三国志 魏(三国志)

馬遵は上邽に逃げ罰せられた天水太守

2023年4月22日

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宮下悠史

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名前馬遵(ばじゅん)
生没年不明
時代三国志
主君曹叡
年表228年 上邽に籠る
画像亶夏王朝

馬遵は天水太守になった人物であり、諸葛亮第一次北伐の時に魏の武将として名前が見られます。

ただし、陳寿が書いた正史三国志の本文に「馬遵」という名は登場せず、馬遵の名前が見えるのは姜維伝の注釈・魏略の方です。

正史三国志だと天水太守としてしか記されていませんが、魏略では天水太守が馬遵だった事が分かります。

諸葛亮が北伐の軍を興すと、魏は油断しており馬遵は天水を捨てて上邽に逃亡し籠りました。

馬遵の下には姜維などもいましたが、上邽の城に入れなかった事で姜維は行き場を無くし、蜀に降伏する事になります。

それを考えれば、馬遵は姜維が蜀に降る事になる原因を作った人物だとも言えるでしょう。

三国志演義では馬遵は戦いに敗れ夏侯楙と共に、羌族の支配地域に落ち延びていきますが、これは史実ではなく三国志演義の創作です。

諸葛亮の祁山侵攻

正史三国志の姜維伝によると、諸葛亮が祁山に軍を進めている時に、馬遵は巡察の最中だったとあります。

正史三国志の書き方だと天水太守の馬遵が、独自で巡察を行っていたかの様な書き方ですが、魏略によると馬遵は雍州刺史の郭淮のお供として巡察を行っていた事となっています。

郭淮や馬遵の一行には、姜維、梁緒、尹賞、梁虔らが従っていました。

こうした中で諸葛亮が祁山に到達したとする情報が入ってきたわけです。

郭淮は事の重要さを察知し馬遵を振り返り「これはまずい事になった」と述べ、郭淮は急いで上邽に戻る事になります。

郭淮は上邽に向かいましたが、ここで馬遵は選択を強いられる事となります。

上邽に籠る

馬遵は任地である天水に戻るか、郭淮と共に上邽に向かうかの二択となります。

しかし、南安、天水、安定の雍州三郡が諸葛亮に呼応した話もあり、馬遵としては任地の天水に戻りにくい様な状況にもなっていたのでしょう。

魏略によれば姜維が「天水郡冀県に戻るべきです」と述べますが、馬遵は次の様に述べています。

※魏略より

馬遵「諸君らをもう信用する事は出来ない。みなが逆賊だ」

馬遵は自らの任地である天水が叛いた事で、涼州や雍州の人々を信用する事が出来なくなってしまったのでしょう。

疑心暗鬼に馬遵は陥ったとも言えます。

馬遵は姜維らと別れ郭淮に従い上邽を目指す事にしました。

ただし、正史三国志の記述によると馬遵は、姜維らを疑い夜半に逃亡して上邽に立て籠もったとあります。

姜維は上官子脩と共に冀県を目指し、後に蜀軍に降る事となりました。

魏略と正史三国志で経緯の違いはありますが、馬遵は上邽に籠ったという事だけは一致しています。

諸葛亮の北伐ですが、隴西では游楚だけが奮戦し、揚州の西側は蜀の手に落ちました。

しかし、馬謖街亭の戦い張郃に敗北した事で、諸葛亮の第一次北伐は終了し、上邽にいた馬遵も助かったはずです。

重い処罰を受ける

張既伝の注釈・魏略の記述だと張既が推挙した游楚だけが蜀軍を相手に奮戦し、天水と南安の太守は郡を捨てて東に逃亡したとあります。

この記述を見ると逃亡した天水の太守が馬遵なのでしょう。

先にも述べた様に馬謖が敗北を喫した事で蜀軍が撤退すると、孤軍奮闘した游楚曹叡に招かれ褒賞される事となります。

それに対し、天水と南安の太守は重い処罰を受けたとあり、馬遵は諸葛亮第一次北伐の後に処罰されてしまったのでしょう。

馬遵は上邽に籠った事で、命は助かったのかも知れませんが、処罰は受けたと言えます。

ただし、馬遵がどの様な処罰を受けたのかは不明ですが、天水太守ではいられなくなってしまった事だけは間違いないでしょう。

ここで馬遵の記録は途切れており、どの様な最後を迎えたのかも不明です。

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