名前 | 河越直重 |
生没年 | 不明 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 祖父:河越貞重 父:河越高重 |
年表 | 1352年 小手指原の戦い |
1268年 平一揆の乱 | |
コメント | 婆娑羅として有名 |
河越直重は平一揆の当主として河越を本拠地としました。
河越氏は鎌倉幕府滅亡時に河越貞重が最後まで六波羅探題に従い自害しますが、子の河越高重は新田義貞に従い鎌倉攻撃に活躍し建武の新政が始まると関東庇番にも名を連ねています。
河越直重は豊富な資金を武器に足利尊氏による天龍寺建立で莫大な資金を捻出したり、派手な格好で京都の人々の度肝を抜くような事をした記録も残っています。
河越直重は正に婆娑羅だったと言えるでしょう。
足利尊氏の薩埵山体制では畠山国清や宇都宮氏綱と共に厚遇されますが、足利義詮の時代になると上杉憲顕の復権もあり、冷や飯を食わされることになります。
こうした中で鎌倉公方の足利基氏が亡くなると、河越直重は高坂信重らと共に乱を起こしました。
これが平一揆の乱となりますが、同年に足利氏満や上杉憲顕、上杉朝房らの軍により鎮圧され、河越氏も滅亡に至りました。
河越氏最後の当主が河越直重だったと言えるでしょう。
河越直重の動画も作成してあり記事の最下部から視聴する事が出来ます。
河越氏と河越直重の誕生
河越氏を遡って行くと平安時代の軍事貴族であった平良文に辿り着く事になります。
平良文の孫の将恒は秩父と拠点とし、子孫は東国に拡がり多くの分家を生む事になります。
これが秩父平氏であり一族の中心になったのが、河越氏です。
河越氏は源頼朝や義経と姻戚関係を結びますが、義経が平家を滅ぼし追討令が出されると、河越氏は所領を没収されています。
後に復権し武蔵国留守所総検校職を継承し、北条氏と密に関わる事になります。
後醍醐天皇による倒幕では河越貞重が楠木正成の討伐なども行いますが、足利尊氏の裏切りにより六波羅探題は陥落しました。
河越貞重は北条仲時らと共に自害しています。
ただし、河越貞重の子の河越高重は新田義貞の鎌倉攻撃軍に加わっていました。
河越高重の子が河越直重であり、生没年は不明ですが、祖父の貞重が62歳で亡くなった事が分かっており、鎌倉幕府滅亡の頃には誕生していたのでしょう。
既に河越直重は元服していたとする説も有力です。
室町幕府に属する
後醍醐天皇により建武の新政が始まると、成良親王と足利直義が東国に下向してきました。
ここで御所を警備する関東庇番が設置されますが、河越高重は一番衆となっています。
さらに、河越氏と同族の高坂信重も関東庇番に名を連ねました。
河越氏や高坂氏は秩父平氏の有力氏族であり、関東の有力者として関東庇番となったのでしょう。
建武政権は1335年の中先代の乱で早々と崩壊し、足利尊氏と新田義貞、北畠顕家が争いますが、太平記では所々に河越の名前が登場しますが、明確に河越氏の誰なのかははっきりとしません。
しかし、河越直重は最終的に足利尊氏の傘下の武将として登場しており、紆余曲折があったのかも知れませんが、最終的には室町幕府に属する武士になったのでしょう。
河越直重の誕生
1339年に後醍醐天皇が崩御すると、足利尊氏は菩提を弔う為に天龍寺の造営を始めました。
天龍寺の建立の資金を得る為に、幕府では天龍寺船と呼ばれる貿易船を派遣したり、室町幕府に属する守護や武士たちにも負担を求める事になります。
この時に河越直重は莫大な費用を出したらしく、従五位下・出羽守に任命されました。
後に天龍寺供養が行われますが、足利尊氏の隋兵として行列にも加わっています。
河越直重は天龍寺に莫大な資金を投入する事が出来る辺りは、大きな経済力を持っていた証でもあるのでしょう。
足利義詮の上洛
幕府内で足利直義と高師直が対立し、足利直義が失脚する事件が勃発しました。
この時に幕府では鎌倉にいた足利義詮を京都に呼び寄せ、代わりに足利基氏が鎌倉に行く事になります。
