婆娑羅と言えば、南北朝時代などに派手な格好をした者達をイメージする所が多いはずです。
鎌倉時代の末期から南北朝時代に掛けて、流行したともされています。
さらには、佐々木道誉や高師直、土岐頼遠、河越直重に代表される様なバサラ大名もおり、無法者と言った感じに思うかも知れません。
しかし、別の面を見れば佐々木道誉などは、当代随一の文化人であり、風流を好んだ話もあります。
婆娑羅の言葉の語源ですが、仏教と関りが強い話しもあり、合わせて解説します。
婆娑羅の語源
婆娑羅の語源ですが、サンスクリット語で、金剛石やダイヤモンドを意味する「バーシャラ」から来たのではないかとも考えられています。
仏教の世界で十二神将がいますが、その中の伐折羅大将が持つダイヤモンド制の武器に、由来するのではないかともされています。
ダイヤモンドは鉱物の中では頂点の硬さがあり、その硬さから削ったり切ったりする事は極めて困難です。
ダイヤモンドはその硬さから全てのものを砕く事ができ、「硬い」「強い」「負けない」「力が全て」「力意外に屈しない」などの意味が持たれる様になったと考えられています。
さらには、「遠慮がない」「派手」などの意味が含まれる様になったと考えられます。
これが婆娑羅の「無法者」「権威に屈しない」「派手」などに繋がり、普遍的なものを破壊する意味もあり、婆娑羅となった様です。
ただし、婆娑羅が本当にインドや仏教と関係しているかは、分からない部分も多いようです。
建武式目と婆娑羅
建武式目で禁じられていた婆娑羅
建武式目の第一条を見ると「倹約」が勧められている事が分かるはずです。
倹約というのは派手好みな婆娑羅とは対極にあるのではないでしょうか。
建武式目が制定され室町幕府が始まりますが、この時に佐々木道誉や高師直、土岐頼遠らが私生活を改めたという話しは聞きません。
婆娑羅大名たちは「自分達は対象外」と考えていた様であり、自分達は最初から従う気はなかった様です。
有名な婆娑羅大名
佐々木道誉
婆娑羅と言えば真っ先に思いつくのが佐々木道誉ではないでしょうか。
佐々木道誉は妙法院御所焼き討ち事件などを起こしており、流罪とされてしまいます。
この時に派手な格好で移動しており、婆娑羅の面目躍如といった所なのでしょう。
後年に斯波高経と対立し、わざと斯波高経の宴席と同じ日に、花見の会を開き鼻を明かした話が残っています。
他にも、敵の楠木正儀が佐々木道誉の邸宅に入ると、見事なものであり、略奪もせず帰ってしまいました。
佐々木道誉は単に派手というだけではなく、当代一流の文化人でもあったわけです。
佐々木道誉の婆娑羅は、人々を楽しませた側面もあると考える事が出来ます。
高師直
幕府執事として有名な高師直ですが、貧乏公家の女性を多く囲った話が残っています。
若党との恩賞の話でも「美女」でも十分に恩賞になるとも述べました。
この辺りは、婆娑羅っぽい思想に見受けられます。
高師直は豪勢な邸宅を建てるなど派手な生活をしますが、戦いには滅法強く、石津の戦いでは北畠顕家を破り、四条畷の戦いでは楠木正行を破りました。
石清水八幡宮や吉野も放火し、聖徳太子廟までや焼き払った話が残っています。
聖徳太子は古代日本の英雄でもあり、聖地吉野や石清水八幡宮の放火などと合わせても、無法者の婆娑羅という感じがする事でしょう。
尚、佐々木道誉は婆娑羅を行っても人々から称賛される事が多いですが、高師直の婆娑羅は世間からの顰蹙を買うなど違いがあるとする指摘もあります。
土岐頼遠
土岐頼遠も婆娑羅大名の一人に数えられたりもします。
土岐頼遠は先に良い「光厳上皇」の牛車に弓で攻撃してしまった人です。
この時に光厳上皇が犬好きだった事を知っていたのか「院なのか犬なのか」などの言葉を残しました。
北朝の治天の君である光厳上皇の牛車を襲撃してしまったのは問題行動であり、足利直義により処刑されました。
当時の婆娑羅と呼ばれる様な人々は権威ばかりで実力がない皇族を軽視しており、不満も溜まっていたのでしょう。
権威の頂点に立つ皇族などは、婆娑羅な人々が嫌悪する対象だったと考える事が出来ます。
河越直重
河越直重もバサラ大名として名が通った人物です。
河越直重が上洛する時には、ド派手な演出があり、人々の度肝を抜いた話が残っています。
ただし、河越直重の派手すぎる服装などが目を付けられてしまったのか、泥棒が入り物品や貴重品などを盗まれてしまった話があります。