、直属の兵を指揮すると敵軍を攻撃し、黄邵を斬る大戦果を挙げています。
さらに、その軍勢を全て降伏させたとあり、大きな手柄を立てた事は間違いないでしょう。
曹操は于禁の功績を評価し、平虜校尉としました。
さらに、于禁は袁術配下の橋蕤討伐にも参加し、苦で橋蕤ら四将を斬る大戦果を挙げています。
まさに「向かうところ敵なし」と言った活躍を于禁がしたわけです。
抜群の指揮能力
197年の末頃に曹操は宛城にいる張繍を降伏させました。
于禁も曹操に従い張繍の元に行く事になります。
この時に、曹操は張済の妻(未亡人)を側室にするなど、張繍に恨まれる様な事をしたわけです。
曹操の態度を不快に思った張繍は賈詡の進言を聞き入れ、曹操を急襲しました。
曹操は張繍と戦いますが、形勢は不利であり舞陰にまで撤退を余儀なくされます。
この時の曹操の軍は指揮系統が崩壊し、一族の曹昂や曹安民、典韋らが戦死しました。
こうした中でも于禁は部下の数百人を指揮し、戦いながら撤退したとあります。
于禁の軍にも死傷者は出ましたが、離散する者はいなかったとあります。
張繍の軍の追撃が緩むと于禁を陣を整え太鼓を打ち鳴らし、帰還しました。
撤退戦を見ても于禁が抜群の統率力を持った武将だという事が分かるはずです。
青州兵を討つ
青州兵の略奪
于禁は曹操の元に帰還しますが、道中で負傷し裸で逃げる十余人の兵士に出くわしました。
于禁が裸で逃げる理由を問うと「青州兵の略奪を受けた」と語ります。
過去に青州黄巾賊が蜂起した時に、曹操は寛大に扱い青州兵として組織していました。
しかし、青州兵らは「曹操が自分達に甘い」と感じていたのか、それをいい事に味方の略奪まで行ったわけです。
于禁は青州兵の話を聞くと激怒し、次の様に述べました。
※正史三国志 于禁伝より
于禁「青州兵は同じ曹公(曹操)の部下でありながら悪事を働くのか」
于禁は味方であるはずの青州兵の討伐に乗り出す事になります。
冷静な判断力
于禁は青州兵を攻撃し、その罪を責め立てました。
青州兵は于禁の態度に慌て、曹操の元に逃げ訴えを起こします。
青州兵は、このままだと于禁に処罰される事は目に見えており、曹操に助けを求めたのでしょう。
于禁は青州兵を追いますが、曹操の陣営に到着しても、直ぐに謁見をしようとはせず、陣営を設けるなど守りを固めました。
于禁の様子を見ていた、ある人が次の様に進言しています。
※正史三国志 于禁伝より
青州兵は既に公(曹)に訴えを起こしております。
直ぐにでも弁明に行かねば、取り返しのつかぬ事になりますぞ。
于禁を心配し、直ぐに弁明に行くべきだと述べてくれた人がいたわけです。
しかし、于禁は曹操を信頼しており、次の様に述べました。
于禁「現在の状況は賊が背後にいるのであり、直ぐにでも追撃される危険性がある。
まずは備えをするべきであり、備えなくしてどうやって敵に対処すると言うのだ。
それに公は聡明な方だ。
青州兵のデタラメな訴えなど役には立たない」
于禁は状況を冷静に分析し、張繍軍の追撃があったとしても、対処出来る事を優先させたわけです。
于禁は塹壕を掘り、敵に対処する事を優先した上で、曹操に面会を求めました。
于禁は曹操に会うと青州兵の事を報告し説明しました。
曹操は于禁の言葉を喜び、次の言葉を投げかけています。