太平記では足利義詮の上洛を「左馬頭義詮上洛事」という段落を用いて、その様子を描いています。
上洛する義詮を警護する為に河越氏や高坂氏ら平一揆だけではなく、多くの関東の武士たちも集団に加わっていたわけです。
この上洛には河越直重も加わっており、ド派手な行列を演出しました。
それと同時に河越直重は、既に足利義詮の側近的な立場だったのではないかとも考えられています。
尚、高師直の花押と河越直重の花押が非常によく似ており、高氏と河越氏はかなり近しい立場だったする見解もあります。
観応の擾乱と河越直重
後に足利直義は足利尊氏と高師直が、九州の足利直冬討伐に出かけた隙を突き大和で挙兵しました。
足利直義は打出浜の戦いで高師直を破り、高師直は殺害されました。
しかし、直義と尊氏の関係は悪化し直義は上杉憲顕が強い力を持つ関東に移動する事になります。
尊氏は直義を討つために東海道を進撃し、宇都宮氏綱の活躍もあり薩埵山の戦いで勝利しました。
観応の擾乱において河越直重が、どの様な活躍をしたのかは分かっていません。
一つの説として足利直義は河越直重の烏帽子親であり、河越直重自身が足利直義との戦いを望まなかったともされています。
ただし、戦後に河越直重が足利尊氏に従った事だけは間違いないようです。
小手指原の戦い
観応の擾乱が終わると、南朝の新田義興、義宗、北条時行らが挙兵し、さらに旧直義派の上杉憲顕も加わりました。
足利尊氏は自ら兵を率いて新田義興らの軍と戦う事になり、これが小手指原の戦いとなります。
この時に平一揆の中心人物である河越直重や高坂氏重は、足利軍として参戦する事になります。
尚、平一揆は河越や高坂の他にも江戸氏、豊島氏、土肥氏、土屋氏などで構成されている武士団です。
小手指原の戦いでの河越直重は平家の旗色である赤に統一された軍装で「殊更光輝」とする記録が残っています。
ただし、小手指原の戦いで足利尊氏の軍は饗庭命鶴丸が前に出過ぎた事もあり、戦いでは敗れ鎌倉も奪われてしまいました。
石浜で態勢を立て直した足利尊氏は碓氷峠の戦いで、新田義宗らを破り鎌倉も奪還し武蔵野合戦に勝利しています。
河越直重ですが、この後の薩埵山体制で重用されている事もあり、武蔵野合戦では獅子奮迅の活躍をしたのではないかともされています。
薩埵山体制
関東が安定した事で足利尊氏は京都に戻る事になります。
足利尊氏は関東の武士たちへの恩賞の権利などを足利基氏に与えました。
足利尊氏は足利基氏を補佐する為に、畠山国清、宇都宮氏綱、河越直重を中心とした薩埵山体制を構築しています。
畠山国清を関東執事及び武蔵国守護に任命し、宇都宮氏綱を上野・越後の守護に任命し、河越直重には相模守護の座を与えています。
武蔵野合戦での具体的な活躍は不明ですが、きらびやかな軍隊を率いて尊氏の期待を超える活躍をしたのでしょう。
河越直重と足利基氏
足利尊氏は仁木頼章らと共に京都に戻りますが、足利基氏は入間川を本拠地としました。
入間川と川越(河越)は現在で考えても、徒歩で5時間未満で行ける場所であり、足利基氏と川越直重はかなり近い場所にいた事になります。
烟田時幹は足利基氏が鎌倉に下向して来る時に、自らを平一揆と名乗り鎌倉から府中に馳せ参じたとする記録があります。
さらに、入間川の陣に行っており、これを河越直重に提出しました。
烟田時幹の着到状に河越直重が証判を据え奉行所に提出すると、褒美を受け取る事が出来るわけです。
河越直重の証判が恩賞を受け取る為に必要な所を見ると、やはり河越直重は平一揆のリーダーだったのでしょう。
さらに、入間川にいる足利基氏を補佐していたと考える事が出来ます。
ただし、別説としては足利尊氏や足利基氏は河越直重を警戒し、牽制する意味で入間川を本拠地にしたともされています。
尚、足利尊氏が生存し足利基氏が入間川にいる時代が、河越直重の全盛期だったと言えるでしょう。
豪勢な演出
1359年に足利基氏が足利義詮の要請に従い、近畿の南朝攻撃の為の援軍を派遣した話があります。
大将は関東執事の畠山国清でしたが、この中に河越直重もいたわけです。
