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司馬遷は宮刑を受け宦官になってまで歴史書(史記)を完成させた人物

2021年7月25日

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宮下悠史

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司馬遷は史記を完成させた人物としても有名です。

ただし、司馬遷はただ単に黙々と史記を書いていたわけではありません。

司馬遷は李陵を庇った事で、漢の武帝の怒りを買い宮刑を受け、宦官になってしまうなどの苦難もありました。

その様な理由から、史記は司馬遷の執念が籠っているなどとも言われています。

史記の中の話で出処進退に関しては、自分の不幸と重ね合わせたのか、かなりの分量を割いているのが特徴です。

『歴史』の著者でありギリシアやバビロニアなどの記録を書いたヘロドトスは、「歴史の父」と呼ばれていますが、個人的には司馬遷も「歴史の父」と呼ぶに相応しい人物だと感じています。

今回は中国の歴史書・史記の著者である司馬遷が、どの様な人物なのか解説します。

司馬遷は中国の歴史を示す二十四史の最初であり、もっとも評価が高い歴史書です。

司馬遷は「太史公書」と名付けましたが、後の世に「史記」と呼ばれる様になった話があります。

司馬遷の一族

司馬遷の先祖として、確実視されているのが秦の恵文王の時代に、張儀と激論をした司馬錯です。

司馬錯の進言により、は蜀を取り強国になった話があります。

意外に思うかも知れませんが、司馬錯は将軍であり武官をしていたとも考えられています。

秦の昭襄王の時代に白起配下として、長平の戦いに従軍した司馬靳も司馬遷の先祖だと言われています。

始皇帝の時代には、司馬昌や鉄鉱を管理する役職だったと伝わっています。

司馬昌の子が司馬無澤であり、司馬無澤の子である司馬喜は五大夫の爵位を得た話があります。

司馬無澤が司馬遷の父である司馬談の祖父だと伝わっています。

これを考えると、司馬遷の一族は武官の役目もしていれば、文官の役目をもしており、文武両道が求められた家柄だったのかも知れません。

余談ですが、原泰久さんが描くキングダムという秦末期を描いた漫画がありますが、秦の六将に司馬錯が選ばれており、司馬錯の子孫が司馬遷だと考えれば馴染みが深い人も多くなるでしょう。