曹操「淯水における苦難は、儂にとっては危急の事であった。
将軍(于禁)は混乱の中にあっても動じず、暴虐を討ち砦を固めてくれた。
節義を備えていると思っている。
古代の勇将であっても、将軍には及ばない」
曹操は于禁に最大限の賛辞を贈ったわけです。
曹操は于禁の功績を認め益寿亭侯としました。
各地で功績を挙げる
198年には于禁は再び曹操に従って張繍の穣を攻撃し、呂布討伐にも参加しています。
曹操と呂布の最終決戦である下邳の戦いでは、于禁伝の記述では「呂布を下邳で捕えた」とありますが、実際には宋憲、魏続、侯成らが陳宮を捕え、その後に呂布を捕えたと言えるでしょう。
199年になると于禁は曹仁、史渙、徐晃らと共に、眭固がいる射犬を攻撃し、打ち破りました。
眭固は戦いに敗れて斬られました。
官渡の戦い
鉄壁の防御
曹操は呂布などの群雄を滅ぼしますが、公孫瓚を破り河北を平定した袁紹と対峙する事になります。
兵力、物資共に袁紹が圧倒していましたが、于禁は曹操の先鋒になりたいと自薦しました。
曹操は于禁の漢気を評価し、于禁を先陣に任命しています。
曹操は2千の歩兵を于禁に与え、延津を守らせ袁紹を防がせました。
その間に、曹操は官渡を渡る事になります。
しかし、このタイミングで袁術の討伐に向かったはずの劉備が徐州で反旗を翻しました。
劉備が反旗を翻すと、曹操は自ら討伐に向かいます。
この間に、袁紹は兵を進め于禁を攻撃しますが、于禁は鉄壁の防御を見せ守り切りました。
楽進と共闘
袁紹からの攻撃を守り切った于禁は、今度は楽進と共に五千の歩兵・騎兵を率いて袁紹の別の陣営を攻撃しました。
于禁と楽進は延津から西南に向かい黄河に沿って、汲・獲嘉の二県まで行きました。
ここで于禁と楽進は大暴れし、三十余カ所もの敵陣を焼き払ったとあります。
この時の斬首した首と捕虜の数は数千であり、袁紹の将軍である何茂・王摩ら二十余人を降伏させました。
さらに、曹操は于禁に別動隊の指揮を任せると、于禁は原武に駐屯し、袁紹の別陣を攻撃し勝利しています。
局地戦とはいえ、于禁は八面六臂の活躍をしたと言えるでしょう。
曹操は于禁の活躍を喜び裨将軍に昇進させました。
土山の守備
袁紹と曹操の戦いは白馬の戦いで関羽や張遼の活躍で顔良を討ったり、延津の戦いでは荀攸の策で文醜を討ち取る等の成果を挙げています。
しかし、袁紹軍の兵力や物資は曹操軍を圧倒しており、曹操は後退を続け官渡で対峙する事になります。
于禁も官渡に行き、曹操と合流しました。
この時に曹操と袁紹の陣営では土山を築き対峙していたとあります。
袁紹は曹操の陣営の中に矢を射こみ死傷する士卒が多く、陣中では兵が恐慌状態を引き起こしました。
ここで于禁が土山の守備を任せられると、力強く守り戦意を回復させています。
官渡の戦いでも于禁の指揮能力の高さが役だったと言えるでしょう。
官渡の戦いの本戦は袁紹配下の許攸が寝返り、烏巣の兵糧庫の場所を教えた事で、曹操が自ら兵を烏巣討伐に出向きました。
烏巣の戦いでは楽進が守備隊長の淳于瓊を斬り、曹操の勝利を決めています。
官渡の戦いが終わると、曹操は于禁を偏将軍としました。
袁紹死後に曹操は冀州を平定したとあります。
昌豨の乱
昌豨の降伏
