その他 三国志

陳蘭は廬江を中心に暴れ回るも灊山で散る

2022年6月30日

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名前陳蘭
生没年生年不明ー209年
時代後漢末期、三国志
コメント廬江を中心に活動
年表209年 灊山の戦い
画像三国志(コーエーテクモゲームス

陳蘭は正史三国志に登場する人物で、袁術が落ちぶれた時に頼られますが、雷薄と共に受け入れを拒否した人物です。

袁術の死後は、長江や淮河の近辺で暴れ回りますが、揚州刺史の劉馥により懐柔されています。

しかし、劉馥死後に反旗を翻しますが、張遼らに灊山の戦いで破れ最後は命を落としました。

尚、陳蘭は三国志演義では袁術配下として、呂布の軍と戦いますが、魏続や宋憲に敗れた話があります。

後に袁術の元を離れ、袁術が劉備に敗れた時は、袁術軍の物資を奪った話があります。

因みに、三国志演義では灊山の戦いも作中では存在しません。

袁術に頼られる

陳蘭は過去に袁術の部下で武曲に任命されていました。

しかし、袁術は皇帝に即位しますが、反発は大きく呂布に敗れ曹操に大敗した後は、壊滅的な打撃を被っています。

こうした中で、袁術は行き場を失くし、灊山にいる陳蘭と雷薄を頼ったわけです。

灊山にいた陳蘭と雷薄は、袁術の受け入れを拒否しました。

陳蘭らが袁術の受け入れを拒否した理由ですが、当時の袁術の求心力が大きく失われていた事も原因だと考えられます。

袁術は帝位を僭称し仲王朝を開いた事で、多くの諸侯の反発があり、陳蘭らが袁術を匿えば攻撃対象にされる事も十分に考えられたはずです。

袁術には既に「権威」としての価値もないと判断し、陳蘭らは受け入れを拒否したのでしょう。

ここで陳蘭らは袁術を討ち取る事も出来たのかも知れませんが、討ち取る事はしませんでした。

因みに、陳蘭らに受け入れて貰えなかった袁術ですが、正史三国志によれば、どうすればいいのかも分からなくなり、最後は袁紹に皇帝の位を贈り青州の袁譚の庇護を受けようとします。

しかし、その途中で病死してしまい袁術はこの世を去りました。

袁術にとってみれば、陳蘭らに拒否されたショックが大きく、気落ちしてしまった可能性も高いと言えます。

余談ですが、袁術が北上し袁譚と合流しようとした時に、劉備が袁術討伐の名目で出陣し、徐州刺史の車冑を斬り独立しました。

劉馥に従う

孫策彭沢の戦い西塞山の戦い劉勲を破ると、李術を廬江太守に任命しました。

この李術が後に曹操が任命した揚州刺史の厳象を殺害すると、陳蘭らは次の様な行動を取った事が正史三国志に記録されています。

※正史三国志 劉馥伝の記述

廬江の梅乾、雷緒、陳蘭が数万人の仲間を集めて、長江や淮河の一帯に跋扈し各地を荒しまわった。

この記述を見る限りでは、陳蘭らは李術のやり方が気に入らなかったのでしょう。

尚、ここで登場する雷緒は、陳蘭と共に灊山にいた雷薄と同一人物か一族の者ではないか?とも考えられています。

この時に曹操は北方の袁紹との官渡の戦いで手が回らず、劉馥を揚州刺史に任命し陳蘭や雷緒らを懐柔しました。

劉馥は優れた人間性を持っていた人物であり、合肥の空城に政庁を設置すると雷緒らを懐柔しています。

この時に劉馥が「雷緒らを手懐けた」とあるので、陳蘭も劉馥に従う事にしたのでしょう。

劉馥が善政を行った事で、地域は安定を取り戻す事になります。

しかし、劉馥は208年に亡くなってしまいました。

尚、陳蘭と共に劉馥に帰順した雷緒は、赤壁の戦い後に劉備に帰順しており、陳蘭とは行動を別としています。

陳蘭の最後

赤壁の戦いの後である西暦209年に、梅成と陳蘭が氐族の居住地六県を率いて反逆した話があります。

因みに「六」は地名であり、6つの県を率いて反乱を起こしたわけではありません。

前年の208年に劉馥が死去した事もあり、陳蘭と梅成は不安になり反旗を翻した可能性もあります。

陳蘭らが信用したのはあくまでも、劉馥だったのかも知れません。

因みに、梅成と先に登場した梅乾は同一人物とも考えられています。

この時に陳蘭と梅成は別々の場所で戦っており、于禁・臧覇の軍が梅成と戦い、張遼、張郃、牛蓋(朱蓋)が陳蘭の軍と対峙しました。

梅成は表向きは降伏した事で、于禁と臧覇の軍は撤退する事になります。

しかし、梅成は陳蘭と合流し、灊山に立て籠もりました。

これが灊山の戦いです。

この時に張遼の軍は兵糧が少なかったわけですが、于禁が上手く兵站を途切れさせないように努めています。

陳蘭と梅成は孫権に援軍を依頼し、孫権は韓当を派遣しますが、臧覇が孫権軍を食い止めた事で、韓当は陳蘭を救援する事が出来ませんでした。

灊山は天然の要害でありましたが、張遼の勇猛さの前に敗れ去り、陳蘭や梅成らは斬られた記録があります。

さらに、陳蘭らの軍勢は全て捕虜にされており、陳蘭らは完敗だったと言えるでしょう。

魏で最強の武将とも言える張遼が相手だった事もあり、陳蘭が弱いと言うよりも張遼が強すぎた可能性も十分に考えられるはずです。

張郃伝にも陳蘭と梅成を撃破した記述があり、魏の中でも屈指の名将とされる張遼、張郃、于禁らを相手にした陳蘭らは運が悪すぎたとも言えるでしょう。

三国志演義での陳蘭

三國志演義の陳蘭は正史三国志にはないシーンが追加されています。

袁術は7軍(張勲橋蕤陳紀雷薄陳蘭、韓暹、楊奉)を率いて徐州の呂布を攻撃しました。

この時に「第五路・右方で副将の陳蘭」とする記述があり、袁術軍の第五軍として陳蘭が出撃した事が分かります。

この戦いでは袁術自身も紀霊らと共に後軍として、出撃するなど気合が入っていたわけです。

陳蘭は呂布の配下である魏続や宋憲と対峙しますが、韓暹と楊奉が袁術を裏切った事で総大将の張勲が敗走し、袁術軍は崩壊しました。

陳蘭も退却せねばならない状態になってしまったのでしょう。

後に下邳の戦いで呂布が滅び、袁術軍も衰退すると陳蘭や雷薄は袁術の元を去り、嵩山に引っ込む事になります。

この時に陳蘭や雷薄は嵩山の賊の仲間になったわけです。

袁術は窮地に陥り、袁紹に皇帝の位を譲り北方に移動しようとしますが、劉備、関羽張飛、朱霊、路招らと袁術軍を攻撃しました。

袁術は劉備の軍に大敗し、嵩山にいた陳蘭や雷薄が兵糧などを奪うなど、袁術軍は完全に崩壊したわけです。

袁術は寿春に向かいますが、血を吐いて亡くなる事になります。

三國志演義では袁術の物資を略奪した後に陳蘭は登場せず、物語からフェードアウトしています。

陳蘭の能力値

三国志14統率66武力69知力41政治24魅力36

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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