基本的にキングダムも史記をベースにして物語を進行していきます。

史記は司馬遷が単独で書いたものではない

司馬遷が単独で著したのが、史記だと思っている人も多いかも知れません。

しかし、実際には司馬遷の父親である司馬談が書いた部分もあるとされています。

史記は全部で130巻ありますが、10巻ほどは司馬談が書いたと考えられています。

史記の刺客列伝では曹沫、専諸、豫譲、聶政、荊軻の5人が収録されていますが、司馬談が執筆したとされています。

刺客列伝は決して金の為に暗殺者になったわけではなく、自分を信頼してくれる主の為に、命を賭した行いをピックアップしています。

刺客列伝は物語性も非常に高く、司馬談自身にも卓越した感性があったように感じました。

史記は全て司馬遷が書いたというわけではないと、頭に入れて置くべきでしょう。

旅に出る

司馬遷は20歳頃に中国各地を回る旅にでたと考えられています。

史記の孟嘗君列伝には、「孟嘗君の領地である薛は乱暴者が多かった」などの記述があり、中国の様々な場所を見て回った事は確実でしょう。

沛に行くと劉邦配下の蕭何・曹参・樊噲・夏侯嬰らの生家を見学し、楚に行けば韓信が母親の為に立てた墓を見るといった具合です。

戦国四君に関しては孟嘗君だけではなく、信陵君平原君春申君の地域を見て回った記録があります。

他にも、呉王闔閭と夫差の姑蘇や五湖を見たりしました。

司馬遷は各地を周る事で、見識を高めていったのでしょう。

司馬遷が仕えた前漢の武帝は巡行を多くした話もあり、司馬遷も武帝に付き従って各地を周ったはずです。

司馬遷が史記を書く下地として、各地を巡る旅行があった事は確実でしょう。

司馬遷が史記を書くきっかけ

司馬遷が史記を執筆するきっかけの解説をします。

司馬談の夢を継ぐ

司馬遷の父親である司馬談は、漢の武帝の時代に朝廷の記録を務める太史の役職にいました。

漢の武帝の時代は、衛青、霍去病、李広などの名将が出た事で、匈奴に対して戦いを有利に進め、領土的に考えれば漢は全盛期に達したわけです。

漢の武帝は秦の始皇帝も行ったとされる「封禅の儀」を行おうとします。

しかし、漢の武帝は司馬談に、封禅の儀への同行を許しませんでした。

この時の司馬談のショックは大きく「死なんばかりであった。」とする記述まであります。

死にそうになっている司馬談に、司馬遷が使いから帰ってきて、司馬談と司馬遷が面会する事になります

司馬談の遺言

司馬談は既に死にそうな状態となっており、司馬遷の手を握り涙を流すと、次の様に述べた話があります。

司馬談「私の祖先は周王室の太史だった。

虞・夏の時代に功名をあらわして以来、天官の事を司っていたが、中頃以降は衰えた。

私の代で絶えてしまうのであろうか。

もし、お前(司馬遷)が太史になる事が出来たら、先祖の事業を継いで欲しい。

天子(漢の武帝)は泰山で封禅を行ったが、儂は同行する事が出来なかった。これも運命という他ない。

お前はきっと太史になるから、儂が書きたかったものを忘れてくれるな。」

これを言い終わると、司馬談は周の文王や武王の時代に徳が盛んだった事や、周の厲王幽王の時代に衰えた事。

儒教や孔子の教えを述べた後に、次の言葉を残しています。

司馬談「天下に明主、賢君、忠臣、義士は多い。私は太史でありながら、これらを論評する事が無かった。

天下の史文を廃絶したのを、すまなかったと思っている。

お前(司馬遷)は、この事を念願に入れて置いて欲しい。」

司馬談が話終わると、司馬遷は涙を流し、次の様に述べたわけです。

司馬遷「私はふつつか者ではありますが、聞き伝えを論述し、必ずやご期待に答えたいと思います。」

司馬遷は司馬談の後継者となり、歴史書の執筆を継ぐ決意をしたわけです。

司馬談が亡くなって3年後に、司馬遷は太史令となり、史官の記録や石書を引き出し、読み始めた話があります。

さらに、5年後には史記の執筆に入ったと伝わっています。

春秋の秩序を示す

中国で最古の歴史書は、孔子の春秋だと言われていました。

春秋は夏・殷・周三代の聖王の道を明らかにし、文字数は数万字あるとも言われています。

司馬談は春秋に繋がる歴史書を作ろうとしたとも考えられています。

司馬遷の書いた史記は、春秋よりも遥か昔の時代である、三皇五帝まで遡ってしまいました。

これらを考えても、司馬遷の凄さが分かるはずです。

司馬談が想像したものより、遥かに優れた者を司馬遷は作った事になる様に感じます。

史記は紀伝体と呼ばれる、人物や国を主人公として、掲載している形式なども、後世に与えた影響は大きいと言えます。

尚、司馬遷は春秋にある様な道徳の精神を世に表す為に、史記を編纂したと述べています。

司馬遷は様々な伝記を整理し、歴史書を作りたかったと言うのもあるはずです。

司馬遷が宮刑を受ける

司馬遷は漢の武帝の怒りを買い、宮刑に処せられ宦官となってしまいます。

名将李陵

司馬遷が宮刑を受ける、きっかけになったのが李陵となります。

李陵は武門の家系であり、祖先には秦の統一戦争で活躍した李信がおり、父親は匈奴征伐で活躍した李広です。

漢の武帝時代は匈奴征伐が活発であり、匈奴と激闘を繰り返した時代となります。

そうした中で、李陵は李広利の別動隊として匈奴と戦う事になります。