昌豨は何度も曹操に反旗を翻した武将であり、呂虔、張遼、夏侯淵らが討伐に赴いています。
206年にも昌豨が反旗を翻しました。
これで昌豨は5度目の反乱となり、于禁が討伐に向かう事になります。
この時に曹操は袁譚を破り袁煕と袁尚は北方に逃亡していました。
高幹の乱に呼応し昌豨が反旗を翻し、于禁が討伐に行く事になったのでしょう。
于禁は素早く昌豨を攻撃すると、昌豨は降伏を願い出て于禁の元に向かいました。
于禁と昌豨は窮地の間柄だったわけです。
昌豨を斬る
于禁の元に昌豨がやってくると多くの者が、昌豨を曹操の元に送るべきだと進言しました。
しかし、于禁は次の様に述べています。
※正史三国志 于禁伝より
于禁「其方らは公の常令を知らないのか。
法によれば『包囲されてから降伏した者は赦さない』とある。
法律を実行するのは、上に仕える者の守るべき節義である。
昌豨と私は旧知の間柄ではあるが、私が節義を失ってよいはずがない」
于禁は昌豨を処刑する決断をし斬首しました。
昌豨に別れを告げた于禁は涙を流し、昌豨を斬ったと伝わっています。
曹操の嘆息
この時に曹操は淳于にいましたが、于禁と昌豨の話を聞くと次の様に述べました。
曹操「昌豨が降伏する時に、儂の元に来ずに于禁の元に行ったのは運命としか言いようがない」
曹操の言葉から分かるのは、曹操は昌豨を許すつもりだったという事です。
それを考えると、于禁は曹操は昌豨を許すつもりだったのに、斬首してしまったと言えるでしょう。
ただし、曹操は于禁の厳格な性格も評価し、ますます于禁を重んじたとあります。
尚、東海が平定されると曹操は于禁を虎威将軍としました。
裴松之の苦言
裴松之が于禁が昌豨を斬った事に対し言及しています。
裴松之は于禁が「包囲されてから降伏した者は赦されない」と述べた事に対し「囚人として護送するのは命令違反にならない」と述べています。
それを考えると、裴松之は旧友である昌豨の為に「万が一の幸運」を期待する事もなく、殺害を好んだと批判しています。
昌豨が降伏した時は、周りの諸将も斬首に反対しており、その意見にも逆らったと批判したわけです。
裴松之は于禁が最期に関羽に降伏し、厲侯という悪い諡を与えられたのは当然だと述べています。
個人的には裴松之の言っている事も一理あると思いました。
ただし、裴松之は昌豨が助かる可能性は「万が一」と述べていますが、曹操の言葉から察するに曹操は許すつもりだったと感じています。
曹操が後に馬超の討伐に出かけ、留守の間に田銀と蘇伯が乱を起こし鎮圧されますが、多くの兵が降伏を願い出た話しがあります。
この時に多くの者が「処刑すべき」と意見しましたが、程昱、国淵、常林らは曹丕に「処刑しない様に」と嘆願しました。
于禁と昌豨の状況を見るに、于禁はこの時の程昱や国淵の態度を見習った方がよかったのではないかとも感じています。
赤壁の戦い
公孫康が袁煕、袁尚の首を送って来た事で北方は平定されました。
北方が平定された事で、曹操が戦うべき相手は荊州の劉表と江東の孫権くらいになっていました。
劉表の備えとして于禁が潁陰、楽進は陽翟、張遼が長社に配置された記録があります。
趙儼伝の記述を見る限りだと于禁、張遼、楽進の人間関係はよくなかった様です。
