卞蘭は正史三国志に名前が登場する人物であり、徐州琅邪郡開陽県の出身です。
卞蘭の父親の姉が、曹操の正妻となる卞氏となります。
それを考えれば、卞蘭の出世は約束された様なものであり、かなり恵まれた家に生まれたとも言えそうです。
卞蘭自身も豊かな才能を持っていたとあり、奉車都尉、游撃将軍となり、さらには散騎常侍にもなりました。
卞蘭は曹丕には献上した賦の問題点を指摘されながらも敬愛され、曹叡には諫言を評価された話があります
ただし、卞蘭は酒をよく飲んだ様であり、糖尿病で亡くなってしまったとあります。
今回は魏に仕えた卞蘭を解説します。
尚、卞蘭は三國志演義には登場しません。
因みに、卞蘭の孫娘が魏の曹髦に嫁ぎ皇后となっています。
曹丕に敬愛される
魏略によれば、卞蘭が太子(曹丕)の美徳を称賛する賦を献上したとあります。
曹丕が太子と書かれているという事は、曹操が存命中の事になるのでしょう。
卞蘭は曹丕の美徳を称賛する賦を献上しましたが、曹丕は次の様に返信しました。
※魏略より
曹丕「賦というものは、描かんとする事例に対し、付随する全ての事を語るものである。
頌は盛徳の姿形を賛美するものだ。
よって、作者は空虚な辞句を連ねず、賛美の対象となる者は、必ずそれに相応しいだけの事実がなければならない。
卞蘭の賦を見るに、私の事実を描いているのであろうか。
前漢の吾丘寿王は、鼎について論述した事があるが、何武らはただの賛歌を歌っただけで、黄金や絹といった下賜の品々を授けられている。
卞蘭の賦の内容が素晴らしいとは思えないが、その意図は充分である。
牛一頭を下賜する」
曹丕は卞蘭の賦の問題点を語ってはいますが、魏略によると、卞蘭は曹丕に信愛され敬意を受ける様になったとあります。
曹丕としてみれば、自分を讃える賦を考え出した卞蘭に好感を持ったのでしょう。
尚、曹操は後継者を中々指名せず、曹植を後継者にする様なそぶりも見せていた事から、卞蘭の賦を曹丕は有難がり、卞蘭は自分を推してくれる者と考え信頼したのかも知れません
曹叡を諫める
魏略によれば、卞蘭は曹叡が呉の孫権や蜀の劉禅をまだ滅ぼしたわけでもないのに、宮殿内の事に夢中になっている事を見て諫めた話があります。
曹叡が宮殿の造営に熱心になったのは、諸葛亮の北伐が終わってからであり、西暦234年以降の事だと思われます。
卞蘭は曹叡の側に仕えていた事から、何度も厳しく曹叡を諫めたとあります。
曹叡は卞蘭に諫められても行いを正す事は出来ませんでしたが、曹叡は卞蘭の忠義心を評価しました。
後に卞蘭はアルコールの摂取し過ぎで、糖尿病になってしまった話があります。
今でいうアル中で糖尿病に掛かってしまったという所なのでしょう。
当時の曹叡は巫女の水療法を信じており、使いの者を出し卞蘭に水を授けました。
曹叡にしてみれば「神の水を授けるから、お前もこれで病気を治せ」という事なのでしょう。
しかし、卞蘭は曹叡が持たせた水を飲もうとはしなかったわけです。
曹叡は不思議に思い、詔勅を出し理由を尋ねると、卞蘭は次の様に答えました。
卞蘭「病気を治すには当然ながら、薬が必要です。
どうしてこんな怪し水で病気が治せるのでしょうか」
卞蘭は曹叡が信じ切っていた神の水を「怪しい水」だと一刀両断しました。
卞蘭の態度に曹叡はムッとしますが、卞蘭は最後まで水を服用する事はなかったとあります。
それでも、卞蘭の病気は進行し、最後は死に至りました。
卞蘭は糖尿病に苦しみながらも、最後まで諫言は止めなかったとも言えるでしょう。
尚、卞蘭が亡くなった時に、曹叡が詰問した事が原因とする噂が流れたようですが「事実はそうではない」と魏略には書かれています。
卞蘭の死は曹叡が自害させたわけでも自刃したわけでもなく、病死だったという事なのでしょう。
曹叡が亡くなったのが西暦239年である事から、それよりも前に卞蘭は亡くなった事になります。