武渉は楚漢戦争で、韓信に独立を勧めた事で有名な人物です。
韓信は魏豹、陳余、龍且を天才的な軍略で破り、斉王となっていました。
項羽は劉邦との戦いで不利な立場になっており、武渉を派遣し韓信の独立を促そうとしたわけです。
武渉が韓信を説得する時の言葉に「天下を三分し」という言葉があり、これが歴史上初の天下三分の計となる様に感じています。
武渉は漢の劉邦、楚の項羽、斉の韓信で天下を三分する様に説いたわけです。
しかし、韓信は武渉の進言を退けた事で、楚漢戦争終了後に身を亡ぼす結果となっています。
今回は諸葛亮や蒯通よりも先に、天下三分の計を口にした武渉を解説します。
尚、史記によれば武渉は盱台の出身の人物だと記録があります。
項梁が楚の懐王を擁立し、都にしたのが盱台であり、武渉はこの頃に項梁の陣に参加したのかも知れません。
項羽が韓信に使者を立てる
韓信は楚漢戦争において、項羽に仕えた事もありましたが、重用されず劉邦の元に行きました。
劉邦は蕭何の推薦もあり、韓信を大将軍とし重用したわけです。
楚漢戦争が始まると、韓信は大活躍し、魏豹を捕虜とし、趙では陳余を背水の陣で打ち破ったわけです。
さらに、斉では策を以って、楚の猛将龍且を打ち破り、楚軍20万を葬っています。
韓信は張良や陳平の進言もあり、劉邦は不本意ながらも韓信を斉王に任命しました。
項羽は劉邦の本軍に対しては、有利に戦いを進めますが、韓信には楚に味方した多くの諸侯が討ち破られ、彭越には糧道を断たれ苦しい立場となります。
こうした状況の中で、項羽は武渉を使者として、韓信の元に派遣しました。
武渉の目的は、韓信を劉邦から切り離し、独立勢力とする事です。
天下を項羽、劉邦、韓信の3つの勢力で分けようと話を持ち掛ける事になります。
天下を3つに分かる案を武渉が出したのか、項羽が考えたのかは不明ですが、武渉が韓信に交渉にいった事は間違いないでしょう。
韓信に独立を勧める
武渉が韓信に言った言葉は、長文であり、ブロックごとに分けて解説します。
劉邦の野望
武渉は韓信に謁見すると、次の様に述べています。
武渉「天下は秦により苦しめられ、皆で力を合わせて秦を討ちました。
秦が滅びると、功績により地を割き王とし将兵らに安息を与えたわけです。
しかし、漢王(劉邦)は兵を起こして関中を併呑してしまい、人の土地を奪いました。
漢王はそれだけに飽き足らず、函谷関を出て東にある楚を攻撃しています。
漢王の心は天下の隅々まで、平定しなければおさまる事を知りません。
漢王の欲望は大きく酷いものです。」
武渉は秦が戦国七雄の諸侯を併呑し、始皇帝の代で統一したと思ったら、労務が過酷であり評判が悪かった事から韓信に語り始めた事があります。
さらに、項羽が18の諸侯を定めたのに、劉邦は大きな野心を持っており、危険人物だと述べたわけです。
これらの会話は戦国時代に活躍した、諸子百家の遊説家も似た様な話をしており、武渉も書物を読んで勉強していたのではないかと思います。
劉邦の人間性
武渉は劉邦の野望を語った上で、劉邦の人間性を語る事になります。
武渉「漢王は信用が出来ない人物です。
項王(項羽)は劉邦を何度も殺すチャンスがありました。
しかし、項王は劉邦を憐れみ殺害しなかったのです。
それにも関わらず、劉邦は危機を脱すると、約束に背き項王を攻撃しています。
漢王は親しみ難い人物であり、信用ならない事が分かります。
今のあなた(韓信)は、漢王に忠義を尽くし、兵を率いて戦っていますが、いずれは捕らえられてしまう事でしょう。
あなたが今日まで生き残ってこれたのは、項王という敵がいたからです。