李陵は匈奴と遭遇すれば勝利し,奥地に向けて進撃しました。

ここで、李広利が率いる漢の大軍は匈奴の本隊とはすれ違ってしまい、別動隊で少数の李陵軍と匈奴の本隊が遭遇し戦う事になったわけです。

匈奴の本隊の兵力は8万であり、李陵の兵は5千しかいなかった話があります。

圧倒的に不利な状況の中で、李陵率いる楚兵は奮戦し、匈奴に大打撃を与えています。

しかし、李陵の軍は兵力的に圧倒的に劣っていた事もあり、李陵は衆寡敵せずで降伏しました。

李陵の行動に漢の武帝は激怒したわけです。

司馬遷が李陵を庇う

漢の武帝は李陵が匈奴に降伏した事に激怒します。

漢の武帝から見れば、李陵の匈奴への降伏は裏切り以外の何物でもなかったのでしょう。

武帝は寛容さに欠けた君主であり、部下の失敗は処刑に繋がる様な人物です。

衛氏朝鮮を攻め楽浪郡を取った時は、将軍たちのゴタゴタがあったとし、衛氏朝鮮を滅ぼしたにも関わらず、将軍たちは罪に落ちました。

武帝に意見する事は非常に危険だったのですが、司馬遷は李陵を庇う発言をします。

司馬遷にとってみれば、李陵が5千の兵で8万の匈奴に立ち向かった事実は、裏切りには見えなかったはずです。

それ故に、司馬遷は李陵を庇ったのでしょう。

司馬遷は非常に正義感が強い人物だったと言えます。

司馬遷が宮刑に処される

李陵の母親や妻子は処刑され、司馬遷は武帝によって宮刑に処される事が決まります。

宮刑を受ければ去勢され、宦官になってしまう事を意味します。

宮刑を逃れる方法は、多額の金額を支払う事が条件でした。

司馬遷もお金を払う事が出来れば、宮刑を受けずに済んだのでしょう。

しかし、司馬遷には払うだけの財力がなく、友人などでも支出してくれる人はいませんでした。

宮刑はかなりの屈辱であり、宮刑を受けずに、死を望んだ人もいた程です。

こうした中で、司馬遷は父親である司馬談の意思を継ぐ事を重視し、宮刑を受け入れます。

史記の伯夷伝

史記の伯夷伝に、次の言葉があります。

ある人はいう、『天道には私心がなく、常に善人に与する。』

この考え方でいけば、善人になれば天が味方してくれると解釈する事ができるはずです。

しかし、司馬遷は武帝の意に逆らい正義感から李陵を弁護しました。

司馬遷の行為は普通で考えれば、善人であるはずです。

ここで司馬遷は主君である殷の紂王を討とうとする、周の武王を諫めた伯夷、叔斉が餓死した事に触れています。

さらに、孔子の一番弟子である顔回は貧しく若死にした話も述べています。

それに対して、古代の伝説的な盗賊である盗跖は、毎日のように人を殺したのに、天寿を全うした。

これらは一体どういう事なのか?と問いかけています。

司馬遷が宮刑を受けた時に、同じような事を思ったのではないかと感じています。

司馬遷は老子や孫子を好んで読んでいた話があるのに、伯夷伝を列伝の最初に置き、2番目に管仲、晏嬰、3番目に老子、韓非子であり、孫子は列伝の5番目に記載されています

功績が殆どない伯夷叔斉を列伝の最初に置いたのは、司馬遷の境遇と照らし合わせた部分が大きいはずです。

司馬遷の思想

史記は紀伝体で書かれている事が分かります。

資治通鑑などが編年体と呼ばれる、年表を軸にして物語を進めるスタイルに対し、

紀伝体は一つの人物や諸侯などにスポットを当てて書く手法です。

司馬遷は紀伝体で書く事で、人物にスポットを当てたとも言えるでしょう。

司馬遷は様々な人物を中心に、史記は物語で動いています。

司馬遷の思想が現れるのが、最後の「太史公曰く」の部分です。

項羽本紀や蒙恬列伝では、項羽の最後や趙高により処刑される蒙恬の苦しみを美しく描いてもいます。

しかし、最後の「太史公曰く」の部分になると、人が変わったかの様に批判しているわけです。

逆に宋襄の仁で天下の笑い者になった、宋の襄公を司馬遷は「太史公曰く」の部分では褒めていたりもします。

これらを考えると、司馬遷は二面的な考えを非常に持っている様にも感じました。

さらに、史記には「遊侠列伝」「貨殖列伝」「日者列伝」などの民間人や「大宛列伝」などの外国の事を書いているのも特徴です。

それを考えると、司馬遷は世界の全てを網羅したかったのかも知れません。

司馬遷は正義感が強い人物であり、出来るだけ正確に記録を残そうとした様にも見えます。

「歴史は勝者によって作られる」との言葉がありますが、司馬遷は極力公正に書くように心掛けたのでしょう。

他の正史が自分の王朝の正統性をアピールする為に記載したのに対し、史記は公正さが見て取ることが出来る様に感じました。

司馬遷の最後

司馬遷の最後は、武帝が亡くなった頃だと伝わっています。

紀元前87年頃に司馬遷は亡くなったと考えられているわけです。

武帝が史記を見たのかは定かではありませんが、司馬遷の史記の中で「孝武本紀」が早くに散逸してしまった話があります。

武帝が史記を見た時に、激怒し散逸してしまったとする説もあります。

しかし、前漢の宣帝の時代には、史記は世に出ており、不屈の名書となったわけです。

現在でも、我々が史記を読める事を考えれば、司馬遷の精神は、現在も生き続けていると言えます。

司馬遷は世界最高峰の歴史家だと言っても良いでしょう。

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