合肥の戦いで張遼、楽進、李典の3人が不仲だった話もありますが、于禁もまた彼らと不仲だった事になります。
曹操が南下を始めた頃に劉表が死去し、後継者の劉琮は降伏を決断しています。
三国志演義では降伏した劉琮は曹操の命を受けた于禁により殺害されていますが、史実を見る限りでは劉琮は曹操から厚遇を受けており、于禁に殺害された事実は存在しません。
この後に赤壁の戦いが勃発しますが、趙儼伝によると于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の7将は趙儼に統括されたとあります。
曹操は孫権、劉備連合軍と戦いますが、曹操は一族を中心とする者達を連れて呉の周瑜と戦っており、于禁も赤壁の戦いでの本戦に参加してはいません。
三国志演義では周瑜の策に引っ掛かった蔣幹により、曹操が蔡瑁や張允を殺害し、後任の水軍大将として于禁を任命した話があります。
しかし、史実を見る限りでは曹操は蔡瑁や張允を処刑してはおらず、于禁が水軍大将になった記録はありません。
それでも、曹操が周瑜や程普率いる呉軍に敗れた事実はあり、曹操は北方に撤退し天下統一の野望は砕かれました。
灊山の戦い
梅成討伐
赤壁の戦い後に于禁は臧覇と梅成討伐を行いました。
臧覇の方でも呉の援軍である韓当を破った記録が残っています。
于禁が到着すると梅成らは三千の軍勢と共に降伏しました。
しかし、梅成は気が変わったのか再び反旗を翻し、陳蘭に合流しています。
兵站を繋ぐ
先に張遼は陳蘭と対峙していましたが、兵糧が少なく危機に陥っていました。
ここで于禁が兵糧輸送の役目を引き受け、兵站を繋いだわけです。
これにより張遼の軍は戦える様になり灊山の戦いで陳蘭と梅成を斬る事に成功しました。
于禁は実戦で戦うだけではなく、兵糧輸送などの裏方の仕事も得意だったのでしょう。
灊山の戦いは張遼の武勇ばかりが光った様に見えますが、裏では于禁の活躍がありました。
曹操は于禁の功績を評価し二百戸を加算し、合計で千二百戸としています。
魏の五大将軍
ここまでの于禁を見ると高い統率力を武器に、圧倒的な活躍を見せている事が分かります。
正史三国志によれば、于禁は張遼、楽進、張郃、徐晃と共に名将と呼ばれる存在だったとあります。
蜀の五虎将軍は関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠ですが、対になる魏の五将軍に于禁も選出される活躍をしたという事です。
于禁伝の記述には、于禁、張遼、楽進、張郃、徐晃らは曹操が出征する時は、交代で起用され軍を前進させる時には、先陣を任され撤退の時には殿を務めたとあります。
先陣と殿を任せられるのは于禁だけではなく、魏の五将軍の有能さが分かる記録だとも言えるでしょう。
この頃には、于禁は魏でも最も評価される将軍となっていたわけです。
于禁の人柄
于禁流の統率力
于禁は厳格な態度で部下に挑み軍を保持したとあります。
于禁は賊の財物を手に入れても個人の懐にいれる事が無かったと言います。
ネコババしない態度を曹操は評価しており、于禁の賞賜は特に手厚かったわけです。
于禁は法により部下を統率し、恩情を見せなかった様で「兵や民衆の心を掴めなかった」とあります。