項王が滅びれば、あなたが捕らえられる日は、遠い日の事ではありませぬ。」
武渉は劉邦の人間性が信用できないと述べた事になります。
ここで武渉が述べた事は当たっており、実際に項羽が滅びて韓信は斉王から楚王に移されますが、1年もしないうちに劉邦は韓信を捕えています。
天下三分の計
武渉は劉邦は野望が大きく、人間性も信用できないと述べた上で、韓信にどうすればよいのかを説く事になります。
武渉「漢王と項王の勝敗は、あなたの決断に掛かっています。
あなたが右に味方すれば漢王が勝ちますし、左に味方すれば項王が勝利します。
項王がいなくなれば、次はあなたが劉邦に粛清される番です。
あたなは項王とは旧知の間柄ですし、漢に背き楚に味方し、天下を三分し一つの王となるべきでしょう。
この好機を逃し、自ら漢を信用して楚を攻撃しようとしますが、智者であれば、その様な事はしないはずです。」
武渉は韓信に独立を勧め、韓信、項羽、劉邦の3人で天下を分ければよいと述べたわけです。
韓信は斉王でしたが、趙の趙歇や陳余を破り、李左車の進言を用い燕王臧荼も帰順させています。
趙、燕、斉と北方で影響力が強い韓信であれば、十分に独立して戦えるとも武渉は考えたのでしょう。
尚、武渉の口から「天下を三分し」という言葉が出ている事から、天下三分の計を進言した事は明らかです。
記録的に考えれば、武渉が歴史上初の天下三分の計を述べた事になるでしょう。
拒否反応を起こす韓信
武渉は韓信に独立を勧め韓信の斉、劉邦の漢、項羽の楚で天下を三分しようと述べたわけです。
しかし、韓信は武渉の言葉を採用せずに、次の様に述べています。
韓信「儂は過去に項羽に仕えていたが、大した役職も与えられず、我が進言も聞き入れられる事は無かった。
私はそれ故に、楚から漢に鞍替えしたのである。
漢王は儂を上将軍に任命し数万の兵を授け、自らの衣を儂に着させてくれた。
食も儂に食べさせてくれたし、建言もよく聞き入れてくれておる。
漢王がいたからこそ、私は今の身分になる事が出来たのだ。
漢王が儂を深く信用しているのに、儂が漢王に背くのはよい事ではない。
例え死んだとしても節義を変える事は出来ない。
項王には、其方の方から断りを入れて貰いたい。」
韓信は漢王への恩義を理由に、武渉の要請を断ったわけです。
韓信は劉邦に対し「斉王」になりたいと言ってみたり、劉邦の不満を溜める様な行動をしておきながらも、武渉の前では忠義を口にしています。
劉邦は腹心の蕭何に対しても疑いを持っていた人物であり、こうした韓信の態度はかなり危険だったというべきでしょう。
韓信は絶好のチャンスで独立をしなかった事で、最後は陳豨(ちんき)を使って反旗を翻しますが、呂后と蕭何の計に掛かって命を落としています。
韓信は脇が甘いと言わざるを得ないでしょう。
韓信は「まさか自分が劉邦に粛清されるわけがない。」と思っていた様に思います。
尚、歴史を見ると武渉の名は、ここで消えてしまいます。
武渉の評価
武渉ですが、弁舌の内容を見ても、韓信を説得する事は出来ませんでしたが、中々の弁舌家だった様に思います。
天下三分の計と言えば、三国志で諸葛亮が劉備に説いたのが有名だと言えます。
しかし、先にも述べた様に天下三分の計を最初に口にしたのは、武渉となるはずです。
この後に、韓信の元にいた蒯通も韓信に独立を勧めますが、韓信は劉邦への恩義を優先し却下しました。
もし、武渉の弁舌で韓信が独立していたとすれば、武渉はもっと知名度が高く有名になっていたはずです。
史記を書いた司馬遷は出処進退に関して多くの事を残しており、武渉の言葉が残ったのも司馬遷の意向が大きかった様に感じました。