この時に河越直重はド派手にカラーリングした30頭の馬を連れて上洛したと伝わっています。
河越直重はバサラ大名でもあり、ド派手な格好で京都に人々を驚かせたのでしょう。
ただし、同年11月9日に河越直重の旅館に群盗が入り、乱闘となりますが、名馬や金銀の美しい太刀など多くの物品を奪われてしまった話があります。
余りにも派手な演出を行い過ぎて盗賊たちのターゲットにされたとも考えられています。
実際に馬泥棒にあった話は園太暦にもあり、実際にあったとされています。
尚、河越氏の本拠地は鎌倉や奥州、京都などから様々な物品が集まる場所であり、河越氏の派手な演出を支えていたのは、交易からの経済力だとされています。
平一揆の乱
1358年に足利尊氏が亡くなると、足利義詮は直義派の室町幕府復帰を考えました。
直義派の筆頭とも言うべき上杉憲顕の幕政復帰の機運が訪れたわけです。
畠山国清は関東で細川清氏に接近し仁木義長を追い落とそうとするなど、東国武士団の不興を買い帰国しました。
ここで畠山国清は無断で帰国した武士たちに対し所領の没収を始めた事で、東国武士に対する信頼を失う結果となります。
畠山国清は伊豆で乱を起こしますが、足利基氏は岩松直国らと共に鎮圧しました。
薩埵山体制の柱石は呆気なく崩れ去ったわけです。
尚、畠山国清の乱で平一揆の軍は基氏の命令で伊豆に入りますが、葛山氏と所領を巡って争い何もせず鎌倉に帰還しています。
さらに、足利基氏は上杉憲顕の幕政復帰の為に、宇都宮氏綱の越後・上野守護も解任しました。
宇都宮氏配下の芳賀禅可が乱を起こしますが、鎌倉公方・足利基氏の軍により鎮圧されています。
しかし、太平記の芳賀禅可の言葉で「平一揆はかねてからの約束があるから、戦いの趨勢次第では味方になる」と述べています。
畠山国清及び芳賀禅可との戦いで、平一揆及び河越直重は大した功績を挙げる事が出来ませんでした。
薩埵山体制の崩壊が見え隠れしてきたとも言えるでしょう。
河越直重も1367年までは相模守護を務めていますが、三浦氏に代わりました。
足利基氏の死
関東は足利基氏により平穏を保っていましたが、1367年に亡くなっています。
細川頼之記によれば、基氏は死ぬ間際に金王丸(足利氏満)を千葉介、結城大蔵次郎、河越治部少輔に頼んだ話があります。
この河越治部少輔が河越直重だとも考えられており、細川頼之記の記述が正しければ、河越直重は足利基氏の最晩年まで重要な立場にあったと言えるでしょう。
ただし、細川頼之記は信憑性が薄いなども言われており、既に相模守護も解任され平一揆の存在感が低下する中で、本当に河越直重に後事を任せるのか?という疑問もあるわけです。
それでも、足利基氏の死が東国に混乱をもたらす事になります。
河越直重の最後
1368年になると川越直重は高坂信重や平一揆の者達と共に乱を起こし河越館に籠城しました。
平一揆の乱には宇都宮氏綱も呼応し乱を起こしています。
足利基氏が亡くなると佐々木道誉が関東を訪れ、上杉憲顕が上洛しており、上杉憲顕の不在を狙った平一揆の乱だと言われています。
足利氏満を取り込んだ上杉氏への反発が平一揆の乱を引き起こしました。
平一揆の乱の最中に河越直重が高麗希弘に対して、領地の宛行状を発給した記録も残っています。
これらの事から平一揆の総大将は河越直重だとされているわけです。
しかし、上杉憲顕も京都から関東に戻り、上杉朝房の奮戦もあり、河越直重は敗れ去りました。
これ以降に河越氏は歴史から姿を消しており、河越氏の最後だったと言えるでしょう。
南北朝武将列伝(戎光祥出版)の中で河越直重のトピックの最後で「直重の活躍は、河越氏の歴史において最後に放った強烈な光であったといえる。」と述べています。
河越直重の代で河越氏は滅亡を迎えました。
河越直重の動画
河越直重のゆっくり解説動画です。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝北朝編をベースに作成してあります。