戦国時代に秦の昭王に仕えた白起などは、部下に対し思いやりを見せ「兵士は軍内を家とした」という記述がありますが、于禁は真逆の統率方法を取ったのでしょう。
昌豨を処刑している事からも、于禁の軍に挑む態度が分かるはずです。
朱霊の部下
朱霊は曹操に惚れ込み臣下となった武将ですが、何故か曹操から恨まれていました。
朱霊は各地を転戦し活躍した将軍ではありましたが、何故か曹操は朱霊の軍を取り上げたいと考えていたわけです。
于禁は法を厳守する厳格な性格であり、曹操は于禁に数十騎を率いさせて、命令書を届けさせました。
曹操は于禁に命令書を届け朱霊の軍を没収させる決断としたという事です。
朱霊の気持を考えれば、曹操にフォローを入れてもいい様な気もしますが、于禁は朱霊の軍営に真っすぐに行き軍を没収してしまいました。
于禁の厳格さは軍内でも鳴り響いており、朱霊や部下達は文句も言わず従っています。
朱霊は于禁配下の指揮官の一人となりますが、皆が恐れて服従しました。
于禁の戦績と厳格さは知れ渡っており、従うしかなかったのでしょう。
この時に、于禁の性格であれば命令に従わない者がいれば、処罰していたはずです。
絶大なる信頼
曹操は于禁を左将軍に昇進させ、将軍の指揮権を示す旗と鉞である節鉞を与えました。
さらに、于禁の領地の五百戸を分割させ一子を列侯に取り立てました。
これまでの于禁は無敗の将軍であり、常勝将軍だったわけです。
曹操だけではなく于禁本人も「あのような最後」を迎えるとは思ってもみなかった事でしょう。
于禁は最後の最後で転落劇が待っていました。
樊城の戦い
軍が水没
曹操は張魯を降し漢中を得ますが、夏侯淵が定軍山の戦いで劉備軍に敗れ漢中を失いました。
こうした中で荊州の関羽が北上し、圧倒的に劉備に追い風が吹いたわけです。
この時の曹操は長安におり、樊城の守備を曹仁に任せました。
于禁は援軍の総大将となり、樊城の戦いで孤軍奮闘する曹仁を救援する役目を担います。
曹操は于禁に大軍を預け、于禁なら樊城に籠る曹仁や満寵を救出できると信じていたはずです。
于禁は大軍を率いて樊城に向かいますが、長雨により漢水が溢れ平地には数丈の水が溜まりました。
于禁軍はまともな船を持っておらず、軍が水没してしまったわけです。
于禁の降伏
于禁は大雨という天変地異により、壊滅的な打撃を受けてしまい高地に登って、水を眺めましたが回避する場所もありませんでした。
関羽は大船を持っており、于禁の軍を攻撃しますが、当然ながら于禁の軍は戦うことが出来なかったわけです。
于禁は降伏するしか道がなくなり、関羽に降伏しました。
龐徳は捕虜となっても、降伏する事を善とせず死を選んでいます。
于禁の軍に配属された龐徳が死を選び、于禁は降伏したという事です。
曹操は于禁が降伏した話を聞くと、長く悲しみの表情を浮かべ嘆息し、次の様に述べたと言います。
※正史三国志 于禁伝より
曹操「儂が于禁を知ってから30年は経つ。
于禁が危急を前にし困難に遭遇すると、龐徳に及ばないなど思いもしなかった」
曹操はこれまでに数多くの戦場を駆け抜けた于禁を目にしており、歴戦の猛者で30年仕えた于禁が関羽に降伏し、仕えてから日が浅い龐徳が忠義の心を持ち死を選ぶとは思いもしなかったのでしょう。
于禁が樊城の戦いでの勝利に貢献していた!?
于禁は樊城の曹仁救出に失敗しますが、この後に徐晃が関羽の軍を破り曹仁を救いました。
樊城の戦いは、これにより終焉しますが、孫権が関羽を裏切り呂蒙、陸遜らが関羽を捕虜としています。
関羽も于禁を破る歴史的な大勝利を挙げながらも、直ぐに転落したわけです。
尚、関羽は于禁の降伏を受け手入れた時に、兵士達に食料なども与えており、これが原因で関羽の軍は兵糧が枯渇し、孫権の領内を荒し備蓄の食料を奪いました。
これを考えると、于禁も戦いには敗れましたが、関羽軍の食料を減らした事を考えれば、全く勝利に貢献しなかったわけでもない事になります。
関羽は于禁の兵の見張りとして、兵の一部を割く必要もあり、関羽の軍が後手に回る原因と作ったと言えなくもありません。
しかし、やはり戦いで樊城を前にして降伏してしまったのは、于禁の輝かしい戦績に影を落としました。
孫権が関羽を破ると、于禁は呉に住む事になります。
于禁の最後
魏への帰還
孫権は外交の孤立を恐れ魏への臣従を願い出たわけです。
曹丕は既に献帝から禅譲により皇帝となっており、呉は藩国の礼を取り于禁を送還しました。
曹丕と面会した于禁は髭も髪も真っ白であり、往年の名将としての姿は無かったのかも知れません。
顔もげっそりとしてやつれ、涙を流し辞儀をしたとあります。
于禁は呉の孫権が曹丕に降伏した事で、再び魏の土を踏む事になったわけです。
曹丕の詔勅
正史三国志の于禁伝によれば、この時の曹丕は荀林父や孟明視の故事を出し、慰めを行い于禁を安遠将軍に任命しました。
この時の詔勅は正史三国志の注釈・魏書の方に詳細が掲載されています。
※魏書より
曹丕「昔、荀林父は邲で敗北し、孟明視は殽で敗れはしたが、晋、秦の両方で更迭する事はなく元の官位を戻した。
後に晋は狄の地を手に入れ、秦は西戎の覇者となった。
小国であっても、この様な寛大さを示すのに、ましては朕は天子である。
樊城での敗北は水害が原因であり、戦争の責任とは言えない。
よって于禁を元の官に復帰させる事とする」
曹丕は于禁に対し、天子としての寛大さを見せたわけです。
尚、曹丕の詔勅で名前が登場した荀林父は邲の戦いで、楚の荘王に大敗を喫しましたが、後に晋の威信を取り戻す事に成功しました。
秦の孟明視は名宰相・百里奚の子で、晋の襄公に急襲され敗れますが、後に挽回した人物です。
曹丕も先例に倣い于禁を許したかに見えました。
曹操の墓
曹丕は于禁を呉への使者として派遣しようとしますが、その前に北方の鄴に行き高陵に参拝させました。
高陵は曹操が葬られていた場所です。
曹丕は于禁が鄴に行く前に、密かに御陵の建物に関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒し于禁が降伏する様を描かせていました。
于禁は自分が関羽に降伏する姿を見ると、憤りの気持が芽生え病気となってしまい、そのまま死去しました。
やはり、于禁にとっても関羽に敗れた事は一生の汚点だと考えていたのでしょう。
于禁が亡くなると子の于圭が後継者となり益寿亭公となりました。
于禁には厲侯の諡が与えられています。
尚、曹丕が于禁の降伏する様を描かせたのは、史実ではなくあくまでも噂話だとも考えられている状態です。
それでも、于禁は輝かしい功績を持ちながら晩節を汚してしまったと言えるでしょう。
于禁の評価
于禁に関しては、関羽に降伏する前は誰が見ても名将と呼べる存在だったはずです。
しかし、関羽への降伏で龐徳と比較されてしまった事もあり、大きく評価を下げたと言えるでしょう。
曹芳の時代に曹操時代の功臣が曹操の廟で祀られ曹仁や夏侯惇などの将軍が名前を連ねています。
龐徳も曹操の廟に祀られたにも関わらず、于禁が祀られる事はありませんでした。
最後に関羽に降伏してしまった事で、于禁は忠臣とは見られず、曹操の廟に祀られる事が無かったのでしょう。
陳寿も魏の五将軍の中で于禁が最も剛毅だったと評価していますが、最後は剛毅さが仇になった部分にある様に感じています。
于禁は剛毅で法を遵守する事から恩情を見せず部下や民衆からの支持を得てはいませんでした。
こうした理由もあり、周りのフォローも得る事が出来ず、一度の失敗で全てを失う原因となってしまったのでしょう。
厲侯の諡も于禁の評判の悪さを語っている様にも感じました。
功績だけでのし上がってしまうと、一度の失敗で凋落してしまう例になるのかも知れません。
尚、三国志演義で于禁が馬超との一騎打ちで引き下がる事になったり、イマイチ派手な活躍がないのは、民間からの評価の低さの表れだとも言えるでしょう。